紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

青墓の芦竹庵と小篠竹の塚

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案内板
「 『青墓の芦竹庵 』

 牛若丸 (後の義経)は、京都の鞍馬山で修業を終え、金亮吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびようとしました。青墓の円願寺 (円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。
 その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきた芦の杖を地面につきさし、『挿しおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば 芦竹となれ』の歌を詠み、東国へ出発しました。
 その願いが仏道に通じたのか、その後、杖にしてきた芦が、大地から芽をふき根をはりました。そして、見事な枝に竹の葉が茂りました。しかし、根や幹はもとのままのでした。
 このめずらしい竹は、その後もぐんぐんと成長し続けました。それで、このめずらしい竹を『芦竹』と呼び、この寺を芦竹庵 と呼ぶようになりました。
(青墓伝説より )

大垣市立青墓小学校 」



小篠竹(こしのだけ)の塚
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案内板
「 小篠竹の塚

 青墓にむかし照手姫 という遊女あり
この墓なりとぞ
 照手姫は東海道藤沢にも出せり
その頃 両人ありし候や詳ならず
木曽路名所図絵 より)

一夜見し 人の情にたちかえる
心に残る 青墓の里
慈円 (後の慈鎮)
天台宗座主 愚管抄の作者 』

大垣市立青墓小学校 」