紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き25日目の5(関ヶ原宿から間の宿山中)

二度目の中山道25日目の5
2020年10月12日(月)の5


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不破関関庁舎跡と大海人皇子兜掛石と沓脱石】

11:03 地蔵堂
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11:04 美濃不破関 東山道と東城門跡
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案内板
「 美濃不破関
東山道 と東城門跡

美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守り固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、奈良の都での事変や天皇崩御など、国家的な大事件が起きると、中央政府からの指令によって固関 がおこなわれ、すべての通
行が停止された。
関ヶ原町 」

松の木が門のようになっています。
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11:05 紅殻の家
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11:07 不破関の庁舎跡/大海人皇子の兜掛石 沓脱石 60m 2分 →
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11:08 不破関庁舎跡と兜掛石
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案内板
不破関関庁舎跡と兜掛石

この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食料庫・兵庫・望楼等々が建っていました。
ここに祀られている石は、壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられ、左斜めうしろには同皇子使用の沓脱石があります。
関ヶ原町 」

沓脱石
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不破関跡】

11:12 不破関
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案内板
「 町 ・県史跡
(昭四四・六・ニ一、昭四五・四・七指定)
不破関

 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関 、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制 下の三関の一つとして、壬申の乱 (六七二年)後に設けられたとされています。
 延暦八年(七八九)に停廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。
関ケ原町

11:12 不破関守址
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11:12 道標
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11:13 不破関資料館
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2009年に来た時、資料館を見増したが、2016年に来たときは、まだ開いていない時間でした。

今回はコロナ禍だからか、月曜日だからか、閉まっていました。

後で調べたら、コロナ禍で暫く休館していましたが、2020年6月2日からまた開館しています。しかし、月曜休館のため、この日は開いていませんでした。でも、トイレをお借りしました。

トイレは、写真の資料館とは別棟で、写真には写っていませんが、右の方にあります。

関ヶ原町歴史民俗学習館ホームページより

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不破関は昭和49年から実施された発掘調査により、奈良時代に設置された不破関の内容が明らかにされました。館内には発掘調査により出土した土器や瓦、和同開珎など貴重な資料が展示されており、関全体を復元した模型もあります。現地には当時の土塁なども残っており、こちらで学習してから関連史跡を巡ることにより、より深く不破関を知ることができます。

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中山道に戻るために、先程の道標まで坂を下りました。「左 旧中仙道」の道標のところを、左下の道に進みます。

右上を見上げると、草の斜面の上に「ホタルの里」の案内地図がありました。
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少し行くと、左に戸佐々神社がありますが、そのあたりが不破関西城門跡だそうです。
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【関の藤川】

11:23 藤古川
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案内板
「 藤古川

この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西革には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支持したので、前後東の松尾部落は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中部落では、弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。
関ヶ原観光協会

11:24 関の藤川
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案内板
「 関の藤川(藤古川)

この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍(そば)を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。
壬申の乱(六七二)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継(よしつぐ)が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌(しいか)が詠まれたことが、世に知られています。
関ヶ原町 」

中山道 歌枕を訪ねて」より

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美濃の国 関の藤川絶えずして 君に仕えんよろず代まで   古今和歌集

我ことも君に仕えんためならで渡らましやせきの藤川  阿仏尼 (十六夜日記)

神代より道ある国につかへける契りもたえぬ関の藤川    九条道家

吹出でて風はいぶきの山の端にさそひて出づる関の藤川    西行

11:25 若宮八幡神社社標
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11:27 大谷吉隆墓の石標(ここではなく、もっと北の山の中にあるそうです)
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「墓カード詳細 文化遺産ガード公式ホームページ」より

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大谷吉継(吉隆)の墓

国史跡「関ケ原古戦場 大谷吉隆墓」

平塚為広碑より山中へ徒歩15分、大谷陣跡より徒歩5分

解説
大谷吉継は藤堂・京極隊や反応した小早川隊などと激戦を繰り広げましたが、次々と味方の武将も討ち死にし、この地で自刃しました。吉継の首は、湯浅五助の手により埋め隠されました。五助はその後、首の在処を藤堂に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。敵ながらに感心した藤堂は、合戦後、約束通り吉継の墓をこの地に建てたと言われています。

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11:27 矢尻の池
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今回撮った写真より、2016年に撮った写真の方がアングルが良いので、そちらを貼ります。
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案内板
「 矢尻の池 (井)

 関ケ原宿から今須宿に向かう中山道
のうちでも、不破関・藤川と続くこの
辺りは、『木曽名所図会 』にも描かれ、
歌枕となっていました。
 この窪みは壬申の乱 (六七二)のと
き、水を求めて、大友皇子軍 の兵士が
矢尻で掘ったものと伝えられています。
 長い年月を経た今では、その名残を
僅かに留めているに過ぎません。

関ケ原町

11:30 関ケ原クイズ
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電柱に貼ってある案内板
関ヶ原クイズ

問題四 『東軍? 西軍?』

関ヶ原合戦に参加した大名のうち
東軍に参加していたのは誰か?

宇喜多秀家
藤堂高虎
③平塚為広
島津義弘

ことまち、まるごと、古戦場

監修 関ヶ原

ここは 山中 」


これ、わかりませんでした。後で調べました。藤堂高虎が東軍で、他のお三方は西軍でした。

調べた「刀剣ワールド」というサイトでは、各大名がイケメンイラストになっていて、なかなか楽しい。でも、平塚為広は刀剣ワールドに載っていなくて、個別に調べました。

11:31 「従是西不破郡 山中村地内」
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11:32 東海自然歩道橋渡りました。
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11:35 電柱の案内板
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案内板
「 戦国武将物語

西軍 湯浅五助

大谷吉継の家臣で自刃した吉継の介錯を務めた。吉継の命により、首を隠すところを藤堂高刑(たかのり)に見られたが、秘密にすることを条件に自分の首を差し出した。

このまち、まるごと、古戦場

監修 関ヶ原

ここは 山中 」

このエピソードは辛いですね。主君を守るためにそこまで。と思うと、ただの美談ではすみませんね。

11:35 立場
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案内板
「 立場(たてば)

江戸時代を通して、旗本竹中氏の知行地であった此処山中村は中山道間(あい)の宿として、酒蔵業をはじめ、十数軒(天保年間)の商人が軒を連ね賑わっていた。
この立場というのは、旅人や駕籠を止めた人足たちが利用する宿間に設けられた休憩所のことである。旅人が杖を立て掛けて休んだことから、このように呼ばれた。
関ヶ原宿~今須宿間の距離は一里(三・九キロメートル)であるが、距離によっては立場が二か所あった。ここは地形的に西側に街道の難所忌ます峠が控えており、この立場に立ち寄る人も多く活気を呈した。なおこの旧立場は明治書記に修築されている。
関ヶ原町 」

11:37 電柱の案内板
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案内板
「 戦国武将物語

西軍 大谷吉継

山中村に布陣した大谷吉継は、病のため後方で指揮を執っていたが、小早川秀秋の軍勢一万七千をわずか六百の兵で迎え撃ち三度も追い返した。

このまち、まるごと、古戦場

監修 関ヶ原

ここは 山中 」

11:37 大谷吉継墓、大谷吉継陣跡
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案内板
大谷吉継墓、大谷吉継陣跡

大谷吉継は、石田三成との友情が名高いが、徳川家康とも昵懇(じっこん)だった。はじめ会津征伐に加わるため、慶長5(1600)年6月に留置の敦賀(福井県)を発ったが、その途中で挙兵の比治を打ち明けられる。吉継は再三に渡り『無謀で勝機なし』と説得するが、その決意に打たれ、負けるのを承知で西軍に与したという。
その後は西軍主砲の一人として、三成の横柄な性格を諌め、毛利輝元宇喜多秀家を建てるよう薦めたり、ほくりくほうめんの調路を担い、多くの大名を西軍に勧誘した。
9月3日、三成の要請を受け、美濃に進出し山中村に布陣する。吉継は正面の松尾山に布陣した小早川秀秋の動きを不審に思い、寝返った際の備えをした。
病を得ていたため、かいせんごは攻防で指揮をとり、藤堂高虎京極高知らと戦ったが、正午頃に秀秋が寝返り、大谷隊に矛先が向けられる。これを予測していた吉継は、兵力で圧倒する小早川隊こ攻撃を幾度となく跳ね返す。しかし、自らの指揮下にあった脇坂安治らも寝返るに至っては支えきれず壊滅し、吉継は藤川台で自刃する。
大谷隊の壊滅で戦いの均衡は一気に崩れた。それまで善戦していた西軍諸隊は動揺し、総崩れの発端となる。 」


11:37 若宮八幡神社
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11:40 間の宿 山中 及び 高札場跡
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案内板
「 高札場跡

当地は江戸から五十八番目の関ヶ原宿と、五十九番目の今須宿の中間に位置し、休憩施設の立場茶屋が設けられていたことなどから、俗に間の宿と呼んでいた。
かつて当山中村は江戸時代を通し、旗本竹中氏の知行地で、ここ千束橋詰には高札場が設置されていた。徳川幕府の庶民統治上の禁制品、法度(はっと)、掟書(おきてがき)などがかかげられ、人だかりがよく見られる場所であった。
当時は竹囲いをめぐらし、石垣や土盛り(どもり)を施すなど管理は厳重で、責任者には村役人を命じ、周囲の清掃をはじめ、火災時には狼藉者の取り締まりにも当たらせていたのである。
関ヶ原町 」
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案内板の下の看板
「↑この上の用水は谷川から取り入れています。
手洗いにご了解下さい。 」

2016年のブログには、
「 水路は山から引いているので、手洗いに使ってください、ただし飲まないでください、とありました。」

と書いてありました。当時の看板には「ただし飲まないでください」まで書いてあったのか、「手洗いに使ってください」を見て、私が勝手に「ただし飲まないでください」という文まで付け足したのか。当時撮った写真では読み取れません。
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二度目の中山道25日目の6(鶯の滝から今須宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/17/101608


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003