野路萩の玉川
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案内板
「 『 野路萩の玉川』
『野路 』は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅 として栄えた所である。 源平争乱の時代ここ野路は、數多くの武将の宿陣となり時には火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
ここ萩の玉川 は多くの歷史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり都から公郷、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集 (1188 年)所載の源俊頼 の作
『あすもこん 野路の玉川萩こえて
色なる浪に 月やどりけり』
は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記 (阿仏尼 作)には
『のきしぐれ ふるさと思う袖ぬれて
行きさき遠き 野路のしのはら』
と詠んだ。十禅寺川 の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵 によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。
その後野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。
近年は泉も涸れ形も 小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川も わずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時 我等地元住氏は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次来である
昭和五十一年十一月二十八日
草津市野路町 」