紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

大谷吉継墓、大谷吉継陣跡

大谷吉継墓、大谷吉継陣跡

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案内板
大谷吉継墓、大谷吉継陣跡

大谷吉継は、石田三成との友情が名高いが、徳川家康とも昵懇(じっこん)だった。はじめ会津征伐に加わるため、慶長5(1600)年6月に留置の敦賀(福井県)を発ったが、その途中で挙兵の比治を打ち明けられる。吉継は再三に渡り『無謀で勝機なし』と説得するが、その決意に打たれ、負けるのを承知で西軍に与したという。
その後は西軍主砲の一人として、三成の横柄な性格を諌め、毛利輝元宇喜多秀家を建てるよう薦めたり、ほくりくほうめんの調路を担い、多くの大名を西軍に勧誘した。
9月3日、三成の要請を受け、美濃に進出し山中村に布陣する。吉継は正面の松尾山に布陣した小早川秀秋の動きを不審に思い、寝返った際の備えをした。
病を得ていたため、かいせんごは攻防で指揮をとり、藤堂高虎京極高知らと戦ったが、正午頃に秀秋が寝返り、大谷隊に矛先が向けられる。これを予測していた吉継は、兵力で圧倒する小早川隊こ攻撃を幾度となく跳ね返す。しかし、自らの指揮下にあった脇坂安治らも寝返るに至っては支えきれず壊滅し、吉継は藤川台で自刃する。
大谷隊の壊滅で戦いの均衡は一気に崩れた。それまで善戦していた西軍諸隊は動揺し、総崩れの発端となる。 」