岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道4日目の3(熊谷宿)

2度目の中山道4日目の3
3月9日(月)の3


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【熊谷宿です】

11:39 熊谷駅手前の踏切
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11:48 銀座一丁目交差点
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12:06 ジョナサンでランチ
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12:31 古い家
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12:36 「中山道と熊谷宿」案内板
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案内板
中山道と熊谷宿

熊谷を通過していた『中山道』。中山道は古くは東山街道と呼ばれていた。慶長六年(一六〇一)に江戸幕府により宿駅・伝馬制度が整備された五街道の一つで、日本橋から京都三条大橋までの約五三二キロメートル、六十九宿(草津と大津の宿場は東海道と重複)の行程であった。
『熊谷宿』は六十九宿のうち、(江戸・日本橋)から、板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣の後に至る八番目の宿場町であった。
江戸時代、中山道と久下の長土手を描いた渓斎英泉『熊谷宿八丁堤景』からもその様子を見ることができる。寛文年間(一六六一〜)の熊谷の古地図には、宿場は東西九町六間(約九九二メートル)との規模が示され、寛政一二年(一八〇〇)の『熊谷宿往還通明細書上』には、戸数が九三七戸、人工が三二七六人と当時の状況が記されている。
当初、本陣は本町一丁目の竹井新右衛門家と本町二丁目の鯨井久右衛門家の二軒であったが、享保八年(一七二三)に竹井家だけとなった。その後、竹井家の他に、安永年間から石川藤四郎家が本陣を担うようになった。
竹井家は、天正年間から熊谷にて代々本陣を務めた旧家として知られている。竹井本陣は、明治十七年に門を残して焼失し、後年、縮小して建替えられたが、昭和二十年の戦災で再び焼失した。嘉永二年(一八四九)の竹井家を描いた『本陣絵図』によると、面積は四九六〇㎡、建築面積は二二八一㎡、畳数一〇三畳で、全国でも屈指の規模を誇っていた。
熊谷宿の歴史は、『六斎市』や『熊谷八坂大祭(うちわ祭・熊谷八坂神社祭礼行事)』などの祭礼とも関わりが深い。江戸時代、周辺の村々から生産された農作物や木綿織物などを売る市場が中山道の両側に作られた。高城神社や熊谷寺の門前市も開かれ、六斎市が人々の間に定着されていった。また、熊谷八坂大祭は、愛宕神社に合祀された八坂神社の祭礼で、江戸時代初期には各町内で催された。その後、寛延三年(一七五〇)、町民の請願により全町一斉での神輿渡御が開始された。江戸時代後期には、赤飯ふるまいが熊谷宿の風物詩となる。明治時代になり山車・屋台の巡行が始まり、祭礼の名称となるうちわの配付が人気を博した。この華やかな祭礼行事は中山道と共に育まれ、現代へと継承されている
その他、中山道沿いには、札の辻跡や久下の権八地蔵、英泉の絵に描かれた『みかりや』、竹井本陣の別邸として築かれた『星渓園』、秩父道志るべ、新島の一里塚などの文化遺産があり、街道のひとつで歴史を今に伝えている。

平成二十八年三月一日
熊谷市教育委員会

12:36 札の辻跡
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案内板
「 『札の辻跡』(熊谷市指定文化財 史跡)

昭和二十九年十一月三日指定

札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・街道など人目を引く所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間に記された『見世割図面写』により、場所・大きさなどが推定できる。
 場所については、『町往還中程に建置申候』と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれている。この説明から、高札場は現在の大露路通りと中山道の交差する道の中央辺りにあったことが推察できる。高札は、高さが一丈一尺(二・三メートル)、横幅が六尺四寸(約二メートル)の大きさであった。高札一四枚は市指定文化財として保管され、中山道の歴史を知る資料となっている。札の辻は、中山道の記憶を今に伝える史跡として貴重な文化財である。

平成二十七年三月 熊谷市教育委員会


12:39 熊谷宿本陣跡
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案内板
「 本陣跡(熊谷市指定文化財 史跡)

昭和二十九年十一月三日指定

 本陣は、江戸時代初期の寛永十二年(一六三五年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれた休泊所である。諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別な旅館でもあり、門・玄関・上段の間を設置することができ、旅籠屋などの一般の旅館とは区別されていた。
また、本陣を担った経営者も土地の豪家で名字帯刀を許されることが多かった。
 熊谷宿の本陣のうち、街道の南側、本町一丁目の西端に位置していたのが『竹井本陣』であった。敷地一六〇〇坪、建坪七〇〇坪、四十七部屋を有する、国内屈指の規模を誇る本陣だった。しかし、明治の火災と、終戦前夜の空襲で失われ、現在では本陣跡が残されるのみとなった。本陣の西には、竹井本陣別邸だった市指定名勝『星溪園』があり、その当時の面影を今に伝えている。

 平成二十七年三月 熊谷市教育委員会


【デパートの中を通る中山道

12:42 八木橋デパート
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気温が18.4℃ですね。
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中山道は、八木橋デパートの中を通っています。

11年前のブログより

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熊谷市内には、デパートの開店時間限定の道があります。旧中山道が、八木橋デパートの中を通っているのです。

八木橋デパートの前の駐輪場辺りに、旧中山道跡の碑があります。
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デパート1階と言えば、お馴染み、化粧品売り場。化粧品やバッグを売っている、天井も壁も照明もあって、床がピカピカな…ここも中山道
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そして向こう側に抜けて振り向くと、建物左脇に旧中山道跡の碑。
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開店時間に通ることが出来てよかった!

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11年前のブログは、2度目よりも新鮮な驚きが描かれているので引用しました。写真や絵手紙は、今回撮ったり描いたりしたものです。

八木橋デパート前の中山道碑の横に、宮沢賢治の歌碑があります。
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熊谷市宮沢賢治の歌碑

「 tkominami.のページ 」より

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賢治が秩父地方を訪れたのは、大正五年九月二日から八日迄である。賢治が盛岡高等農林学校に在学中のことで、関豊太郎教授、神野幾馬助教授に引率された二十三名の学生が秩父地方の地質、土壌、林業の調査を目的とした研修旅行であった。(中略)

 賢治一行は午後三時半頃には熊谷に到着し、松坂屋旅館に宿泊した。その時に賢治が詠んだ歌碑は、八木橋デパート前の『旧中山道跡』という大きな記念碑の横手にひっそりと建っている。この歌碑は平成九年九月二日に「くまがや賢治の会」が中心となり建立された。


熊谷の連生坊がたてし碑の

     旅はるばると泪あふれぬ

 これは自然石のままの背面に刻まれた短歌である。賢治は小さい頃から石や岩石を集めるのが好きで、岩石を砕くハンマーまで持ち歩き「石っこ賢さん」と呼ばれ、押し入れに沢山の石ころを仕舞っていたらしい。これは、そんな賢治に似つかわしい歌碑ではなかろうか。

賢治は浮世絵と歌舞伎が好きで、上京の折には歌舞伎座へも出かけたようだ。しかし、賢治は「熊谷陣屋」の歌舞伎を見知っていたかどうかは定かではないが、「一ノ谷の合戦」で熊谷次郎直実公が、弱冠十六歳の平家の若武者敦盛公を討ち果たしたことは知っていたに違いない。直実公は自分が討ち果たした敦盛公の供養塔を建てた。この短歌は賢治が熊谷寺を訪れて、「連生坊がたてし碑」に心を動かされて詠んだものであろう。

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八木橋デパート前の宮沢賢治の歌碑はもうひとつあり、

「 武蔵の国熊谷宿に蠍座

    淡々ひかりぬ九月の二日」

という歌碑ですが、こちらは写真に撮りませんでした。


【一番街アーチを抜けて】

12:45 一番街アーチ
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案内板
「 旧中山道

中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで江戸の日本橋から京都の三条大橋までの街道です。日本橋を出ますと、中山道には六十九箇所の宿場が置かれ、近江の国・草津宿東海道と交流しました。熊谷宿は、中山道のうち日本橋を出発してから八番目の宿場となります。」

12:53 八坂神社
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12:54 国道17号線と合流。
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13:19 左斜めへの分岐
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【新島の一里塚跡】

13:22 新島の一里塚跡
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11年前に来たときはケヤキがありましたが、今は伐られていました。

2009年4月8日に撮った新島の一里塚跡
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 案内板
熊谷市指定文化財史跡

一里塚

指定年月日 昭和二十九年十一月三日
所在地 熊谷市大字新島

この一里塚は、旧中山道の東側に築かれたもので、今でも高さ十二メートル、樹齢三〇〇以上のけやきの大木が残っています。
慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は江戸日本橋を起点に、東海道中山道など主要な街道沿いに旅の道のりの目印とするため、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚を設けました。
当時は、中山道の両側に五間四方の塚を築き、榎などが植えたといわれますが、西側の石原分の塚は現在残っていません。
宝暦(ほうりゃく)六年(一七五六)の『道中絵図』には、熊谷地区では、久下新田・柳原(現在は曙町)・新島に一里塚が描かれ、『榎二本づつきづく』とあるが、現存する新島の大木は不思議なことにけやきです。

平成十二年九月 熊谷市教育委員会

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案内板
「 一里塚のケヤキ

平成22年9月及び平成30年9月の豪雨により、市指定文化財・史跡である一里塚のケヤキの枝が折れ、樹木の大半が失われてしまいました。その後、樹木の補修を行いましたが、樹勢が回復することは無く、根元から伐採せざるを得ない状況となりました。在りし日のケヤキを懐かしく思い起こしながら、一里塚の歴史を後世に伝えていきましょう。

令和元年11月 熊谷市教育委員会

13:25 忍領(おしりょう)石標
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案内板
「 埼玉県指定文化財旧跡

忍領石標(おしりょうせきひょう)

指定年月日 昭和三十八年八月二十七日
所在地 熊谷市大字石原

『 従是南忍領』と彫られたこの石標は、忍藩が他藩との境界を明らかにするため十六箇所に建てたものの一つです。初めは木材を用いていましたが、安永九年(一七八〇)に石碑として建て直されました。その後、明治維新で撤去されることとなりましたが、昭和十四年(一九三九)に再発見され、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
 また大字石原字上植木には、『従是東南忍領』と彫られた石標がもう一基ありましたが、そちらは現存していません。

平成十三年十一月 熊谷市教育委員会


この案内板の最後に、字上上木の石標について、「そちらは現存していません」とありますが、「熊谷市文化センター3階・歴史展示コーナー」に上半分を崩した石標が実在しているそうです。

13:33 Y字路を右へ
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普通、Y字路があると、細い方に鈴村ことが多いのですが、ここは太い道へ進みます。

13:42 久保島歩道橋を渡って右側へ行きました。
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13:45 分岐を右斜めへ
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13:49 不動尊
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お堂の中の不動尊の写真、ピンぼけしか撮れなかったのですが、「えっ、こんなに小さいの?」
と驚いたので、ピンぼけ写真を載せておきます。
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14:00 地蔵尊
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14:03 熊谷市玉井団地
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球形のモニュメントが印象的です。

14:08 観音堂境内の石仏石塔群
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2度目の中山道4日目の4(深谷宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/01/194839