紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の5(間の宿鏡の里)

二度目の中山道28日目の5
2020年3月20日(金)の5


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【間の宿鏡の里の旅篭跡】

11:47 旅篭亀屋跡
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案内板
「 江戸時代 
鏡の宿(中山道

旅篭 亀屋跡

平成二十三年一月
鏡の里保存会 」


11:48 旅篭京屋跡
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案内板
「江戸時代 
鏡の宿(中山道

旅篭 京屋跡

平成二十二年十二月
鏡の里保存会 」


11:49 旅篭富田屋跡
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案内板
「 江戸時代 
鏡の宿(中山道

旅篭 富田屋跡

平成二十三年一月
鏡の里保存会 」

11:50 地蔵群
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11:51 愛宕山常夜燈
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11:52 鏡口交差点(国道と合流)
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右を歩きました。

11:53 旅篭吉田屋跡
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案内板
「江戸時代 
鏡の宿(中山道

旅篭 吉田屋跡

平成二十年十二月
鏡の里保存会 」

11:53 真照寺
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【近江の中山道でイタリアンランチ】

12:05 トラットリア チリエージョ
(Trattoria Ciliegio)でイタリアンランチをいただきました。
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本日のスープ
新じゃがのポタージュ トリュフの香り
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アンティパスト
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きのこのペペロンチーノ
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デザートと紅茶
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12:46 出発


【鏡郵便取扱所跡 源義経宿泊の館跡】

12:48 鏡郵便取扱所跡
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案内板
「 自 明治七年四月一日
至 明治四十三年五月三十一日

鏡郵便取扱所跡

明治十九年四月 
鏡郵便局と改称

  平成二十三年一月 
鏡の里保存会 」

12:48 源義経宿泊の館跡
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案内板
平安時代 
東山道

源義経
宿泊の館跡

この館は白木屋と呼び 
澤弥伝と称し駅長であった

  平成二十年十二月 
鏡の里保存会 」
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案内板
義経宿泊の館

沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた
牛若丸はこの白木屋に投宿した 義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが現在では鏡神社宮司林氏が保存してゐる
西隣は所謂本陣で元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔である
その前方国道を隔てて
脇本陣白井弥惣兵衛である  

鏡景勝会建立 」


【本陣跡 駐在所跡】

12:51 鏡の宿 本陣跡
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案内板
「 江戸時代
鏡の宿(中山道

  本陣跡

元祖 林惣右衛門則之也

  平成二十年十二月 
鏡の里保存会 」

12:51 駐在所跡
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案内板
「 駐在所跡

明治十四年十月十四日 鏡分署と称して設置された 近江八幡警察署に属する 当時は金山力松氏宅をこれに充てられた
明治十五年十月 鏡交番所と改称される
明治十八年十月十九日 鏡村外三十一ヶ村にて新築(国道八号線沿い本陣跡の西隣)し寄付される
その後 明治二十二年一月一日 武佐警察署下鏡巡査駐在所と改称する。
昭和二十三年頃駐在所から警察の官舎となり 昭和三十年頃まで使用されていた

  平成二十三年一月 
鏡の里保存会 」

12:52 旅篭 加賀屋跡
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案内板
「江戸時代 
鏡の宿(中山道

旅篭 加賀屋屋跡

平成二十年十二月
鏡の里保存会 」

12:52 エプロン地蔵
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12:53 石仏石塔群
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【鏡神社】

12:53 鏡神社

鏡神社の入り口
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案内板
謡曲『烏帽子折』と鏡神社

謡曲『烏帽子折』は、義経記などの牛若丸(源義経)伝説から創作された、前段は鞍馬山を抜け出した牛若が、金売り吉次と奥州に向かう途中、追手が迫ったので、鏡の里で元服して姿を変えた物語、後段は、この後、赤坂宿で盗賊の熊坂長範に襲われ奮闘して退治した武勇伝。
鏡の里宿は当地で、鏡神社は牛若が元服の際、源氏再興を祈願した神社とされ、烏帽子を掛けた『烏帽子掛け松』や『元服の地』などがある。
元服に使った盥も神社に保管されてる、今や一片の板切れとなっているが、
その木くずは戦時中、出生兵士のお守りとして役だったという、大願成就、家内安全にご利益のある神社である。

       謡曲史跡保存会 」



源義経烏帽子掛けの松
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案内板
源義経
烏帽子掛けの松

承安四年(一一七四)三月三日 鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのであった
明治六年(一八七三)十月三日 台風により折損したため幹の部分を残して保存し後世に伝えるものなり
鏡神社
平成二十三年一月
鏡の里保存会 」

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案内板
重要文化財 鏡神社本殿
明治三十四年八月二日指定

神社の創立は古代にさかのぼると伝えられ、祭神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祀る。
現在の本殿は、室町中期に建てられたもので、滋賀県に遺構が多い前室付三間社(ぜんしつつきさんげんしゃ)本殿。蟇股(かえるまた)を多用し、屋根勾配をゆるくみせる外観は優美である。


重要文化財 鏡神社宝篋印塔
昭和三十五年二月九日指定

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、この境内より西南方約五百メートルの山裾、西光寺址といわれる林の中に建っている。鎌倉時代中期に建てられたもので、軸石の四隅に鳥形を造りだした形態の優れた作品である。


重要文化財 石燈籠
昭和三十七年六月二十一日指定

応永廿八年辛丑(かのとうし)八月八日(一四二一)の銘がある。

昭和六十三年三月
滋賀県教育委員会

階段を上って、鳥居の写真を撮りました。
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鳥居の右の方に設置されている案内板より。

案内板
「 鏡神社由緒

当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC三一)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
天日槍は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから『鏡』の地名が生まれ、書記にも『近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり』と記されている。 鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
延喜の御世には大誉会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女にも所縁の地である。 現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして屋根は『こけら葺き』の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安四年(一一七四)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。 鏡神社へ参拝した十六歳の若者は『吾こそは源九郎義経なり』と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した武将元服の地である。 以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。 義経公を偲ぶ『とがらい祭り』は十一月二の午夕刻に男児を主役に斎行される。 大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。 以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。 飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祀り七月十日を例祭とする。 」

今回は鳥居の写真だけを撮り、境内まで上がりませんでしたが、2016年には境内に行きました。この後の境内の写真は2016年に撮ったものです。

境内
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鏡山古窯址群
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案内板
「 遺跡散策ルート

①鏡山古窯址群
(鏡神社遺跡他)

鏡山古窯址群の窯址の分布は、竜王町野洲市湖南市の2市1町にまたがる鏡山一帯に広がっており竜王町側では、今日までの分布調査などの測査から6つの支群から構成されていることがわかり、操業していた時期は搾取した須恵器の年代から、6世紀末から8世紀はじめまでと考えられます。

竜王町教育委員会

拝殿
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本殿
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源義経 元服池】

13:57 「源九郎判官義経元服之池」碑
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「九郎判官源義経
元服之池 」碑
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案内板(石碑の下の銅板)
義経元服

父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ 兄は伊豆に流されて おのれ一人は鞍馬山
と歌はれし不遇の児 牛若丸は遮那王と称して鞍馬山仏道修業していたが 十一歳の時母の訓戒により祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志を達せんと堅い決意を抱いた
それより後は昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷にて一心に武術に励み 時の来るのを待っていた 京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった
時に奥州と京都を往還する金売商人吉次に語ひ承安四年三月三日の暁(昭和四十一年より七百九十二年前)住み慣れた鞍馬山に別れを告げ機を見て兄頼朝に謁せんと 憂き旅の東下りの途につき吉次 下総の深栖陵助頼重等と共にその夜鏡の宿につき 吉次の常宿白木屋に投宿することになった
牛若丸つらつら考へるに道中安全を期するには元服し東男に粧ふに若くはないと 吉次 陵助と語り元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた 其の夜この池の清淨水を汲み取り 前髪を落飾し源九郎義経と名乗った 時に年十六歳 これが元服池の由来である かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った 当地こそ武人としての義経出生の地である  

鏡景勝会建立 」

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案内板
平安時代
東山道

源義経 元服

東下りの途(承安四年三月三日)
当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う
その時に使いし水の池なり

  平成二十年十二月 
鏡の里保存会 」

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二度目の中山道28日目の5(間の宿鏡の里から守山宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/09/180310


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003