【茅葺きと紅殻のハーフの家】
8:22 愛宕大神
8:22 大神宮常夜燈
8:23 茅葺き屋根と、紅殻のハーフの家
右にカーブしている角にありました。
8:28 新幹線の高架を潜りました。
【老蘇(おいそ)の森 奥石神社】
8:34 老蘇の森が見えてきました。
8:38 地下道入り口
地下道で、道の左側へ渡ります。
地下道出口
地下道を出てすぐ、左側に中山道碑
「中山道 東老蘇」
「武佐宿へ一里」
8:37 エプロン地蔵
8:39 奥石神社東参道
指差し道標
「→ 東山参道」
「← 表参道 200先」
8:42 奥石神社表参道
8:42 老蘇の森の由来
案内板
「 老蘇の森由来
古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺からなる大森林があった。
今尚近在に野神さんとして祀れる大杉が老蘇の森の樹齢に等しいところからもすでに想像されるが現在は奥石神社の鎮守の森として其の名を留むるのみで面積は六十反歩を有し松・杉・桧等が生い茂ってゐる。
奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われている。
この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠と壮者を凌ぐ程であったので人呼んで『老蘇』と云ひこの森を老蘇の森と唱えはじめたとある。 又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。
古歌に
東路の思出にせん
郭公老蘇の杜の
夜半の一聲 」
8:43 根来陣屋跡入り口
8:44 寺小路入り口
【福生寺と轟地蔵】
8:45 福生寺(ふくしょうじ) 轟地蔵
(トイレをお借りしました)
案内板
「 木造阿弥陀三尊像(福生寺)
(安土町指定文化財)
福生寺は浄土宗寺院で、天正十六年(一五八八)に僧光阿(こうあ)の開其(かいき)と伝えられ、現在の本堂は江戸時代中期の建立とされている。
本尊の阿弥陀三尊の中尊(真ん中の仏像)阿弥陀如来像は檜材の寄木造りで、像高五八・四センチメートル、やや面長の輪郭に目尻をつり上げた細い目、小さくまとまった唇、張りのある頬や顎などに慶派(康慶・運慶などに代表される仏師の一派)の作風に共通する表現が見られ、鎌倉時代の作と考えられる。
案内板
「 轟地蔵尊
由来や建立年代は定かでないが、江戸時代に描かれた中山道分間延絵図には東老蘇を流れる轟川の中山道轟橋北西のたもとに轟地蔵が記されている。
明治時代になって、川と橋の改修工事により、福生寺に移築された。
地蔵堂内の中央に石の地蔵が安置されその前面に色鮮やかな小さい地蔵が二十六段、約千体飾られている。
青色や朱色などで着色された可愛い土人形で近隣(五箇荘小幡)で作られた小幡人形と思われる。人形の裏には戒名が書かれていることから、御先祖や水子の供養として奉納されたものと考えられ、古くから安産祈願のお地蔵さんとして親しまれてきた。
福生寺では、毎年八月の地蔵盆には、子ども達の健やかな成長と幸を願って盛大に法要が営まれている。 」
轟地蔵尊のお堂
案内板に書いてある「 前面に色鮮やかな小さい地蔵が二十六段、約千体飾られている。」という小さな色鮮やかな土人形達をお堂の扉の格子の合間から覗いてみました。
境内のエプロン地蔵
町並み 飛び出しくんもいます。
8:51 轟橋と常夜燈
常夜燈脇のエプロン地蔵
8:51 轟地蔵跡
案内板
「 轟地蔵旧跡と轟橋
現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文 一八○六年)には、この場所に画がかれている。 平安時代の俗謡『梁塵秘抄』のなかに『近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥』と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。 轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。 慶応元年(一八六五年)の福生寺の絵図には轟地蔵の記載がなく恐らく明治以後橋改修時に移したものと考えられる。 往時轟川の川巾は狭く三枚の石橋が架かっていた。轟橋と呼ばれ、その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。
近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首
堀川百首
わきも子に近江なりせばさりと我
文も見てまし 轟の橋 兼昌
夫木集
旅人も立川霧に音ばかり
聞渡るかなとどろきのはし 覚盛
古 歌
あられふり玉ゆりすえて見る計り
暫しな踏みそ轟の橋 読人不知
この案内板及び轟橋の欄干は『創意と工夫の郷づくり事業』で設置されたものである。
平成一二年一月吉日
東老蘇町づくりの会 」
【名勝 緑苔園】
8:52 名勝 緑苔園
案内板
「 杉原氏庭園
『緑苔園』と称する、勝元宗益(通称鈍穴)が江戸時代末期に作庭したことがほぼ明らかな庭園です。
回遊式の枯山水庭園で、広さは約500㎡。
座敷から見える石組を中心にした強さと優しさの異なる雰囲気を持った景色と、『秋錦亭』から見えるドウダンツツジ、苔など植栽を中心とした景色。
限られた空間内でこれら景色・植栽等視点の移動に伴って変化する庭の場景は、作者である勝元宗益の優れた造形感覚がいかんなく発揮されているといえます。 この庭は、大変優れたものであるうえ、作者・作庭年代がほぼ明らかな個人宅の庭であり、しかも作庭以来大きな改変もない点貴重です。
平成二十一年三月
安土町教育委員会 」
8:53 惣下道 福泉寺(庵寺)↑
8:55 老蘇コミュニティセンター
2016年にここを通りかかったとき、とても暑い日で、職員さんに
「お茶、飲んでいきませんか?」
と声を掛けていただいたのがとても嬉しかった。その時は遠慮して通りすぎました。
今回はコロナ禍で、通りすがりに立ち寄るなんてとんでもないこと、という世の中になってしまい、あの時、ちょっと休ませてもらえばよかったな、なんて懐かしく思い出します。
8:56 奥石神社御旅所
9:01 鎌若宮神社
9:02 素敵な門の家
9:03 東光寺
9:06 観音堂
9:11 小祠 輪飾りが派手ですね。
【西生来 泡子地蔵】
9:14 西生来(にししょうらい) ベンチあり。
看板
「中山道 西生来
どうぞごゆっくり 」
ベンチと、謎の青いポンプがありました。多分、農業用水のポンプだと思います。
9:17 蔵風の家
9:19 泡子地蔵御遺跡碑
案内板
「 泡子地蔵のいわれ
昔この地に村井藤斎という者が、茶店を構え妹が茶を出して旅人を休ませていた。
ある日、一人の僧が来てこの茶店で休憩をしたところ、妹はすぐに大変深くこの僧に恋をした。
そして、この僧が立ち去ると僧の飲み残した茶を飲んだ。すると不思議やたちまちにして懐妊し男の子を産み落とした。
それから三年してその子を抱いて川で大根を洗っていると、旅僧が現れて、嗚呼不思議なるかなこの子の泣き声がお経を読んでいるように聞こえるという。
振り向いてその旅僧を眺めると、三年前に恋をした僧であった。 妹が前年の話をするとその僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん泡となり消えてしまったと言う。 僧が云うに、西の方にある『あら井』というところの池の中に貴き地蔵がありこの子のためにお堂を建て安置せよ。 現在は西福寺の地蔵堂に祀ってある。このことは西生来の町名の由来でもある。 」
案内板の左下の囲み記事に「泡子地蔵縁起」が書かれていて、「静里 北川 舜治著 『近江名所案内記』(明治三十四年)」から引用された文章で、漢字と、送り仮名はカタカナで書かれています。一読した限りでは、この漢文調の文章を分かりやすく書き下したものが、この「泡子地蔵のいわれ」だと思われます。
9:21 「不動明王道 一丁半」石碑
タイヤのホイールの飾りが目を引きます。
9:21 西福寺と泡子地蔵尊
9:25 西生来一里塚跡
以前来たときは、ミキ洋品店前に碑がありましたが、移されたようです。
2016年に撮った西生来の一里塚跡です。
この写真を見ると、衣料品の三喜屋の倉庫のようです。
こちらは、2016年に撮ったミキヤの店舗。
今回撮った写真と2016年に撮った写真を見比べると、衣料品の三喜屋の倉庫が一般の家に変わっています。ミキヤは閉店してしまったのかなあ。
ネットで調べたら、ミキヤは今も営業しています。ミキヤの店舗は旧中山道とは少し奥まっている(2016年に写真を撮った時も、近隣をあるきまわって探しました)ので今回見逃しましたが、2016年に三喜屋の倉庫だった場所は、一里塚跡はそのまま残っていますが、今は倉庫ではなく一般住宅になっている、ということですね。
9:29 西生来大橋
2016年9月6日に来たときは工事中で迂回しました。
2016年に撮った、迂回した時の仮設橋から撮った景色です。
2016年9月6日にはまだ工事中だったのに、西生来大橋には平成28年(2016年)8月にこの橋が出来たことになっているのは何故なんでしょう。平成28年8月完成予定で予算をとっていたのが、工期が遅れたけれど、形式上8月完成としたのかな。
いままで、橋や建物など、そこに書いてある日付を信じていましたが、実は少しずれている可能性もあるんですね。
この川は地元では「どんどん川」と言われているらしく、正式には「蛇砂川」という川のようです。
その先の道で、体育館から運動会の練習と思われる曲と太鼓が聞こえてきて、その曲が桐原健太の「海の声」でした。「海の声」は、2015年にauのCMで浦ちゃん(桐原健太)が歌っていたので、2016年に流行っていたんですね。
今回撮った、体育館の写真です。
2016年に、迂回して仮設の橋を渡って、正規の道に戻ってきたとき、歩いた道です。
二度目の中山道28日目の3(武佐宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/02/101112
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003