紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き25日目の8(柏原宿前半)

二度目の中山道25日目の8
2020年10月12日(月)の8


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【柏原宿入口】

楓の木の下に、案内板と中山道分間延絵図がありました。
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13:20 柏原宿の略史
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案内板
「 柏原宿の略史
(史跡の時代順案内)
鎌倉時代
*柏原弥三郎の柏原城跡地に、佐々木京極氏が館・徳源院・墓所設置。

鎌倉の終り
京極高氏佐々木道誉)は鎌倉幕府の命を受け、後醍醐天皇側近
北畠具行卿を斬首。当地丸山に葬る。

室町の初め
京極高氏の命で、箕浦次郎右衛門、柏原代官所を設置。広大な屋敷を設け、菩提寺長命寺を再興。

室町時代
箕浦代官時代二百数十年。関ヶ原合戦時には、柏原宿は戸数五百の、大きな中世宿場に成熟。

戦国時代
*信長・秀吉は成菩提院に、家康は箕浦氏配下西村勘助屋敷に投宿。

江戸の初め(家康のとき)
*柏原代官所閉鎖。箕浦代官配下鉄砲組・元京極武士団が宿場役人を分担、江戸期柏原宿へ再構築。

江戸の初め(家光のとき)
* 将軍上洛時の休泊施設、柏原御茶屋御殿を、西村勘助屋敷に新設。

江戶中期(綱吉のとき)
松尾芭蕉柏原宿を通り、伊吹山の句を、大垣の句会で詠む。

江戸中期(吉宗のとき)
天領から、大和郡山柳沢藩領へ。

江戸後期
*亀屋佐京六代目七兵衛、柏原宿を「もぐさの里」と全国に売り出す。

江戶末期
*皇女和宮柏原宿本陣宿泊。

明治時代
*明治になり、もぐさ屋で宿場役人の山根為蔵家が柏原銀行を創業。 」

中山道分間延絵図
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【照手姫笠掛地蔵】

13:21 照手姫笠掛地蔵・蘇生寺と由来記
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案内板
「 照手姫笠掛地蔵と蘇生寺

地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を『照手姫笠掛地蔵』と言う。 現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから『蘇生寺笠掛地蔵』ともいう。 中世の仏教説話『小栗判官・照手姫』にまつわる伝承の地蔵である。 常陸国(茨城県)小栗の城主小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも餓鬼阿弥となり一命を取止める。 これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ狂女のようになり懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。 そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ地蔵は次のお告げをしたと聞く。

 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ

勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き療養の甲斐あって夫助重は全快したことから再びこの地に来り、お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀った。 これを『蘇生寺』という。 近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り『照手の笠掛地蔵』として親しまれてきた。 この辺りには照手姫に関わる伝承地として道中の長久寺村に『狂女谷』が地名として残り、姫の白粉のため水が白く濁ったという『白清水』などがある。 以上が柏原に伝わる説話であるが、他所のそれは照手が夫と知らず供養のための車引きであり、青墓から大津までとなっている。 この様に話しは若干異なるが本筋で変らず夫婦愛に基づき夫の車を引く照手の素朴な庶民的なここの伝承は、もっとも仏教説話に相応しい物語りである。 最近『小栗判官』と銘打って歌舞伎・演劇等上演され、且つ説教節の復活と相俟って説話が有名になって来た。 美濃国青墓村(現大垣市)には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には立派な五輪塔が、姫の墓として伝承されている。

〈付 記〉  江戸末期寛政年間(一七八九~一八○一)作図の『中山道分間延絵図』の、野瀬の神明神社鳥居の東に『地蔵堂』と小さく描かれている。 よってその場所を蘇生寺跡(現在竹林)と推定される。 この仏教説話は、関東では判官が主役で青墓村(現大垣市)以西では照手姫が主役をなしており、熊野湯の峰温泉、坪湯へと話は続いてゆく。

堂内向って左、背の高い地蔵由来

照手姫笠掛地蔵の本来の祭祀場所が余りにも人家から遠すぎたため、何とか街の中へと願ったが仲々安住の地が見つからず、各所を転々とした後、昭和の始めころ現在地に定着されることになった。 その時地蔵は一体であったが、御覧の立派な背の高い地蔵が一古老から奉納され、笠掛地蔵とともに一堂に合祀されることとなった。 この地蔵はみんなの安産を願って『安産地蔵』として寄進されたものと聞く。 やさしい顔・立姿の美しい地蔵は庶民に好感をもって迎えられ今日に至っている。 そしてこの地蔵は、小さい照手姫の笠掛地蔵を見おろすこともなく、むしろ引立役をなしている。

堂内右、自然石で作られた二体の地蔵由来

ここより西へ約三○○メートル、同町内に竜宝院と名乗る古刹があった。 この寺は伊吹山弥高百坊の一つであったが大正の兵火で焼失、柏原の地へ転出して来たが昭和十年廃寺となった。 残された自然石の二体の地蔵を当地に預かったものである。これで堂内が賑やかになった。
 柏原一丁目 」

照手姫笠掛地蔵と他三体のお地蔵さま
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【東見付跡 問屋場跡など】

13:27 東見付跡
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案内板
「 東見付跡

柏原宿東の入口で、道の両側に喰違いの形で土手(土塁)が築かれていた。
見付とは、本来城門のことで宿場用語となった。見付は宿場西口にもあった。
東口の土手は、古図に幅二間奥行二間半、土手上面に灌木が描かれている。
宿東西の見付は、貴人の当宿到着時、宿場役人の出迎場所だった。 」

13:29 竜宝院遺跡
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由来記など何もないので詳細はわからないのですが、立派な燈籠を見ると、昔かなり由緒ある寺だったのだろうと思われます。

12:31 芭蕉伊吹山
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案内板
芭蕉伊吹山

松尾芭蕉は、柏原宿を三回西から東へと通っている。三回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。
奥の細道』では、伊吹山麓の北国脇往還関ヶ原へと通った。そのときも伊吹山の句を残している。
その句碑は、すぐ後ろ神社境内、松の木の下にある。 」

13:31 八幡神社
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屋号の札があちこちに出ています。
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【東の荷蔵跡 問屋場跡】

13:37 東の荷蔵跡 問屋場
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案内板(写真右)
「 東の荷蔵跡

運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。
この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿西部にもあった。 」

案内板(写真左)
問屋場

問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。 公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。
宿屋の斡旋も仕事。 柏原宿では、江戸後期には六軒の問屋が、東西三軒づつに分かれ、自宅で十日交代で勤めた。
中山道の人足・役馬は、五十人五十疋が義務づけられ、下役に帳付・馬指・人足指が居た。村年寄役が問屋役を補佐した。
人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣十六ヶ村。彦根藩村々の離脱から、五十一ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。 」

問屋場跡の建物
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脇本陣跡 旅籠屋跡】

13:38 脇本陣
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案内板
「 柏原宿脇本陣

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。
柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。 間口はこの家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は二百二十八坪、建坪は七十三坪あった。
当家は問屋役を兼務していた。 」

13:38 旅籠屋跡
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案内板
「 旅篭屋跡

天保十四年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに二十二軒の旅篭屋(宿屋)が集まっていた。 同じ年の宿内職業記録には、
もぐさ屋  九軒
(屋号の頭は、どこもみな亀屋)
造り酒屋  三  請負酒屋   十
炭売茶屋 十二  豆腐屋    九
(煮売屋)    他商人  二十八
大工    十  鍛冶屋    一
諸職人  十三  医師     一
 
とある。 」


【庄屋 吉村家

13:38 造り酒屋 年寄 西川瀬右衛門
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13:39 「問屋役年寄 吉村逸平
「 映画監督 吉村公三郎の実家
祖父 柏原宿 最後の庄屋
父  広島市
  兄 朝日新聞天声人語』執筆 」
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柏原宿有数の庄屋でした。

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案内板
中山道 柏原宿

ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津宿東海道と合流)の内六十一番目になり、約百十二里(一里は約三.九キロメートル)、京までは約二十一里のところにある。
江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。 幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。 当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は一軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、六十九宿中宿高で四番目、宿場の長さ十三丁(一四二○メートル)は十番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。
しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。
現在、一軒も残っていないのは残念である。
本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて三軒までなのに、関ヶ原から番場までの五宿は、それぞれ六、七軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人 )は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった。
この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の四町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。 一つの宿場に四社も氏神があるのはそのためである。
柏原の総社は、野瀬の神明神社である。
又お寺の多いことでも有名で、ひと頃は三十ヶ寺を越え、現在も十五寺と三堂がある。
中世京極道誉の随臣、箕浦氏が四百年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。
宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、六十坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。
また、宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。
この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。
せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。  

平成五年三月 
柏原宿整備調査委員会 
米原市教育委員会


二度目の中山道25日目の9(柏原宿後半)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/19/145408


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003