紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

鏡神社由緒

案内板
「 鏡神社由緒

当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇三年の御世(BC三一)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を祀る古社である。
天日槍は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから『鏡』の地名が生まれ、書記にも『近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり』と記されている。 鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
延喜の御世には大誉会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として百五十余首詠まれ、宮廷巫女の歌人額田王や鏡王女にも所縁の地である。 現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして屋根は『こけら葺き』の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安四年(一一七四)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬から奥州への旅路、この鏡の宿に泊り境内宮山の岩清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。 鏡神社へ参拝した十六歳の若者は『吾こそは源九郎義経なり』と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願した武将元服の地である。 以後岩清水は源義経元服池と称し現在も清水を湛えている。 義経公を偲ぶ『とがらい祭り』は十一月二の午夕刻に男児を主役に斎行される。 大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。 以後宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。 飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祀り七月十日を例祭とする。 」