紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の3(武佐宿)

二度目の中山道28日目の3
2020年3月20日(金)の3


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【大門跡と牟佐神社】

9:31 大門跡
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2016年には、背景にボロボロの塀があったような気がして、写真を探してきたら、後ろにあるのはシャッターの降りた倉庫でしょうか。
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その建物がなくなって更地になっていました。

9:32 牟佐神社
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2016年に来たときは9月6日、暑い日で、武佐神社の木陰で暫く涼みました。

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案内板
「 由緒

武佐は古へ牟佐村主の古地なれば牟佐上下の両社は平安朝の時代神威高く貞観元慶二度神位階を授けられし事三代実録に見ゆ。
当社はその牟佐下神なりといふ。
武佐は佐々木氏の時より宿駅として商売繁昌し市庭には商売店を列ね遠近の購客群集したり市庭に市神を祭りて商売繁昌を祈るは何れの市庭も同じ。
市神として売人に福利を與へ給ひし事代主命を祭る所以を解すべし。
明治九年村社に列す。
祭礼は古へ三月十五日にして長光寺村及び下平木村(平田町)の三村合同の祭礼なりしが文化以後一村となれリ。
明治以後四月十五日(現在は四月十五日に近い日曜)に祭礼を行ふ。  

近江蒲生郡志巻六より 」

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本殿の中央にお神輿を安置してあるのかと思ったら、 これは三社殿で、左から十二社・市神神社・祇園社の三社殿なんだそうです。

牟佐神社のすぐ脇が高札場跡。この写真は2016年に撮った写真です。
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9:35 蔵風の武佐小学校
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9:38 明治天皇の御聖蹟
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9:38 広済寺
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9:38 紅殻の家
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脇本陣跡】

9:39 武佐宿脇本陣
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案内板
中山道武佐宿

脇本陣

本陣の予備、補助的な宿泊、休けい所(元奥村家)

1989年度 武佐小学校卒業生 」

武佐宿にはこのような、小学校卒業生が制作した案内板がいくつもあり、助かりました。

脇本陣跡は現在は武佐会館になっています。

武佐会館の左手前に馬頭観音がありました。
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案内板
中山道武佐宿

馬頭観音

街道を往来する馬の安全を願い伝馬組合が建てた碑。

1989年度 武佐小学校卒業生 」


9:41 旧八幡警察署
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案内板
「 旧八幡警察署武佐分署庁舎

登録有形文化財
明治十九年建築 」


【ポケットパーク ムシャリンドウ】

9:43 ポケットパーク
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案内板
「 『ムシャリンドウ 』武佐(武者)竜胆

シソ科の多年草で、日当たりのよい山地の草原に生える。
名は花の姿がリンドウに似ており、蒲生郡武佐村(現近江八幡市武佐町)で発見されたことに由来する。
本州中部から北海道にかけて分布し、以前は福島県中通地方の滝根町須賀川市から、報告があったが、現在では、北海道に少々自生している程度で実に貴重な花である。

特徴
茎の高さは一五~四〇cmになり、その断面は四角である。葉は広線状で、緑がやや裏に反曲する。

花は六~七月にかけ茎の先に数個咲き、花冠は青紫色、唇形状で長さ三cm位である。
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栽培
露地栽培は、半日陰で排水のよい場所に、鉢栽培は、山野草の土又は、赤玉土、ひゅうが土、鹿沼土の混合用土に植え、五月~十月はカンレイシヤを使用し、風通しのよい場所で育て、十一月~4月は十分に太陽に当てる。

肥料については、春・夏・秋とも普通に与え、冬は散水を控えめにする。

増やし方は、株分け、または実生、さし芽。 」


今は3月なので、太陽によく当て、散水を控えめに、の時期ですね。

案内板に出てくる「カンレイシヤ」とは何か調べました。

カンレイシヤ wikipediaより

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寒冷紗(かんれいしゃ、米: cheesecloth, 英: (victoria) lawn)は、荒く平織に織り込んだ布である。織り糸には主に麻や綿などが用いられる。

農業分野では、耐候性や耐薬品性などの性能向上のため、合成繊維ビニロン糸、テトロン糸や高強力ポリエステル糸などを使用している。

・農業分野 - 農作物を覆い、寒さ避けや日よけとして用いる。

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カンレイシヤの画像は、kateisaiennkotu.comよりお借りしました。

ポケットパークには、像の絵もありました。
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2016年に撮った同じ案内板です。
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案内板
中山道六拾七番宿場武佐宿

武佐は昔『牟佐』又は『身狭』の字を使ったが江戸時代頃よりこの『武佐』をつかう。
蒲生郡第一の賑わいをみせ 中山道の大きな驛として 人馬の継立は人夫五十人馬五十駄を常設、本陣、脇本陣各々一、問屋二軒を有し旅籠は二十三軒あったと言われる。
この絵圖は享保拾参年(1728年)六月に輸入された象が翌年(1729年)三月 大阪、京都、大津を経て、この武佐宿で一泊した時の様子で、ここは象の通った道として知られている。
(この資料は近江蒲生郡志、東京国立博物館所蔵関西大学図書を参考に、原画は近江八幡市立東中学校の生徒作品です)」

武佐宿で、他の場所にも像の絵がありました。こちらは2枚とも2016年に録ったものです。
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【いっぷく処綿屋】

9:46 いっぷく処綿屋(close)
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案内板
「 木曾街道六拾九次之内武佐

武佐の西方に日野川(横関川)が流れていた。 文化3年(1806)に幕府が作成した「中山道分間延絵図」には、日野川は「平常渡船場 小水之節ハ舟二艘綰ナキ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」と注記されている。 従って旅人は平常この川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた2艘の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。 広重はその舟橋を描いている。 手前の岸で旅人達の渡橋を眺めているのは村役人であろう。 橋の中程には、葛籠の上に風呂敷包と茣蓙を重ねて背負った、腰の曲った老人が杖を突きながら渡っている。 武佐辺りは近江商人を最も多く輩出した地であり、この老人も高宮宿で生産された蚊帳などを背負って京都方面へ行商に出掛けるのではなかろうか。 その後では風呂敷包と傘を背負った一人旅が、覚束ない老人の足取りを見守っている。 対岸からは夫婦らしき巡礼が橋を渡ってくる。女房の着る笈摺の両端が赤いのは、彼女の両親がまだ生存していることを示している。 彼等が目指しているのは 武佐宿の先の西国三十二番目の札所観音正寺であろう。 対岸へ橋を渡り切ろうとしている子供は、握り飯を入れた藁苞と、雑穀か塩を入れたと思われる叺を天秤で担いでいる。(付記:図中の絵番号66は67が正しい) 」



【伝馬所跡 郵便局】

9:47 伝馬所跡
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案内板
中山道武佐宿

伝馬所跡

駄馬、人足を常置したところ。

1989年度 武佐小学校卒業生 」


9:47 郵便局

書状集箱と「お知らせ」
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案内板
「 お知らせ

近江八幡市武佐町は、中山道の宿場町として栄え、多くの旅人が往来した町であります。
武佐宿としての景観づくりのため、郵便局や書状集箱(郵便ポスト)も往時の様式を模したものとしました。
皆様のご利用をお待ちしております。

 平成九年七月十四日 武佐郵便局長 」



【旅籠屋跡 、本陣跡 】

9:48 旅籠屋
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案内板
中山道武佐宿

旅籠屋

旅人が泊まった宿
町内に残るただ一つの旅館

1989年度 武佐小学校卒業生 」


9:48 本陣跡
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案内板
中山道武佐宿

本陣跡 下川家

公家、幕府役人、大名、武士の宿泊休憩所

1989年度 武佐小学校卒業生 」


9:49 道標(八風街道道標)
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「 いせ ミな口 ひの 八日市 道 」

9:50 安土浄巌院道
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9:50 愛宕山常夜燈
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9:51 ムシャリンドウ
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案内板はポケットパークにあったものと同じ文章です。

9:53 武佐寺道標
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「是従三丁」

9:55 愛宕山常夜燈
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【高札場跡】

9:55 高札場跡
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案内板
中山道武佐宿

高札場跡

おきてを書いた
板をかかげたやぐらのところ

1989年度 武佐小学校卒業生 」


9:56 近江鉄道武佐駅
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9:57 武佐踏切
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二度目の中山道28日目の4(武佐宿から間の宿鏡宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/03/004411


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003