二度目の中山道25日目の6
2020年10月12日(月)の6
【三地蔵と鶯の滝】
山中の間の宿跡の標柱の先、黒血川は、壬申の乱の流血で川底が黒く染まったそうです。
その先、写真の三地蔵。11:42
鶯瀧地蔵、黒血川地蔵が安置されているそうです。
三地蔵の向かい側に、案内板と鶯の滝があります。年中鴬が鳴く平坦地の滝として知られたそうです
案内板
「 鶯の滝
中世(鎌倉・室町期)の山中村 は旅人
も泊まる宿駅として栄えていました。
近世(江戸期)では、関ヶ原・今須宿の間の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手屋(ふるてや)等が軒を連ね、活気を帯びていたのです。
ところで、この滝は、今須峠 を上り
下りする旅人の心を癒やしてくれる格好
な場所でした。滝の高さは約五メートル。
水量は豊かで冷気立ち込め年中鶯の鳴
く、平坦地の滝として、街道の名所に
なっていました。
関ヶ原町 」
古手屋(ふるてや)とは、 中古品や質流れ品の衣類を売買する商人だそうです。
道からは写真のように鉄柵越しにしか滝を見られませんが、
右奥から回り込むと展望台みたいな鉄製の台があり、そこから滝がよく見えます。
2009年秋に来た時は紅葉がきれいで、じっくり見に行きましたが、今回は鶯の滝はさっさと切り上げて先に進みました。
11:45 東海道新幹線のガード(右側)をくぐり、静かな人家の間を進みます。
地面から直接花が咲いているような、コルチウムが咲いていました。
11:48 地蔵堂 三体のお地蔵さま
【常盤御前の墓】
都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若 、乙若 、牛若 の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。
伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引取ります。
哀れに思った山中の里人が、ここに
葬り塚を築いたと伝えられています。
関ヶ原町 」
右の五輪塔二つの内、こちらから見て奥側が常盤御前の墓だそうです。
こちらも常盤御前の墓ですが、右奥に芭蕉の句碑と化月坊の句碑があります。
常盤御前の墓の右奥に二つの句碑が並んでいますが、左側が文久二年八月に化月坊が建てたもの。
案内板
「 芭蕉句碑と化月坊
寛政六年(一七九四)二月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に精進した。安政四年(一八五七)獅子門 (翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派 ともいう)一五世を継承、時に六十四歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久二年(一八六二)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の句も碑裏に刻んでいる。
碑面(左側)
「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」
者世越翁
「義ともの心に似たり秋の風」芭蕉翁
碑裏(左側)
「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」
春香園
文久二壬戌年八月建之
「げに風の音も澄みけり秋の松」春香園
隣碑(右側)
「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」 七十六叟(おきな) 化月坊
明治二巳季五月建之 社中
「その幹に牛もかくれてさくらかな」
化月坊
また、化月坊は春香園とも称し、慶応四年(一八六八)には、この塚の前に、俳人接待のための「秋風庵」を開いた。庵開きには十数人の俳人が参会し、盛大な句会が催されたという。化月坊は俳諧に多大の功績を残し、明治三年(一八七〇)冬、七十七歳で没した。その後、庵は日守一里塚 東隣(現垂井町)に移築され、茶所として、旅人の休憩所・句会の場となって活用されることとなった。(現存)
関ケ原町 」
常盤御前の墓、芭蕉句碑、春香園(化月坊)句碑のある場所は小さな公園になっていて、ここでトイレをお借りしました。
【常盤地蔵】
11:56 山中大師道標。道標を兼ねた石仏です。
11:57 常盤地蔵
案内板
「 常盤地藏
平安末期、此処山中村で起きた常盤御前の不幸な出来事は、涙なしには語れない。常盤は、『義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折には是非道端から見守ってやりたい。』と、宿の主人に形見の品を手渡し息を引き取った。時に常盤四十三歳。主人は常盤の念願が叶うよう街道脇に塚を築き、手厚く葬ったのである。〔右手下約三〇〇メートル先にあり〕
其の後哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くのこの場所に安置し、末永く供養することを誓い合った。
案の定寿永二年(一一八三) 義経上洛 のため弐万餘騎を率いて、当地若宮八幡神社 に到着し、西海合戦 勝利を祈願。 合わせて母の塚及び地蔵前では、しばしひざまずき、草葉の陰から見守る常盤の冥福を祈ったという。
関ケ原町 」
この案内板を読んで、胸が熱くなり、暫したたずんでしまいました。
【今須峠】
常盤地蔵のすぐ先、JR東海道線の線路下のトンネルですが、手前に黄色い大きな看板があり、多分危険だから入らないように書かれているのだろうと思います。
(このトンネルの写真は2016年に撮りました。今回は草が繁ったせいか、トンネルに気づきませんでした。)
12:00 線路脇の道
12:02 山中踏切。この踏切で東海道線を横断します。
今須峠へ向かいます。
道はどんどん上り坂。写真は2016年に未知から見下ろすトンネルです。
12:10 今須峠
案内板
「 今須峠(中山道)
此処峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登
り口より約一、〇〇〇メートルの道程です。
一条兼良 はこの峠で、『堅城と見えた
り、一夫関に当たれば万夫すぎがたき
所というべし』(藤川の記 )と認めたよ
うに、この付近きっての険要の地でした。
往時この付近には、茶店があり、旅
人の疲れを癒すお休み処として、賑わ
っていました。
京方面に向かって約二〇〇メートル、
一里塚を眺め峠を下ると、今須宿 に入
ります。
関ケ原町 」
今須峠からの下り道
12:14 休憩。持参のパンでランチ。
国道に出る手前の草地に座って食べました。はんたいがわからみると、「ここより中山道 関ヶ原宿山中 関ヶ原町」の標柱の脇でした。
二度目の中山道歩きは滅多に他のお流れているウォーカーに会わないのですが、私のランチ中、年配の男声の中山道ウォーカーが追い抜いていきました。
12:23 出発
【今須の一里塚跡】
この辺りのどこかに復元した一里塚があるはずなのですが、見逃しました。
2016年のブログより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
国道敷設で撤去された一里塚を、本来の位置より東側に復元した一里塚です。
江戸日本橋から114里目です。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
二度目の中山道25日目の7(今須宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/18/132119
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003