紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

照手姫笠掛地蔵と蘇生寺

照手姫笠掛地蔵と蘇生寺

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案内板
「 照手姫笠掛地蔵と蘇生寺

地蔵堂正面向かって右側、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を『照手姫笠掛地蔵』と言う。 現在はここに祀られているが、元はこれより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから『蘇生寺笠掛地蔵』ともいう。 中世の仏教説話『小栗判官・照手姫』にまつわる伝承の地蔵である。 常陸国(茨城県)小栗の城主小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも餓鬼阿弥となり一命を取止める。 これを悲しんだ愛妾照手姫は夫助重を箱車に乗せ狂女のようになり懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。 そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ地蔵は次のお告げをしたと聞く。

 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ

勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き療養の甲斐あって夫助重は全快したことから再びこの地に来り、お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀った。 これを『蘇生寺』という。 近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り『照手の笠掛地蔵』として親しまれてきた。 この辺りには照手姫に関わる伝承地として道中の長久寺村に『狂女谷』が地名として残り、姫の白粉のため水が白く濁ったという『白清水』などがある。 以上が柏原に伝わる説話であるが、他所のそれは照手が夫と知らず供養のための車引きであり、青墓から大津までとなっている。 この様に話しは若干異なるが本筋で変らず夫婦愛に基づき夫の車を引く照手の素朴な庶民的なここの伝承は、もっとも仏教説話に相応しい物語りである。 最近『小栗判官』と銘打って歌舞伎・演劇等上演され、且つ説教節の復活と相俟って説話が有名になって来た。 美濃国青墓村(現大垣市)には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には立派な五輪塔が、姫の墓として伝承されている。

〈付 記〉  江戸末期寛政年間(一七八九~一八○一)作図の『中山道分間延絵図』の、野瀬の神明神社鳥居の東に『地蔵堂』と小さく描かれている。 よってその場所を蘇生寺跡(現在竹林)と推定される。 この仏教説話は、関東では判官が主役で青墓村(現大垣市)以西では照手姫が主役をなしており、熊野湯の峰温泉、坪湯へと話は続いてゆく。

堂内向って左、背の高い地蔵由来

照手姫笠掛地蔵の本来の祭祀場所が余りにも人家から遠すぎたため、何とか街の中へと願ったが仲々安住の地が見つからず、各所を転々とした後、昭和の始めころ現在地に定着されることになった。 その時地蔵は一体であったが、御覧の立派な背の高い地蔵が一古老から奉納され、笠掛地蔵とともに一堂に合祀されることとなった。 この地蔵はみんなの安産を願って『安産地蔵』として寄進されたものと聞く。 やさしい顔・立姿の美しい地蔵は庶民に好感をもって迎えられ今日に至っている。 そしてこの地蔵は、小さい照手姫の笠掛地蔵を見おろすこともなく、むしろ引立役をなしている。

堂内右、自然石で作られた二体の地蔵由来

ここより西へ約三○○メートル、同町内に竜宝院と名乗る古刹があった。 この寺は伊吹山弥高百坊の一つであったが大正の兵火で焼失、柏原の地へ転出して来たが昭和十年廃寺となった。 残された自然石の二体の地蔵を当地に預かったものである。これで堂内が賑やかになった。
 柏原一丁目 」