紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の4(武佐宿から間の宿鏡の里への道)

二度目の中山道28日目の4
2020年3月20日(金)の4


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【 伊庭貞剛邸跡の巨大クスノキ

武佐踏切を過ぎてから、いくつか古そうな建物の写真を撮りました。
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10:01 いばECO広場
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http://www.tree-flower.jpより

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伊庭貞剛邸跡の巨大クスノキ

中山道の西宿地区に「伊庭貞剛邸跡」の案内板がありその左手に大きなクスノキが立っています。伊庭貞剛(いばていごう)は明治時代の住友家を支えた人物で、この西宿の出身です。
 伊庭家は近江の守護大名佐々木家の流れをくむ名家で、屋敷には長屋門を構、広大な屋敷を有していました。現在、屋敷は解体されてしまい公園になっていて遺構はありません。
 クスノキは旧中山道に沿って立っており、幹周5mを超すという巨樹です。クスノキには珍しく地上10m程には枝がありません。根元には小さいですが空洞が見られました。
 伊庭貞剛は明治12年に叔父広瀬宰平の薦めで住友家に入社、翌明治13年には大阪本店の支配人になります。その後明治33年には広瀬宰平を継ぎ住友家総理事になった人物で、別子銅山の煙害解決に努力しました。

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巨大クスノキを振り返りました。
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旧家
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10:04 鎮火霊璽(ちんかれいじ)
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霊璽とは? 「いい葬儀」というサイトより

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霊璽(れいじ)とは、神道に則って故人を家庭で祀る際に、その御霊を移す依り代となるものです。 仏教における位牌に相当するもので、御霊代(みたましろ)とも呼ばれます。 霊璽には位牌における戒名と同様に霊号を文字入れし、仏壇に相当する祖霊舎(それいしゃ、みたまや)に安置します 。

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六枚橋交差点のファミマでトイレをお借りして、カスタードシューを買って食べました。


【壊れた題目碑】

10:25 題目碑
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ここを右に曲がる目印なのですが、崩れていました。以前来たときは崩れていませんでした。

2016年に撮った題目碑。
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他の方のブログも拝見しました。
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こちらのブログ、2017年に撮った写真です。
http://hitsujitei.life.coocan.jp/nakasendo-88.html

10:26 趣ある塀。
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第一印象は、以前来たとき傾いていた塀が修復されている、と思ったのですが、2016年に撮った写真と見比べて見ると、
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塀が崩れていたわけではなく、塀はそのままで、2016年には草ぼうぼうで荒れたイメージだったのが、今回は草が刈り取られて整備されたので、すっきりした印象になったのですね。



【住蓮房首洗い池】

10:27 御墓道碑
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道標
「住蓮房 安楽房 御墓 是より三丁」


10:30 住蓮房首洗い池
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案内板
「 住蓮房首洗い池

住蓮坊は、鎌倉時代前期の僧侶。 法然源空の弟子で美声であったという。 専修念仏の弘通につとめ、安楽房とともに所々で別時念仏会に六時礼賛を行い、僧俗の帰依を受け、貴賎を問わず教えを広めた。 当時、都では法然上人の念仏教団が既成の教団からうとまれつつも力を得つつあった。 しかし、南部北領の念仏者弾圧は執拗で、建永元年(一二○六年)二月には、興福寺によって法然上人、安楽らとともに、罪科に処せられるよう訴えられている。 同年十二月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、安楽と東山鹿ケ谷で六時礼讃を唱えた。 これに帰依渇仰する人多く、それがきっかけで後鳥羽上皇の二女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依した。 これを知った後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は翌、承元元年(一二○七年)近江馬渕の荘の池のほとりで処刑された。 その首を洗ったといわれる池が、この『首洗い池』である。
『身になれし 錦の小袖 やきすてて 弥陀のみ国に 墨(住)染の袖』
(上句・松虫姫 下句・鈴虫姫)

二○○六年六月十一日 
千僧供町まちづくり委員会 」

2016年に来たときは、ここのベンチでお昼かわりのお菓子を食べました。


10:35 道標
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「住蓮房 安楽房 御墓」



【千僧供町、馬淵町から東横関町へ】

10:38 千僧供町(せんぞくちょう)交差点
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10:42 妙感寺道標
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「従是八町 」

10:45 馬淵町交差点
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10:45 八幡宮
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10:45 高札場跡
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10:46 斜め右へ
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10:48 茅葺き屋根の旧家
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10:49 地蔵堂と地蔵群
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11:00 東横関町に入りました。
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新幹線がしょっちゅう通ります。

11:04 宝積寺(門)
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11:06 分岐左へ
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ここへ来るのは3回目ですが、村がおしゃれになっていました。


【横関川渡し場跡(北側)】

11:08 日野川(横関川)の渡し場跡(北側)
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案内板
中山道六十九次の内・武佐

中山道は別名『木曽海(街)道』とも呼ばれていた。 その中山道六十九次の第六十七番目が武佐宿である。 この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。 文化3年(1806)幕府が作成した『中山道分間延絵図』には『平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス』と注記されていることから平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。 そうして、広重は大助郷の東横関村をあえて武佐としたと考えられる。 日野川のこの場所に、橋が架かったのは明治8年(1875)のことであり、明治19年(1886)には無賃通行となり、それから明治26年(1893)に新調されたが、道路は中山道から国道8号となり、その新道として昭和12年(1937)近代的な横関橋が、この上流に架橋され、旧い橋はその2年程後に撤去された。 現在も、ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残っている。 また、河原に下れば、かつての旧道の橋の名残りも確認できるので、往古の情景を思い浮かべていただきたい。 」

石燈籠の右に案内板

案内板
中山道の史跡です。
きれいにして下さい。

東横関町自治会 」

案内板を右に見て、土手道に進みます。(さっき集落から歩いた来た道からは、逆くの字に左に折れます。)
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土手道
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11:13 土手側から見た宝積寺
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あの辺りが渡し場跡かなあ。
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11:19 横関橋
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橋を渡って右へ。
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11:20 さっき歩いてきた土手道の対岸の土手道へ。
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うぐいすがしきりに鳴いていました。
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11:25 横関川渡し場跡(南側)
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11:27 西横関集落入り口
猪除けのフェンスがありました。
フェンスを越えて集落に入るのは
なんだかドラクエの世界みたい。
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11:29 若宮神社
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11:30 浄泉寺
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11:33 川岸の地蔵群
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11:36 国道8号線に合流しました。
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11:39 水口道道
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「是よりいせみち」
「ミなくち道」
(東海道水口から伊勢に至る)

11:44 分岐斜め左へ
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二度目の中山道28日目の5(間の宿鏡の里)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/04/141416


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003