紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き8日目の5(塩名田宿から八幡宿への道)

2度目の中山道8日目の5
4月5日(日)の5


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塩名田宿への道】

13:50 百万遍供養塔
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13:55 諏訪神社
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入り口に男女双体道祖神があります。
祭事があるのでしょうか、御献燈が飾られていました。
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境内には、御嶽神社、石塔群があります。
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13:59 立派なお屋敷
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14:01 如意輪大士碑
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14:04 石碑石塔群 庚申塔など
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向こうに見えているのは、多分八ヶ岳です。

振り返れば、浅間山も見えます。
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進んでいく道はこんな感じ。
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14:13 Y字左へ(中山道道標)
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14:18 駒形神社と駒形坂
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塩名田宿

14:29 釜鳴屋(てっぱ茶屋)
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屋号を掲げた家がいくつかあります。

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14:31 土蔵造りの立派な家
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14:32 丸山煙草屋
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14:32 中津村道路元標
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【問屋・本陣跡】

14:32 問屋・本陣跡
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案内文
「 問屋・本陣跡
(丸山新左衛門家、本棟造、切り妻で入り口が妻側にある)

 塩名田宿 は、江戸から四三里一三丁、二三番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難場のひとつ、千曲川を前に一宿が必要として北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に四〇軒ほど移して形成した(慶長七年=1602)。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政一二年(1800)の宿内総家数は一二六軒。
 問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦六年(1756)に再建されたが現在は御殿部分が改装した住宅になった。丸山家には宿場関係史料が多数保存されている。 」


14:33 花街塩名田 案内板
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案内板
「 花街塩名田

 塩名田が活気を帯びてくるのは明治三〇年代(1897-1906)になってからであろう。八幡から料理業二人が移転して営業、新角屋は上等の芸妓屋で三二年に塩名田一流の料亭として開業して四四年に新築して名声が挙がった。塩名田が花街として形成された要因は、地理的に北佐久郡の中央、千曲川の川畔にあり、当時の交通事情も良好で、他地域より営業に参加し易かったのであろう。また商家もここへ営業を求めてつめかけていた。志賀銀行支店・肥料会社。製糸工場もできた。劇場『塩名田座』も出現した。住民は養蚕に精を出し始めた。昭和三年(1928)時点で川原宿 に五軒、中宿に三軒があった。しかし、昭和一〇年代になると、いままでの平穏な世相は一変してしまって、三味線の音も消えていった。」


トイレの表示があったので、道を渡ってトイレへ行きました。
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【高札場跡】

14:37 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

江戸時代は、宿の街道筋の真中を塩名田用水が西から東へ流れていて、高札場が用水をまたいで設けられていた。そこには五枚の高札があり内容的には、宿継の人馬賃金、親子兄弟間の道徳、毒薬偽薬、などが掲げられていた。明治九年(一八七六)三月、公用の伝達掲示にと桂製で総長七尺五寸、内のり六尺二寸の物になった。また道路拡張のために北へ後退し用水路は路肩にふたをされた。高札場は現在公用掲示場に利用されている。 」

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案内板
「 佐越(さごし) 佐藤家住宅

佐藤家(半左衛門)は、塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝える。天保二年(一八三一)正月『家別間数改帳』によると、間口七間半。入側(いりかわ)四畳、上段八畳、中間(なかのま)一〇畳、小座敷九畳、茶間一七畳、見世(みせ)九畳、土間二一坪、料理間四畳半をもつ。ほかに板の間などがある。家の裏側には庭があって、土蔵・物置・湯殿各一、雪陰二か所と井戸を配置する。 」


14:39 えびや豆腐店
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とってもおいしい炭酸水豆腐屋さんだそうです。

「かえるのひとりごと」(脱サラして軽井沢でキッチンを開いているぽんきちさんのブログ)より

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Vol.524 海老屋豆腐店
2007/12/10 23:57

えびや豆腐店海老屋豆腐店は旧中仙道、塩名田宿(しおなだ)の古民家を店舗としている。建物は江戸時代後期のもので、かつて横浜の眼科医が避暑の館として使用していたものを70年程前に先代が買取って豆腐屋を始めたという。看板の文字は擦れかけ、入り口のガラス窓にかつて書かれていただろう「とうふ」「油あげ」などの文字も一部が消えてしまっている。旧浅科村の街道筋にあるこの古びた豆腐屋のどこが「お気に入り」かと言うと、、、。

取りも直さず、ただひたすら豆腐と油揚げが「旨い」のだ。旨いだけではない。ほのかに甘味もある。国産の大豆と浅科の清らかな水、天然のにがりだけで作ったからだろう。旨い豆腐には醤油も薬味もいらない。天然の塩をちょっとつけて食べる。それだけで充分だ。

老夫婦が暗いうちから大豆を茹で作った豆腐と油揚げはいつも午前中で売切れてしまうという。我々がやっとこの店を見つけた時豆腐は最後の一丁だけだった。

メディアの取材も頑なに断っているらしい。広告宣伝一切なし。ホームページなどあるはずもない。ただひたむきに昔ながらのやりかたで作れるだけの豆腐作り、売り切れたらおしまい。それでも客は列をなして海老屋の豆腐を買いにくる。

同じ食品製造業を生業とするものとして身につまされる思いだ。

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14:40 矢印に沿って右下へ
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【三階建て住居群】

14:41 十九夜塔
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14:42 「三階建て住居群」案内板
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案内板
「 三階建て住居群

塩名田の『川原宿』には所どころに情緒豊かな三階建て住居がある。通称『お滝通り』に立ちどまると気づく。
昭和六年(一九三一)に中津橋が従来の木造橋から鋼プラットトラス橋に架け替えられた。そのため、極道が以前より高い場所を通過することになって純粋な三階建て住居とは別に、国道沿いの家では既存の二階建てに、更に二階を増築し、四階建てとして国道に出入り可能にした住居もある。また、橋や国道へ上がるための階段も所どころに設けられた。 」

亀家 三階建て
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14:44 川魚料理 竹廻家
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「K部長の美味しいブログ」(軽井沢在住のグルメなKさんのブログ)より

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【竹廼家】さんは中山道の23番目の宿場《塩名田》のはずれ、ゆったりと流れる千曲川をお部屋から見下ろすことができる素晴らしいリバービューの川魚料理屋さんで、ハヤ料理が名物です。
愚か者のKは、川魚料理では天然物の鮎やヤマメが格上と思いこんでいたのですが、ある時東京で浅科村出身の方と伝説の名店【竹廼屋】談義をしていたところ「地元の人はみんな竹廼家さんへ《天丼》を食べに行くのだ!」とお聞きして、仰天しました。

なんで信州の山奥で天丼なのか?と思いましたが、よくよく伺うと、天丼は天丼でもハヤの天ぷらを乗せたどんぶりが名物とのことで、またまたびっくり。
そこで、再度おじゃまして天丼をいただきましたが、ほろ苦くこってりしたハヤの天ぷらと少し辛目のたれがかかった五郎兵衛米は相性抜群でメチャクチャおいしくて、さすがに地元の人は良く知っているものだと感心したものです。

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【中津橋 舟つなぎ石 塩名田節】

中津橋が見えてきました。
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川端から橋に上がるには、橋を潜ってからこの階段を上ります。
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14:46 中津橋 浅間山が綺麗に見えます。
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14:48 舟つなぎ石案内板

舟つなぎ石は川原にあったのですが見ないで橋に上がってきてしまいました。

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ここに舟つなぎ石の案内板があるのですが、劣化して読めないので、佐久市のホームページから説明を引用します。

佐久市ホームページより

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江戸時代、塩名田宿付近の千曲川は、流れも急で、洪水のたびに橋が流されていました。さらに、橋の架けなおしには負担も大きかったことから、一時舟渡しも行われましたが、不都合も多く、結局、橋を架ける方式がとられ、幕府は、橋を維持するため、佐久・小県郡内の村々で組合を組織させ、これにあたらせました。
明治に入り、組合での維持管理ができなくなってしまい、新たに船橋会社がつくられました。この会社では、明治6年1873年)に千曲川に九艘そうの船をつないで、その上に板を架けて橋とする「船橋」方式により渡川を確保しました。
その際、船をつなぎとめるために使われたのが、上部に穴を開けた大きな岩石で「舟つなぎ石」を呼ばれています。
その後、明治25年(1892年)に木橋が架けられたことから、船橋とともに舟つなぎ石はその役割を終え、現在では、船橋時代の苦労を物語る歴史遺産として、千曲川の流れを静かに見つめています。

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ここからも浅間山が綺麗に見えます。
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14:48 塩名田節の碑
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「塩名田名所は
千曲川 
次に名所は
滝の水 
ハーヨイショ 
駒形様の厄おとし 
涼味ゆたかな
中津橋

平成八年十二月 」


【加宿 御馬寄】

14:51 御馬寄(みまよせ)バス停
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御馬寄の名は古代に馬を集める牧場があったからだそうです。

御馬寄は、塩名田宿の加宿だそうです。


wikipediaより

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加宿(かしゅく)とは、主に江戸時代、五街道脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。

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御馬寄辺りの家
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ここからは緩い上り坂で、国道がやや右に曲がる付近には一部昔の旧道部分が残っているのですが、今回は二回も旧道を見逃してしまい、見のがしてしまった旧道には、見たいと思っていた大日如来像と芭蕉句碑もあったので、残念。

11年前のブログより

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旧道に入り、坂を上っていくと、白い腹かけと白い帽子(給食当番みたいな)の大日如来像がありました。

大日如来像は二ヶ所にあったらしいのですが、私は二つ目の大日如来像しか気付きませんでした。隣には、芭蕉句碑がありました。

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14:59 ここが見逃した旧道の出口かな?
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11年前に見た大日如来
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15:00 御馬寄の一里塚跡
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日本橋から44番目の一里塚。


15:05 立派な門
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15:10 生井大神と馬頭観音
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生井(いくゐ)大神は井戸の守護神。
馬頭観音は、文政十一年(1828)建立。

15:12 中山道道標 浅間山が見えます。
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2度目の中山道8日目の6(八幡宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/13/112640


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003