案内板
「 『青墓の芦竹庵 』
牛若丸 (後の義経)は、京都の鞍馬山で修業を終え、金亮吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびようとしました。青墓の円願寺 (円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきた芦の杖を地面につきさし、『挿しおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば 芦竹となれ』の歌を詠み、東国へ出発しました。
その願いが仏道に通じたのか、その後、杖にしてきた芦が、大地から芽をふき根をはりました。そして、見事な枝に竹の葉が茂りました。しかし、根や幹はもとのままのでした。
このめずらしい竹は、その後もぐんぐんと成長し続けました。それで、このめずらしい竹を『芦竹』と呼び、この寺を芦竹庵 と呼ぶようになりました。
(青墓伝説より )
大垣市立青墓小学校 」
小篠竹(こしのだけ)の塚
案内板
「 小篠竹の塚
青墓にむかし照手姫 という遊女あり
この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にも出せり
その頃 両人ありし候や詳ならず
(木曽路名所図絵 より)
一夜見し 人の情にたちかえる
心に残る 青墓の里
慈円 (後の慈鎮)
『天台宗座主 愚管抄の作者 』
大垣市立青墓小学校 」