二度目の中山道25日目の9
2020年10月12日(月)の9
【本陣南部家】
13:39 本陣南部家「風雅の道」
案内板
「 柏原宿本陣、南部家『風雅の道』
二十世・中興四代 辰右衛門実村
(俳号 ) 流木堂江水
芭蕉と同じ時代の人。ともに、貞門の流れを歩み、数冊の句集を編纂。
『元禄百人句』
次の夜は唯ひとりゆくすゞみ哉
江水自作
『柏原句集』
江水亭にて(前書)
しら梅の花より上はいぶきかな
北村季吟門下、芭蕉相弟子
大垣 谷木因
芭蕉の門人との交流も厚かった。
江水亭にて(前書)
行暮れて蚊屋釣草にほたる哉
芭蕉十哲の一人
美濃 各務支考
『奥の細道』に登場。随行の門人曽良の日記や敦賀の門人等栽との連歌にも、江水の名がある。
二十五世・中興九代 辰右衛門実堅
井伊直弼側近。
長野主膳国学塾『志賀谷高尚館』門人
(主膳は南部本陣でも講義)
(伊富山観音護国寺奉額百詠)
萬代の 霜をかさねて 住みよしの
きしの姫まつ 神さびにけり 」
南部家の二十・中興四代辰右衛門実村及び二十五世・中興九代辰右衛門実堅の詠んだ句歌が紹介されていました。
こちらは、2016年に撮った本陣南部家。
13:40 本陣 南部辰右衛門
皇女和宮泊
後に夫君徳川家茂も宿泊しました。
案内板
「 柏原宿本陣跡
本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。 柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。 間口はこの家の両隣りを合せた広さで、屋敷は五百二十六坪、建坪は百三十八坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。 明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。 その後建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。 」
案内板
「 本陣年寄 明治天皇行在所
十四代将軍徳川家茂(和宮夫君) 第二次長州征伐途上慶應元年閏五月十四日柏原宿本陣宿泊 」
13:40 戎の宮 市場寺跡
【青春の思い出の橋】
13:40 高札場(札の辻)跡 秋葉常夜燈
案内板
「 高札場(札の辻)跡
高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。 高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計八枚が懸かっていた。 高札場は、道沿いの長さ四.八メートル、高さ○.九一メートルの石垣を築き、その上に高さ三.三三メートルの高札懸けの建物があった。 なお柏原宿には、出町(小字)長沢にも小さい高札場があった。 」
13:40 市場橋 これが「初恋橋」だったはずですが、何もその表示もありません。
2016年のブログブログを見てみました。
2016年のブログより
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2016.8.31.
市場川にかかる市場橋の案内板
「 吉村公三郎監督の『初恋橋』 若き日の思い出の橋 監督作品『地上』(川口浩・野添ひとみ共演)を生んだ。」
先程の本陣より数軒向こう側に問屋場跡があり、映画監督吉村公三郎の祖父の代まで庄屋と問屋場を兼ねていたそうです。
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【造り酒屋】
13:42 立派な家
13:43 造り酒屋 巌佐九兵衛跡
13:44 造り酒屋跡
案内板
「 造り酒屋跡
柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合せ百五十石が許可され、数軒の店が酒造りに励んだ。 当家は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。江戸後期に一時醤油醸造に転業したが、明治初めに造り酒屋に戻った。 」
13:49 日枝神社
【西の荷蔵跡 柏原銀行跡】
13:51 西の荷蔵跡
案内板
「 西の荷蔵跡
運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。 この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿東部にもあった。 なお、当宿は、寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。 」
13:52 柏原銀行跡
案内板
「 柏原銀行跡
明治三十四年(一九○一)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は、同業・旅篭屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。 中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、その当時も多くの商店が立ち並び、国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と岐阜県隣り村今須村地域の中心地であった。 柏原銀行の支店出張所は、米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県隣り村今須にも設置された。 その後、米原・野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(一九四三)、滋賀銀行に合併する迄の四十二年間、この地方の産業活動を支援した功績は大きい。 」
現在は、東部デイサービスセンターはびろ、として利用されています。
13:53 「やくし道」道標
「従是明星山薬師道」
案内板
「 やくし道道標
最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。 太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。 この道標は享保二年(一七一七)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。 出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。 」
柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家
郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用された。 」
13:57 金比羅山常夜燈
13:58 柏原一里塚跡
復元の柏原一里塚
案内板
「 (復元)柏原一里塚
一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。
慶長九年(一六○四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。 そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。 工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、五間(九メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。 おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。 柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。 (現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。) なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。 」
14:02 西見付跡
案内板
「 西見付跡
柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。
この地点の海抜高度は、一七四メートル。(磨針峠は一五四.二メートルで、ここより低い。) 彦根城と比較すると、天守閣の上に天守閣を更に一つ、大垣城では、なんと六つ積み上げないと、ここの高さに届かない。
柏原宿は、東見付まで十三町(一.四キロ)。長く高地の町並みが続く。 」
二度目の中山道25日目の10(柏原宿から醒井宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/20/005106
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003