紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き29日目の2(草津市郊外)

二度目の中山道29日目の2
2020年3月21日(土)の2


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2019年に二度目の東海道を歩いたときに同じルートを歩いています。その時のブログはこちら。
二度目の東海道20日目の2(草津市郊外)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/07/234240

【立木神社】

8:42 赤い鳥居の写真は、草津宿の外れの立木神社。ここは狛犬の代わりに、御神鹿がいます。
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LINEトラベルJP 旅行ガイドより

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立木神社が創建されたのは第48代の称徳天皇の頃、767年といいますから今からおよそ千二百年以上もの歴史を持っていることになります。

茨城県常陸の国にある鹿島神宮から白鹿に乗り旅に出られた武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、安住の地を求めて奈良へと向かわれた折にこの場所に立ち寄られました。そして持っていた柿の枝の鞭を地面に突き立て、この木が生え着いたならば自分は末永く大和の国の三笠の山にとどまることとなるであろうと言われたのですが、 やがてその鞭は根付き、武甕槌命は今の奈良にある春日大社の祭神となりました。

やがてこの柿の木を崇める人たちにより神殿が建てられ、そのいわれから立木神社と呼ばれるようになりました。その故に、この本殿の前をはじめこの神社の各所には鹿の像が置かれ、境内の一角には今も代を移しながらも柿の木が植えられているのです。

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立木神社境内にある石造道標
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案内板
「 市指定文化財 石造道標一基

24.0cm × 17.5cm × 213.0cm
江戸時代 (延宝 八年 = 一六八〇年)
指定年月日 昭和五十七年十二月六日

『刻銘』
(南面) 伊勢大神宮 延宝八庚申年
(カーン) 七ヶ年中履行月参詣願成就所 みぎハたうかいとういせミち
山城愛宕山 十一月吉日
(西面) 京みぶ村 ひだりは中せんたうをた加みち万宝院 あしたの行者

刻文よりこの道標は、東海道中山道 との分岐点である草津宿
中央部に位置する追分 の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分 に建てられている文化 十三年銘石道標 (一八一六年)
の前身のものと推定されます。
道標の建立年代は、『延宝八庚申年』(延宝八年 = 一六八〇)と
刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。
建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院 という
人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山 (愛宕神 )への七年間毎月の参
詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。

近江名所図会 に見られる草津追分
東海道名所図会 に見られる草津追分

草津市教育委員会

境内にあるウラジロカシ(滋賀県指定自然記念物)
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【うばがもちやと道標矢倉立場】

8 :54 古川酒造
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8:56 地蔵堂
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8:56 うばがもちや 道標矢倉立場
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案内板
「 矢倉立場

 東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南 に続く矢倉村 。立場 とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の『うばがもち』を売る店があった。
 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重 の浮世絵や『東海道名所図会 』『伊勢参宮名所図会 』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る『矢橋の渡し 』の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に『瀬田に廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅』と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で『急がば廻れ』の語源になったところでもある。
武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(『醒睡笑 』)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したものである。
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│寛政10年(1798)道標 │
│ (草津市指定文化財 ) │
│『右やばせ道 これより廿五丁 │
│  大津へ船わたし』 │
└────────────────┘

うばがもちやに関しては、こちらに詳しいので見てください。
二度目の東海道20日目の2(草津市郊外)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/07/234240


【野路一里塚跡】

8:57 ふるさと「矢倉」風景の記憶絵に見る今昔
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9:00 地蔵
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9:01 稲荷神社
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9:07 セブンイレブンでトイレをお借りして、R-1ドリンクを飲みました。

9:10 分岐
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9:11 野路一里塚跡 上北池公園
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東屋に掲げられた旧街道の絵
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昨年、二度目の東海道を歩いたとき、野路の一里塚跡からその先の大きい道を渡って保育園脇の道へ進むところで迷いましたが、今回はすんなり保育園脇へ。保育園脇の写真です。
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9:14 教善寺
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【平清宗胴塚】

9:15 平清宗胴塚
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案内板
「 平清宗 (一一七〇 ― 一一八五)

平安後期の公卿、平宗盛の長男。母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位待従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年檀ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
吾妻鏡』に『至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗』とあり。
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。

遠藤権兵衛家
当主 遠藤 勉 」

南草津駅を10分ほど南下した辺り、住所は草津市野路というところになるのですが、そこに平清宗胴塚があります。
壇ノ浦の合戦で源義経の捕虜となった清宗は、鎌倉から京へ護送される途中、ここで斬首となったそうです。当時15歳。

首は確かに清宗であるという証拠(首実検)のために京に持っていかれ、胴体だけが無惨にも打ち捨てられていたのを、地元の方が手厚く葬ったのではないでしょうか?

その五輪塔が、ここ、遠藤家の敷地内にあるのですが、昨年6月に来たときは、ブロック塀に囲われて、中を覗き見ることは出来ませんでした。
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それが今回来てみたら、案内板と五輪塔の写真を展示してある付近のブロック塀を残して、ブロック塀のほとんどが取り払われていました。
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遠くから見たとき、左横にある、アベマキ(樹齢150年)とエノキ(樹齢100年)の大木で、「あっ、ここは見たことがある」と気づいた次第です。
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昨年は、とても「中に入って見せていただけますか?」という雰囲気ではありませんでしたが、ブロック塀が取り払われた今なら、もしや、、、

広い敷地の真ん中辺りに、草木が繁った場所があり、きっとあそこにあるんだろうなあ。

管理棟のような建物の前を掃除しているシルバーさんがいて、その方に声を掛ければ見せていただけそうに思いましたが、新型コロナウィルスの影響でみんなお互いに人との接触を怖がる時期ですから、シルバーさんに声を掛けづらくて、きっとあの辺りだろう、と思う中庭のような場所を遠くから目を凝らして見つめて、展示されている写真だけで満足して立ち去りました。
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9:18 「ようこそ南草津 遺跡と萩の育む町野路の玉川へ」
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9:18 新宮神社
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9:20 野路在郷軍人用地
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9:22 子育て地蔵
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9:23 二つ並んだ小祠
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【野路の玉川】

9:26 野路の玉川
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案内板
「 古き宿駅
野路駅 の名残り

野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語 』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝 が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川 と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
千載和歌集 』の源俊頼 の歌に
 あすもこむ 野路の玉川 萩こえて
 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会 』や歌川広重 の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
 付近には重要文化財 の本殿 がある新宮神社 をはじめ、野路小野山製鉄遺跡 など多くの歴史遺産が所在する。」
草津八大名所 」

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案内板
「 『 野路萩の玉川』

 『野路 』は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅 として栄えた所である。  源平争乱の時代ここ野路は、數多くの武将の宿陣となり時には火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。  
ここ萩の玉川 は多くの歷史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり都から公郷、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集 (1188 年)所載の源俊頼 の作
 『あすもこん 野路の玉川萩こえて
 色なる浪に 月やどりけり』
は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記 (阿仏尼 作)には
 『のきしぐれ ふるさと思う袖ぬれて
 行きさき遠き 野路のしのはら』
と詠んだ。十禅寺川 の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵 によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。  
その後野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。
近年は泉も涸れ形も 小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川も わずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時  我等地元住氏は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次来である

昭和五十一年十一月二十八日
草津市野路町 」

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9:28 地蔵
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9:31 弁天池
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二度目の中山道29日目の3(大津市郊外)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/16/160140


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003