紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き25日目の7(今須宿、寝物語の里、柏原宿への道)

二度目の中山道25日目の7
2020年10月12日(月)の7


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【今須宿入口】

雨谷(あまがたに)川を門前橋で渡ると今須宿です。

12:28 シャッターに今須宿の絵
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12:30 今須宿案内板
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案内板
「 今須宿

今須宿は中山道五十九番目の宿場であり中山道美濃十六宿の最西端の宿場です。当時の難所だった今須峠は、今も冬になると交通の難所になってしまうほどの急坂です。今も静かな佇まいの宿内には、『問屋場』や『常夜灯』などがあり、当時を物語っています。

関ヶ原町役場・地域振興課 」


【石道標と本陣跡・脇本陣跡】

石道標 中山道今須宿
左 関ヶ原宿一里
右 柏原宿一里
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2016年に来たときは、この石道標の横に「本陣跡・脇本陣跡」 の案内板があったのですが、今回、その案内板はなくなっていました。こちらは、2016年に撮った写真です。
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【妙応寺と徳川家康腰掛石】

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12:32 案内板
「 青坂山妙応寺

当寺は正平十五年(一三六○)に、今須領主長江重景が創建した、県下で最も古い曹洞宗寺院です。 その後土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新前まで永く続きました。 宝物館には、町重文の文書をはじめとして当地出身の喜田華堂筆の縁起絵巻などが展示されています。

 関ヶ原町 」


案内板
徳川家康腰掛石

徳川家康関ケ原の戦いに勝利した翌日、石田三成の居城である近江佐和山城(滋賀県彦根市)を攻める際、ここ今須の地で休息を取ったと伝わる。
家康が腰を掛けたと伝わるこの石は、中山道今須宿の本陣の指定を受けていた伊藤家が、代々大切に守り伝えてきた。今須宿は美濃と近江の国境に位置し、美濃16宿の中でも3番目の大きさで、妙応寺の門前町として栄えた宿場である。明治3(1870)年の本陣廃止以降は、場所を移し、現在は妙応寺境内において展示している。 」


問屋場跡】

12:38 問屋場
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案内板
問屋場

江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。 美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。 縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。
 関ヶ原町 」

こちらは2016年に撮った問屋場跡。
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【常夜灯】

12:37 金比羅大権現永代常夜燈
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案内板
「 常夜灯

街道が賑わっていた江戸期は、文化五年(一八○八)のことです。
京都の問屋河地屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。 そこで金毘羅様に願をかけ、一心にお祈りをしました。
幸いに荷物は出てきて、そのお礼にと建立したのがこの常夜灯です。  
関ヶ原町 」

この辺りは紅殻の家が多いです。
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【山燈籠】

12:38 愛宕神社入り口の山燈籠
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12:41 真宗
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私の好きな秋明菊が咲いていました。
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12:46 法善寺
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12:47 八幡神社
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2016年に見た、宿外れの山燈籠を今回は見逃しました。写真は2016年に撮った山燈籠です。
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【車返しの坂】

12:52 車返しの坂
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左 舊蹟 車返 美濃國不破郡今須村石標
右 車返地蔵尊石標
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案内板
「 車返しの坂

南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。 不破の関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。 その御人は公家の二条良基という人。
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。  
関ヶ原町 」

二条良基は、 物好きというか、拘りの風流と申しましょうか。

12:55 車返踏切を渡りました。
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【おくのほそ道芭蕉道と野ざらし芭蕉道】

12:58 芭蕉句碑などが並んでいました。
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一番右が「おくのほそ道」(冒頭)と、「おくのほそ道芭蕉道」石碑
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石碑「おくのほそ道」
「 おくのほそ道
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也  
舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは 
日々旅にして旅を栖とす 
古人も多く旅に死せるあり 予もいづれの年よりか 
片雲の風にさそはれて 漂泊の思ひやます(略)

 行春や鳥啼魚の目は泪

ことし元禄二とせにや 
奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて(略)
若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、
其日漸 早加と云宿にたどり着きにけり(略)
露通も此みなとまで出むかひて みのゝ国へと伴ふ 
駒にたすけられて大垣の庄に入ば 曾良も伊勢より来り合 
越人も馬をとばせて 如行が家に入集る(略)
其外したしき人々 日夜とぶらひて 
蘇生のものにあふがごとく 且悦び 且いたはる  
旅の物うさもいまだやまざるに 
長月六日になれば 伊勢の遷宮おがまんと 
又舟にのりて

 蛤のふたみに わかれ行秋ぞ  芭蕉

「野ざらし芭蕉道」石碑
芭蕉句碑
「 年暮れぬ笠着て草鞋はきながら
はせを 」
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【寝物語の里と近江美濃国境】

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12:59 「寝物語の里」・近江美濃国
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13:01 「寝物語の由来」
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案内板
「 寝物語の由来

近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。 この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに『寝ながら他国の人と話し合えた』ので寝物語の名が生まれたと言われています。 また、平治の乱(一一五九)後、源義朝を追って来た常盤御前が『夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ』所とも、『源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った』所とも伝えられています。 寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 
寝物語も しのぶばかりに 太田道潅

  平成四年一月 滋賀県米原市

13:03 「ここは長久寺です」
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案内板
「 ここは長久寺です

江濃のくにもしたしき柏はらなる
岩佐女史に物し侍りぬ
 啼よむし 
寝もの語りの 
栞りとも  化月坊
芭蕉十哲各務支考、美濃派十五世)

長久寺村
古昔此の辺りに、両国山長久寺といふ寺ありし故、今村の名となれり。
近江美濃両国の境なり。
家数二十五軒あり。五軒は美濃の国地、二十軒は近江の国地なり。 壁一重を隔て近江美濃両国の者寝ながら物語をすといふ事。 畢竟(ひっきょう)相近きの謂なり。両国の境には僅かに小溝一つを距つ。 五軒の家は美濃なまりの詞(ことば)を用ひ、専ら金を遣うて銀を通用せず。 二十軒は近江詞にして銀を通用す。

享保十九年(一七三四)
『近江與地志略』  」


【楓並木】

寝物語の里のちょっと先から、柏原まで、楓並木が続きます。

今回も2016年に来たときも青々としていましたが、2009年秋に来た時には、紅葉していました。

今回撮った写真より、2016年に撮ったもののほうがアングルが良いので、そちらを載せます。
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13:10 弘法大師御侘水碑
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楓並木 この辺り、野瀬坂と言うそうです。
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13:15 歴史街道 中山道
   ←          →
江戸後期大和郡山領   寝物語の里
 柏原宿         長久寺
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【長比城跡登り口と東山道入口】

13:15 長比城跡登り口
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案内板
「 長比城跡登り口

織田信長は、浅井長政を討つべく、元亀元年(一五七○)六月十九日、浅井朝倉勢が守るこの城と苅安城を攻めた。 木下藤吉郎竹中半兵衛の働きで浅井方の鎌刃城堀氏が寝返ったため、長比・苅安の城兵は敗走し、信長は長比に無血入城、一両日滞在した。 この長比攻めは、姉川の戦いの前哨戦で、本戦である姉川の戦いは、九日あとの二十八日に始まった。 信長を狙い本陣に迫り、竹中久作に討たれた遠藤喜衛門尉直経は、柏原学区須川出身の武将である。

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「城郭放浪記」より

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長比城

元亀元年(1570年)浅井長政によって築かれた。

元亀元年(1570年)織田信長は越前の朝倉義景を攻めたが、同盟関係にあった浅井長政の裏切りによって失敗する。これによって美濃の織田信長と近江の浅井長政が対。浅井長政は織田に備えるため美濃国境付近に苅安城と長比城を築き、家臣の堀秀村と樋口直房を置いて守られた。築城にさいしては越前朝倉氏の助力を得たという。しかし、織田信長の調略によって両者は内応し、あえなく落城した。

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13:16 神明神社
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13:16 東山道入口
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案内板
「 『東山道』道標

正確には、東山道中山道分岐点道標。 県境、寝物語長久寺より坂下JR踏切までは、古道東山道の上に中山道が敷設された。 それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設された。 」

歩いてみたくなる、山道の入口ですね。

13:18 野瀬踏切を渡りました。
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二度目の中山道25日目の8(柏原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/18/191133


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003