二度目の中山道25日目の10
2020年10月12日の10
【鶯ヶ原】
14:03 松並木
14:04 東山道入口と九里半街道案内板
案内板
「 東山道と九里半街道
(古道東山道の道筋)
東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿墓参道入口のある谷間で、中山道と別れ山越えする。
徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。
JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。
(九里半街道)
中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。
牧田から米原湊までの行程は九里半あった。 関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は、この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。 」
この辺りの景色
14:08 鶯が原
案内板
「 鶯が原
『木曽路名所図会』(文化二年〈一八○五〉)に、
長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に
至り、柏原の宿に着く。
また、 太田道灌、江戸から京都への旅日記『平安紀行』(文明十二年〈一四八○〉)に、
鶯の原といふ所にて
聞まゝにかすみし春そしのはるゝ
名さえなつかし鶯の原
道灌は、この旅で寝物語の里(現米原市長久寺)でも一首詠んでいる。道標に有り。 」
鶯ヶ原の辺りの景色
14:11 掃除丁場と並び松
案内板
「 掃除丁場と並び松
掃除丁場とは、街道掃除の持場・受持区域のこと。 貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。
丁場の小さい所は、伊吹上平等村で一五メートル、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で四八八メートルもあった。
江戸時代の柏原宿では、松並木のことを『並び松』と呼んでいた。
また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治五年の調査から逆算、幕末には約四五○本植えられていた。 」
14:15 白山神社
14:15 立派な家
【小川の関】
14:19 柏原宿枝郷長沢(ながそ)
小川の関跡
案内板
「 小川の関
『坂田郡志』に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小黒谷、大字梓河内小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。
一面どこも植林され、あるいは原野となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。 したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡『館跡』を確認することができる。
米原市・米原観光協会 」
案内板
「 菖蒲ケ池跡
君が代のながき例しに長沢の
池のあやめは今日ぞ引かるゝ
大納言俊光
『此の池の芹、名産なり。相伝う。古昔二町(二一八メートル)四方の池なりと。 今は多く田地となりて、漸く方二十間(三六メートル)計りの池となれり。』
享保十九年(一七三四)『近江與地志略』
その後、天保十四年(一八四三)には、『菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。』と 『中山道宿村大概帳』 江戸後期には消滅したようである。
『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。 」
この後、この分岐の右側に行くのが旧中山道の正解の道なんですが、今回は間違えて左側に行ってしまいました。
でも、2016年に歩いたとき、怖かったので、間違えてよかったと思います。
2016年のブログより
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【小川の関と土道トレース】
2016.8.31.
写真は小川関跡。
不破関以前に設けられた関で、小川(こがわ)、粉川、古川とも呼ばれたそうです。
小川関跡からY字路右の土道に入ります。
写真のような林が見えてきて、暑かったので、木陰に入るのが嬉しい。
しかし、暫く行くと廃車が数台置かれていて、なんだか怖くなり、その先に倒木が道を塞いでいて、その先は湿地みたいに足元が悪くなり、急に怖くなってきました。
涼しくて天国と思った林の中の土道が、急に怖くなってくると、早くこの林から抜け出したくなります。
妖怪とか霊とかの怖さではなく、人の怖さですね。
過去、峠道などで怖い思いをしたのは、なぜそこに人がいる?というときに怖いのです。
林業とか、山登りや、私のような街道ウォーカーなら山道にいても普通ですが、理由なくそんなところに人がいると、怖い。
私の被害妄想かとも思いましたが、東海道の宇津の谷峠で車が入れる一番奥で大音量でカーステレオつけてなにもしていない人がいてとても怖かった話をしたら、長男も「それは怖いね」と同意してくれました。
今日も土の道の終点あたりに車が入ってきて、車から降りてきた人がいたので、むしろこちらから「おはようございます」と声をかけました。
向こうは向こうで、そんな暗い林から人が出てきたんでびっくりしたんでしょうね。返事は返ってきませんでした。
その暗い土道の途中に、写真の、館跡の碑がありました。
東山道時代に館があったのだそうです。
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【番の面遺跡】
14:26 番の面遺跡
案内板
「 番の面遺跡
番の面遺跡は、昭和三○年に京都学芸大学(現、京都教育大学)により発掘調査が実施され、後方の小高い丘陵から近畿地方で最初の縄文時代中期末(約四○○○○年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・石器などが発見されました。
竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その底面をたいらに整えて床とし、上部に屋根をかけたもので、番の面遺跡で発見されたものは一辺の長さが四m前後の方形をしており、その内に四本の柱の穴と、中央に炉の跡と思われるくぼみ(○.七×○.五m)が一個ありました。
土器は、中型の甕と思われる破片が多く発見されましたが、文様などから関東地方と深いかかわりを持っていたと思われ、また、石器類は、石鏃(矢の先に付けた矢じり)、石錐(いしのきり)、石斧(いしのおの)などが発見されましたが、石鏃の中には中部山岳地産の黒曜石で作られたものも含まれており、広い交流圏を持った遺跡といえます。
平成六年十二月
山東町教育委員会 」
14:28 地蔵群
14:29 地蔵群
案内板
「 小川の関地蔵菩薩
小川の関は、古くは律令時代(西暦七〇〇年代)より東山道の要所。江戸時代には五街道の一つ中山道の要所として多くの人ご利用してきた道です。その道を通る人々を、いつもあたたかく見守られてきたお地蔵様です。
地蔵菩薩の二十八利益の中に
○ 去処盡通 赴く場所に うまくいく
○ 疾疫不臨 疫病にかからない
○ 無盗賊厄 盗賊に遭わない
○ 衣食豊足 衣類食物に不自由しない
と言ったような旅に不可欠なご利益が在ることことから道行く旅人がお地蔵様に旅の安全を祈願したと思われます。
車社会に変った現代では道中の安全より日々の安穏を願うお地蔵様として地域の人たちからお守りされています。
御真言
おん か か か び
さんま えい そわか
令和二年 八月吉日
石田光書 」
この「小川の関地蔵菩薩」の案内板は、令和二年八月吉日の日付が書いてありますので、私がここを訪れたほんの少し前に設置されたものなんですね。
14:31 慈国寺
14:34 八王子神社
【剥げた天使】
14:39 旧梓河内村 廃ホテル
2009年に中山道全行程、2016年に太田宿から草津宿(一部を除く)を歩きましたが、あそこってどこだったかなあ、もう一回要ってみたいなあ、という場所がいくつかあり、そのひとつがここでした。
柏原宿と醒井宿の間、梓川沿いの旧梓河内村。大昔(バブルの頃?)のラ◯ホテルが廃屋のまま残っていて、サイゼリアみたいな天使の絵が壁に描いてあり、川沿いの道はのどかなのに、天使の廃屋は違和感がありました。今回ここにやってきて、
「あ、ここだ、ここだ!」
と嬉しかった。
以前来たときは壁の絵も鮮やかだったのに、すっかり剥げ落ちていました。
大きな建物を解体するのには費用がかなりかかるので放置されたままなんだと思いますが、この先何年もこのままなのかなあ。
2016年のブログより
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ラファエロの天使のような絵が散りばめられたホテルは、昭和村に展示したいぐらいです。
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と書いているので、当時は剥げていない、きれいな壁画だったのだと思います。
14:41 推定横川の駅家(うまや)跡
案内板
「 推定横川の駅家跡
古代律令国家は,畿内から全国に,東海道・東山道・北陸道・山陰道,山陽道・南海道・西街道の七道と,30里(約16km)ごとに駅家を設けました。 近江の東山道には勢多(大津市)、篠原(野洲市)、清水(東近江市)、鳥籠(彦根市)と横川(米原市)に駅屋が置かれました。 米原市内にあった横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説があり、梓河内には小字『馬屋ノ谷』『馬屋ノ谷口』や、横川に略称とされる『小川』などの地名があることから、古代東山道の横川の駅家跡と推定されています。
この界隈、左側の廃ホテルは見ないで右側の梓川だけ見て歩けば、懐かしい日本の風景のような美しい道です。
こちらは2016年に撮った写真です。
14:42 松並木
左側を歩くために、気をつけて国道を渡りました。
14:52 斜め左へ
14:56 八幡神社
14:58 地蔵堂
14:59 一色の一里塚跡
江戸から116里目の一里塚です。
15:00 等倫寺
15:03 地蔵堂 うしろに石塔群
【梨汁ブッシャー事件】
15:04 佛心水
案内板
「 佛心水
仏教用語で『佛心』とは、仏の心、大慈悲(心)ことをいいます。
中山道 馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願して、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸には、旅人の喉を潤すだけでなく、御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられます。
他に事例が見当たらない事、中山道の要所にあることから、非常に貴重なものだと思われます。
地縁団体 一色区 」
今日の最終宿場、醒井(さめがい 滋賀県)にまさに入ろうとした時、
「梨汁ブッシャー事件」が起きました。
ふなっしーや、果物の梨には一切関係ありません。私の脳内で、
「梨汁ブッシャー!」
と叫んだのです。
昨日から足裏、親指の下の、肉球的な辺りに豆が出来始めていたのですが、踏み潰しながら歩いていました。
それがここへ来て、右足の豆が潰れたのです。その瞬間の衝撃は、まさに
「梨汁ブッシャー!」
でした。
歩けない。よたよた道の端(佛心水の横)までたどり着き、リュックをお尻の下に敷いて座り、膝の角度を90度に近い状態にして、左足の膝の上に負傷した右足を置き、靴下を脱いで、傷絆創膏を貼りました。
左足の豆は潰れてはいなかったのですが、痛み緩和と潰れないように予防に左足にも傷絆創膏を貼りました。
絵は、左足の治療中です。
絆創膏を貼っても、歩き始めは痛かったのですが、だんだん慣れました。
15:15 鶯ヶ端
案内板
「 鶯ケ端
ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。 平安時代の歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も
旅やどり ゆめ醒井の かたほとり
初音もたかし 鶯ヶ端
と詠んでいる。 」
鶯ヶ端から見える景色、2016年はこんな感じでした。
二度目の中山道25日目の11(醒井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/21/162443
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003