二度目の中山道25日目の11
2020年10月12日(月)の11
【醒井(さめがい)宿入口】
15:16 東桝形跡
案内板
「 見附跡、枡形
醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(八七六m)が醒井宿であった。 東の見附のすぐ西は、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に直角に曲がる、枡形になってる。 枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。 」
15:16 醒井宿碑と分間延絵図
紅殻の家
蔵造りの家
【居醒の清水】
15:22 加茂神社 居醒の清水
米原市地域情報ポータルサイト「まいばらんど」より
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米原市醒井で湧き出る清水の袂に鎮座する「加茂神社」
加茂神社は米原市醒井に鎮座する神社です。すぐ近くには醒井の湧き水「居醒の清水」がいつもコンコンと湧き出ています。この水は古代日本皇族であるヤマトタケルノミコトが伊吹山の神との戦いに敗れ、醒井の地で湧き水により一命を取り留めたという伝承が残っています。
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こちらは2016年に撮ったヤマトタケル像
腰掛石
鞍掛石
紫石燈籠 水汲み場
本当にきれいな泉で、この泉なら、ヤマトタケルが体を癒すことが出来たのも納得できます。
石仏群
案内板
「 石造地蔵菩薩坐像
花崗岩を丸彫りした半跏像で、その彫刻の特徴から鎌倉時代後半の製作であろうと考えられます。 総高二七○cmを測る大形の丸彫り地蔵尊の類例は全国的にも数少なく、滋賀県下では本像が唯一のものです。
明治時代に火災に遭い補修が激しいのは惜しまれますが、体部の納衣や手足の彫刻はよく残されており、特に光背の蓮弁のレリーフは鎌倉期の写実彫刻の作風をよく伝えています。
古くより延命地蔵尊の名で親しまれ、毎年八月二十三・二十四日におこなわれる地蔵盆は盛大で、近郊はもとより遠方からも多くの人々が参詣に訪れます。
延命地蔵尊の本堂の前の赤い頭巾の座像
弘仁八年(西暦八一七年)百日を越える旱魃が続き、野も山も草木は枯れ、川や湖は干上がりました。 御心配になった嵯峨天皇の命により、伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨をお祈りになりますと、薬師如来が夢の中に現れ、『ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。 そこへ行って雨を求めよ。』とお告げになりました。
伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里へ来られますと、白髪の老翁が忽然と現れ『わたしはこの水の守護神である。 ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。』と言い終ると水の中へ消えてゆきました。
大師は早速石工を集め、一丈二尺(三.六米)の地蔵菩薩の坐像を刻み、祈念されますと、黒い雲がみるみるあらわれ、大雨が三日間降り続きました。
この雨で緑は甦り、生気を取り戻した人々は、地蔵菩薩の深いお慈悲と、伝教大師の比類なき知恵と徳行に、尊信の念をいっそう深くしたということです。
本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていましたので、俗に『尻冷し地蔵』と唱えられていましたが、慶長十三年九月濃州大垣の城主石川日向守が霊験を感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。
米原町・米原町観光協会・醒井区」
美しい水の流れ(地蔵川)
【ハリヨとバイカモ】
15:28 ハリヨ バイカモ 案内板
案内板
「 ハリヨ・バイカモ
ハリヨ(トゲウオ科 イトヨ属)
体長4~7cmで生息分布は限られ、滋賀県東北部と岐阜県南西部の湧水をもつ水温20度以下の清流に生息している。 ウロコはなく鱗板が前半身に6枚ほど一列あるだけで、後半身は黒緑色の雲状模様がある。 トゲが脊部に3本、腹部に1対、臀鰭の直前に1本ある。 繁殖期になると雄は婚姻色が現れ、その頭部の下側部は朱紅色を呈し、胴部は暗青色を帯びる。 雄は縄張りを持ちその中心に水草や根などの繊維質のものを用いてトンネル状の巣を作り、雌を誘い入れて産卵させる。 雄は卵が孵化するまで餌もとらず辛抱づよく巣を見張り続ける。寿命は短く年魚である。
水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草である。 手のひら状の葉が特徴で長さ約50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花様の白い花が咲く。 バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している。
平成5年3月 醒井区 」
2016年のブログより
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2019.8.31.
【ハリヨとの再会】
醒井の小学校の六年生が地蔵川(居醒の清水が源の川)に生息する生き物について調べて下級生の前で発表するという取り組みをずっと続けているそうで、絶滅危惧種を保護するのに大きな役割を果たしているそうです。
写真の延命地蔵尊の境内に、
ハリヨの水槽が置かれていて、
6年生が書いたハリヨの生態調べも張ってあります。
この調べたものを発表した紙もハリヨも、2009年秋に見ました。
ハリヨとの再会は喜ばしいことです。
ハリヨは頭から胸までしか鱗がない。水底の藻にねばねばした液体で穴を開けて巣を作る、など、変わった魚です。
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今回、水槽のハリヨも、小学生が作った「ハリヨの生態調べ」も見ることが出来ませんでした。
水路が美しい。
今回はバイカモの花を見ることが出来ませんでしたが、2016年には見ました。
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2016.8.31.
【梅花藻(ばいかも)】
梅花藻が咲く清流を犬と見る
地蔵川の梅花藻は夏から秋に花を咲かせます。
居醒の清水でも一緒になった、黄色の上着を召されてラブラドールかなあ?犬を連れたご婦人と、梅花藻見物でまた一緒になりました。
黄色のご婦人が写真撮影に夢中なため、なんとなく犬と私は並んで水面を眺めていました。
そこではあまりよく梅花藻を見られなかったので、場所を変えて梅花藻が咲いている場所を探しました。
地蔵川は写真のように道沿いにずっと流れていて、所々に橋もかかっています。
道から川辺に降りられる階段も所々に設けられています。
梅花藻の花はとても小さくて、道から見下ろして見える梅花藻は緑にしか見えなくて、階段を降りて覗き込むと白いぽつぽつが見えます。
その白いぽつぽつを、携帯電話のカメラ機能の拡大で覗いてみると、写真2のように、キンポウゲを白くしたような花が見えます。
白い花を見ることが出来た時、幸せになった気分です。
夢中になって眺めていて、ふと足元を見たら、私の隣でトンボも座って、私と並んで川面を見ていました。
梅花藻に夢中だった私は、周囲にたいしては無気配だったんでしょうね。
トンボに気づいた途端、トンボが私の存在に気づいて飛び立ってしまいました。
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【旧問屋場】
15:31 日本遺産 滋賀・びわ湖 案内板
案内板
「 日本遺産 滋賀・びわ湖
琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産
人々は、びわ湖の水や山からの湧き水を生活の中に巧みに取り入れ、水を汚さないように工夫をしながら生活を営んできました。また、水を神として敬い、信仰の対象としてきました。さらに、湖辺の集落では湖魚を用いた独自の食生活や伝統的な漁法が生まれ、独自の景観を生み出してきました。滋賀では、このような水と人との関わりが今も息づき、大切に受け継がれています。
霊仙山の水神と参詣者の仏縁を結んでいたという伝説があり、山の湧水を水源とする地蔵川に沿って形成された中山道の宿場町。江戸時代に醒井宿を通過する大名や役人に人足や馬を提供した施設が今も残り、完全な形で復元されている。 」
15:31 米原市醒井宿資料館
米原市醒井宿問屋場
ここで、トイレをお借りしました。
案内板
「 清流の里・中山道 醒井宿旧問屋場
中山道 醒井宿に現存する旧問屋場です。
問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えなどの引継ぎ業務を行っていたところです。
また、醒井宿を描いた絵画も
展示しています。
ご自由にご散乱ください。
環境維持・整備にご協力お願いいたします。
一口10円~です。宜しくお願いいたします。 」
この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。
問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。
現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。
また、建築年代が十七世紀中~後半と推定される貴重な建物です。
平成十二年より修理をおこない、再び江戸時代の宿場の問屋として公開されることになりました。 」
美しい水の水路(地蔵川)
15:38 地蔵川ハリヨ生息地保護区
案内板
「 地蔵川ハリヨ生息地保護区
ハリヨは、滋賀県北東部、岐阜県南西部等の湧水の豊かな特定の水域に分布が限られています。 特に地蔵川は、本種の保存上極めて重要な区域であり、1.2kmにわたる河川全域が保護区に指定されています。
この保護区内でハリヨの生息環境に影響を及ぼす行為を行う場合、知事への届出が必要です。
またハリヨは滋賀県の指定希少野生動植物種に指定されており、県下全域で捕獲、殺傷が原則委として禁止されています。 違反した場合は、1年以下の懲役又は50万円以下の罰金が科せられます。
指定日 平成20年(2008年)4月1日
滋賀県自然環境保全課 」
美しい水路(地蔵川)
【天然記念物 了徳寺御葉附銀杏】
15:40 了徳寺御葉附銀杏
「長浜・米原を楽しむ情報サイト」より
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了徳寺のオハツキイチョウ
了徳寺の境内に、周囲の家並みを圧して、ひときわ高くそびえるオハツキイチョウは、幹囲約2.5m、高さ約20m、樹齢約200年。オハツキイチョウは、他のイチョウに比べて葉柄がやや細長く、葉の縁に種子を付けるのが特徴です。毎年8月から11月上旬頃に数多くの実を付けますが、その一部は、葉の面になります。発育は不完全な物が多く、小型で楕円形、普通のものと著しく異なっています。数は多いもので5個、おおむね1、2個で、葉脈が次第に太くなり、先端のところに形作られます。これは、化石から出土するイチョウとよく似ており、先祖返りと考えられます。昔から「花も咲かずに実のなる木」と、付近の人に不思議がられていますが、花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。イチョウは、全国の神社や仏閣に植えられ、一般に親しみ深いものですが、この種のものは珍しく、昭和4年(1929)に国の天然記念物になっています。
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【十王水】
平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。
もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから『十王水』と呼ばれるようになったという。 」
案内板(十王水の案内板の下の青い看板)
「 認定 未来に伝えたいまいばらの水
No.12 十王水 硬度106.4mg/1L
※飲用水として提供者するものではありません。
米原市には豊かな森や山が育んだ美しい湧き水が数多く存在し、むかしから地域の暮らしの中で大切に使われてきました。水道の蛇口をひねればあたり前のように水が出てくる便利な現代社会の中で、忘れられつつある水や水を育む森の大切さを改めて感じていただき、地球の美しい水環境を未來へ受け継いでいくきっかけとなることを願っています。
2013年12月 」
15:42 居醒橋
この橋は渡らず、左へ進みます。
醒井宿では明和元年(一七六四年)頃から、東新町、新町、本町、西町の各町に一基ずつ計四基の曳山があり、地蔵盆には宿場内を引き回し、子供狂言が奉納されていました。上演場所は、中山道を往来する人馬の邪魔にならないように、道路の一部を拡げておき、ここに曳山を据えて行っていました。 」
【西行水と泡子塚】
15:46 西行水と泡子塚
案内板
「 泡子塚
岩の上には、仁安三戌子年秋建立の五輪塔があり、『一煎一服一期終即今端的雲脚泡』の十四文字が刻まれてあります。 伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。 その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して『今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ』と祈り、
水上は 清き流れの 醒井に
浮世の垢を すすぎてやみん
と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました。 西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。 今もこの辺の小字名を児醒井といいます。 」
この案内板の内容と重複しますが、もう少し噛み砕いて書きますと、
まず、西行水は、西行が開いたわけではありません。それ以前に高僧が開いた清水でした。ここに茶屋があったそうで、旅の途中で立ち寄った西行がここでお茶を飲みました。西行が立ち去った後、西行に思いを寄せた茶屋の娘が、西行が飲み残したお茶の泡を飲んだところ、不思議なことに懐妊して子どもを生みました。
三年後に、再び立ち寄った西行がその話を聞き、
「もし我が子なら、泡に戻れ」
と念じたところ、こどもは泡になってしまったそうです。
「泡子基 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡」
と書きました。これが泡子塚だそうです。
2016年のブログより
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前回(2009年)来た時は、修行中の僧の子が、あり得ない経緯で生まれてしまったからには、泡に戻すのが正しいことなのだろう、そういう子は、もののけの類いか、人間としても何か不具のある子になるかもしれない、と思いました。
しかし、今回、再び泡子の話を聞くと、その娘は西行に対して恋心を持っていたのだから、どんな形であれ、思う人の子を生んで育てることは、人に後ろ指をさされたとしても、幸せなことだったのではないか。
それが、こどもの父である人によって泡に戻されてしまったら、娘の悲しみはどんなだったか。
娘はその子を産み育てるのに、後ろ指指されたり、何かと辛い思いもしたであろうけれど、なにより好きな人の子を産み育てる幸せを感じていたと思います。
西行は、あり得ない子どもの存在だから、泡に戻したのでしょう。でも、娘の思いを考えると、そのままにしておいてあげたらよかったのではないのか。
それともこれは、何か象徴的な話なのかなあ。
私生児が蛭子だった、またはもののけの類いたったから、僧が念じて安楽死させたとか…
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と、2016年には思いました。
今回、ふと思ったのは、娘の懐妊も出産も子育ても、すぺて娘の想像で、西行がこのままでは娘は普通の人生を送れないと気付き、娘を妄想(夢)から醒ましてやったのかもしれない。
西行が文字を書いた泡子塚(五輪塔)は、これ(写真左)、と書いてあるものが多いのですが、
泡子塚は岩の上にある、と書いてありますよね。とすれば、こちらではないでしょうか。
15:55 醒ヶ井駅
醒ヶ井駅にあったポスター
醒ヶ井駅16:05発に乗り、大垣で乗り換えて名古屋に行き、名古屋から夜行バスで帰りました。
本日の歩数 47,545歩 29.002km
(おまけ)
今回は、中山道醒井宿碑を見て、醒ヶ井駅に向かい、この続きを歩いたときは、朝御飯ゲットのため、醒ヶ井駅からまっすぐコンビニへ向かい、その近くから歩き始めたため、2016年に見た「六軒茶屋跡」を抜かしてしまいました。2016年に見た撮った六軒茶屋跡を載せます。
天領だった醒井が大和郡山藩の飛び地になった時、国境が分かりやすいように六軒の茶屋を建てさせたそうです。
二度目の中山道26日目の1(醒井宿から番場宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/22/224129
二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947
絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003