6月18日(火)の2
【立木神社】
いかにも宿場町はこの辺りで終わりかなあ、というタイミングで信号のある交差点。
交差点の右向こう角に赤い鳥居。
立木神社です。
LINEトラベルJP 旅行ガイドより
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立木神社が創建されたのは第48代の称徳天皇の頃、767年といいますから今からおよそ千二百年以上もの歴史を持っていることになります。
茨城県の常陸の国にある鹿島神宮から白鹿に乗り旅に出られた武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、安住の地を求めて奈良へと向かわれた折にこの場所に立ち寄られました。そして持っていた柿の枝の鞭を地面に突き立て、この木が生え着いたならば自分は末永く大和の国の三笠の山にとどまることとなるであろうと言われたのですが、やがてその鞭は根付き、武甕槌命は今の奈良にある春日大社の祭神となりました。
やがてこの柿の木を崇める人たちにより神殿が建てられ、そのいわれから立木神社と呼ばれるようになりました。その故に、この本殿の前をはじめこの神社の各所には鹿の像が置かれ、境内の一角には今も代を移しながらも柿の木が植えられているのです。
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写真の、赤っぽい石で、丸い穴が空いているものは、上に篆書体で、「旧伯母川橋梁礎石」と書いてあります。書道をやっていたことがあるので、これぐらいの篆書体なら読めます。
表玄関は赤い鳥居に狛犬ではなく牡鹿、雌鹿ですが、こちらの写真3の脇の鳥居は
地味だし、普通に狛犬ですが、私は表玄関よりこっちの方が好きです。
【矢倉道標、うばが餅屋、瓢泉堂】
7:59 矢倉道標
「右やばせ道 右是より廿五丁 大津へ船わたし」
市指定文化財だそうです。
滋賀・びわ湖観光情報サイトより
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東海道と矢橋街道の分岐点にあたる、かつて「姥ケ餅屋」があった場所の北の軒先に寛政10年(1798)に建てられた一基の石造道標があります。これは、東海道を道ゆく旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものでした。
この道標は、歌川広重の描く浮世絵をはじめ、「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」などに紹介された「姥ケ餅屋」の軒先にも描かれています。
江戸時代にここにあった「姥ケ餅屋」も明治になって移転しましたが、現在は瓢箪を製造販売されている瓢泉堂という店があり、道標は今もかつて多くの旅人が行き交った昔の面影を持ち続けています。
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広重の描いたうばがもちや。
こちらの写真は、二度目の中山道を歩いたとき、2016年9月7日に草津で買って帰ったうばがもち。
うばがもちやHPより
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戦国時代のおとしご?うばがもち
人々の往来で賑わった東海道、しかも中山道との分岐点だった草津宿も例外ではなく、名物の餅が旅人の口の慰めとなっていた。
広重、北斎の浮世絵や各種の名所図会にも描かれている『うばがもちや』がそれだ。
うばがもち、漢字で書くと『姥が餅』となるが、実はこの商品名、広辞苑にも記載されており、「あんころ餅の一種。滋賀県草津の名物。」とある。
そもそも『うばがもち』とは?その由来をちょっと講釈。時は永禄、といってもピンとくる人は少ない。時代的にいうと、なんと戦国時代にまでさかのぼる。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦い、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒したころが永禄年間(1558~1569)。その織田信長の武名、天下にとどろき諸国を制覇、ここ近江の守護代となったころのこと。
近江源氏佐々木義賢も永禄十二年に信長に滅ぼされ、その一族も各地に散在を余儀なくされる・・・・・・。
その中に三歳になる義賢の曾孫もいた。義賢は滅ぼされた際、その幼児を心より託せる人がいなかったので、乳母である”福井との”を招き、貞宗の守刀を授け、ひそかに後事を託した。
乳母”との”は旨を守り、郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくっては売り、養育の資として質素に暮らした。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したという。
周囲の好意とともに、宿場町草津で、こんな言葉も流行りだした。
「瀬田へ廻ろうか 矢橋へ下ろか
ここが思案のうばがもち」
草津は東海道と中山道の分岐点、交通の要所で、往き交う旅人の格好の休み処だったので、この言葉とともに『うばがもち』の名は早くも天下に知られるところとなった。
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うばがもちやが移転した後に、矢倉道標が建っている軒のお店は、現在は瓢箪を売る瓢泉堂ということで、瓢泉堂を調べてみました。
草津観光.comより
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草津伝統の技
素材も売る瓢箪屋
株式会社 瀬川元 瓢泉堂
昔から瓢箪は六瓢(無病)息災の縁起物として親しまれてきました。
全国でも残り少なく、草津で唯一残る瓢箪の専門店「瓢泉堂」の瀬川裕海さんにお話を伺ってきました。
創業からこちらでずっとされているのですか。
店の前の道標にもある通り、ここは旧東海道と矢橋道の分岐点なんですが、創業はこの場所の斜め向かいでした。元々、ここは姥が餅のお店やったんです。旅人達はここで姥が餅を食べて、向かいで水筒の瓢箪を買ったんですね。瓢箪は水を入れるのはもちろん、夜はお酒を入れる容器として使ってたんです。
今ではもううちだけになりましたが、この辺には瓢箪を売る店が6軒ほどあったそうですよ。
瓢箪、今では縁起物ですよね。
そうですね。今はペットボトルもありますし、水筒として使われる事もなくなりましたからね。
縁起物として飾られるようになったのは、病気がちな父親の為に息子が養老の滝の水を瓢箪に入れて飲ませたところ、病気が治った。という言い伝えから来てます。「6つ揃えれば六瓢(無病)息災になる」という訳です。
(後略)
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矢倉道標の辺りから大きい方を催していましたが、旧東海道が国道(1号線と8号線、両方書いてある)にぶつかった左角にセブンイレブンがあって助かりました。
過去に2度も草津から大津への道は歩いているのですが、この道はずっと静かな道を歩いた印章でした。しかし、こうやって歩き返してみると、結構何回も大きな道を横切ります。
大きな道を横切ったことは忘れていて、静かな道をずっと歩いた印象だけが残ってるんですね。
【野路一里塚跡】
セブンイレブンを出て、国道を横切って、また静かな道を4分ほど歩くと、右に上北池公園があり、
その公園の中に、野路一里塚跡の石碑がありました。
日本橋から119里目だそうです。
その公園に、写真の絵が飾られていました。これも多分広重の草津の絵です。
【15歳の清宗】
上北池公園からもう少し進むと、自動車がどんどん通る広い道を渡らねばなりません。
そしてその先、どこの道に入るのか、ちょっと迷いました。
ガイド本には、
「ののみち保育園」の右に入る、とあります。
ちょうど園児達がおかあさんに連れられて登園中だったため、その方向に行きました。坂道をぐんぐん上り、目の前に見えている、いかにも公共の建物がその保育園かと思って行ってみたら、違う公共の施設でした。
さっき追い越した、たくさんの園児たちはどこへ行ってしまったんだろう、と坂道を降りていったら、子どもたちは奥まった保育園登園門に吸い込まれて行くものの、その右側には道はなし。
保育園の裏側が反対側にあるに違いない、と、さっき渡った広い道を戻ったら、上北池公園から進んできた道より、進行方向少し右側に、写真の曲がり角がありました。
ののみち保育園の写真を撮らなかったのは、登園中のこどもたちの安全確保のためか、警備員さんが立っていて、保育園の写真を撮ったりしたら不審者扱いされそうなので撮りませんでした。
角を曲がると、いかにも旧東海道の静かな道。
右側のブロック塀に何やら看板。
「平清宗」と書いてあります。
案内板
「 平清宗 (一一七〇 ― 一一八五)
平安後期の公卿、平宗盛の長男。母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位待従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年檀ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり。
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
遠藤権兵衛家
当主 遠藤 勉 」
わずか15歳で斬首されたんですね。
写真の、胴塚の写真もブロック塀に展示されていました。
ということは、現在は公開されていないのかな。
10年ほど前には、遠藤さんの個人宅のお庭に入らせていただいて、直接胴塚を見せていただいたというブログも拝見しましたが、やはり個人のお宅のお庭となると、中にはマナー違反の輩もいたのかも。
確かめてはいません。もし、声をかければ見せていただけたかもしれませんが、胴塚の写真をブロック塀に展示しているということは、とりあえずはここまで、と私は判断しました。
【願林寺の出会い】
平清宗胴塚のあるお宅から5分ほど歩いた左側に願林寺という寺がありました。
奥まった山門の向こうに、棒のようなものがにょきにょき何本も立っているのが気になって、奥の山門まで行ってみました。
よく寺や神社の写真を撮るのは、現在地の把握が一番の目的で、また、一里塚や橋など以外の発見や気分転換のためで、寺や神社の由緒などにそれほど興味があるわけではありません。
でも、たまに、おお、そうだったのか、と、寺や神社の由緒や伝説やエピソードに感動することもあります。
願林寺の山門を入ると、おお!
立派な松が目に入りました。横へと這うように伸びる松の枝を、さっき見たたくさんの棒が支えていたのです。
さらに、手水鉢が岩舟みたいで素敵、鐘も素敵、と見て歩いていたら、期待していなかったトイレがあり、さっそく使わせていただいたところとてもきれいなトイレでした。
これも、お地蔵さまに手を合わせ、
「旅の安全をお守りください」
と言っているからだなあ。旅の安全は、交通事故や物盗りや、かどわかしだけでなく、トイレも大事だよね。
クリスチャンは一神教だから、八百万の神の考え方はタブーという人もいますが、八百万の神の国日本に生まれ、神社の参道に住み、神道は地縁なので勝手に氏子にされて、ずっと生きてきました。
高校の頃から山登りを始めましたが、山小屋のご主人に、山の自然に逆らってはいけない。山に登るときは、麓に神社があれば、その神社に「よろしくお願いします」と挨拶する。神社がなければ、山に挨拶する。これは当たり前のこと、と教わりました。
東海道を歩くのも同じです。お地蔵さまは大抵、村の入り口や出口に立ち、その村を守っています。
だから、お地蔵さまに、
「村を通らせていただきます」
「ありがとうございます」
「この先の安全もお守りください」
と挨拶するのは当たり前だと思います。
嫁ぎ先が浄土真宗で、ご院家さんのお話しがとても面白くてしっくりくるのは、実は浄土真宗の教えは、親鸞の教えだからだと最近気づきました。
親鸞はとてもおもしろくて興味深いカリスマです。
そんなこんなをトイレで瞑想して出てきたら、境内に親鸞聖人がいました。
あ、このお寺、浄土真宗だったんだ。なんだか凄い出会いだと思いました。
添付の絵手紙には芭蕉翁も出てきますが、また後程芭蕉に出会います。
この絵、初めて金色の顔彩絵の具を使ってみましたが、金色に見えるかな?
【子守り地蔵と萩の玉川跡】
願林寺から10分ほど歩くと、右側に子守り地蔵がありました。村の人々の信仰を集めているそうです。
道端の「子守り地蔵」という案内板の裏側に子守り地蔵があるため、10年前の初めての東海道歩きの時も、9年前の中山道歩きの時も、子守り地蔵に気づかずに、その目と鼻の先にある2つ並んだ小さな祠を子守り地蔵だと勘違いして行き過ぎてしまいました。
今回は、少し手前にあった、コミュニティセンター前の駐車場に掲げられた写真入りの絵地図で子守り地蔵の写真を見ていたために、2つ並んだ小さな祠が子守り地蔵ではない、とすると、東海道側に背を向けた、あの建物(知らないと、ゴミ集積場みたいで気づきにくいです)が子守り地蔵かもしれない、と、わざわざとって返して、坂を下って覗き込んでみたら、東海道に背を向けていたのが子守り地蔵でした。
それからまた4分ほど歩くと、右側に萩の玉川跡。
平安時代に源俊頼が
「あすもこん野路の玉川萩こえて色なる波に月宿りけり」
と詠んだ場所です。
今も水がこんこんと湧いていて、四阿(東屋)があります。
ここで休んでいた先客の東海道ウォーカーをちらりと見かけました。私が来たので席を譲ってくださったのか、すれ違うように歩き出しました。
本日出会った二人目の東海道ウォーカーです。
この方は、また晴嵐商店街あたりで見かけます。
萩の玉川から8分ほど歩くと、弁天池
2度目の東海道20日目の3(大津市に入り、大津駅まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/08/104556