東の荷蔵跡 問屋場跡
案内板(写真右)
「 東の荷蔵跡
運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。
この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。 荷蔵は宿西部にもあった。 」
案内板(写真左)
「 問屋場跡
問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。 公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。
宿屋の斡旋も仕事。 柏原宿では、江戸後期には六軒の問屋が、東西三軒づつに分かれ、自宅で十日交代で勤めた。
中山道の人足・役馬は、五十人五十疋が義務づけられ、下役に帳付・馬指・人足指が居た。村年寄役が問屋役を補佐した。
人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣十六ヶ村。彦根藩村々の離脱から、五十一ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。 」