紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の6(間の宿鏡の里から守山宿への道)

二度目の中山道28日目の6
2020年3月20日(金)の6


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【平家終焉の地】

13:02 旧道
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13:02 中山道案内板
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案内板
中山道

中山道は江戸時代より日本五街道の一つとして、重要な役割を果たした。
昭和十年頃まで国道としての役割を果たしていた。
ここから数百mの家並み通り、鏡へと通じる道路は古い中山道の面影を留めている。 古代に造られた日本の幹線道路、東山道には、篠原に駅家が置かれ、十五頭の馬が配備され、篠原駅として、宿場と共に栄えていた。
東山道の位置は、この付近では中山道と同じ位置で、鏡へと通じていたと考えられる。
鎌倉時代頃より篠原宿は衰え、宿場は鏡の方に移っていった。  

野洲市大篠原自治会 
大篠原郷土史会 」


13:04 石仏(地蔵)
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前2回とも見に行きませんでしたが、今回は旧中山道から少し外れて、初めて平家終焉の地、平宗盛胴塚を見に行きました。

中山道と、平宗盛胴塚への道との分岐
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細い道を辿って行くと、
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案内板が見えてきました。
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13:09 蛙不鳴池および首洗い池
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案内板
「 蛙不鳴池および首洗い池

西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った『首洗い池』と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約二二〇m)あった。
首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。

野洲市大篠原自治会 
大篠原郷土史会 」

平宗盛の墓 清宗の墓
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平家終焉の地
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案内板
「 平家終焉の地

平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野州市である。
平家最後の最高責任者平宗盛源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄弟平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向かった。途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将平宗盛とその子清宗を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために掘った祇王井がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野州町が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり父子の首を洗ったといわれ、『首洗い池』、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから『蛙鳴かずの池』とも呼ばれている。

野州市観光物産協会 」

13:02 分岐に戻り、旧中山道を再び歩きます。

13:03 蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)には鴨がのんびり。
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【大篠原の一里塚跡】

13:17 光善寺
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13:18 メガソーラー野洲と、地蔵
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この辺りに大篠原の一里塚があるのですが、2009年に来たときも2016年に来たときも見つけられなかったので、探しながら歩いていたら

道の下の方に一里塚らしきものを発見!
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13:19 大篠原(おおささはら)の一里塚跡
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江戸日本橋から126里目の一里塚です。
3回目にして初めて見つけました。

案内板
「 一里塚(いちりづか)跡

一里塚は、江戸幕府が、国内の需用な街道の整備の一端として、距離の目安となるように 一里(約四キロメートル)毎に設けたものである。
宝暦六年(一七五七年)出帆の岐蘇安見絵図(きそやすみえず)によれば、中山道を横切る光善寺川(砂川なるみ橋とあり)の西にあり、 右 榎(えのき)一(北側)、 左 松(まつ)四(南側) と、記されている。
ここを三軒松(さんげんまつ)と称し、戦前まで大きな松が一本残っていた。
なお、この附近の小字名も一里塚という。

野洲市大篠原自治
大篠原郷土史会 」

一里塚跡から国道に戻る坂道
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13:22 浄勝寺前交差点
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国道から離れて、右に入りました。

13:28 道標
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「是よりいわくらやくし道 是より七丁」
この道標で中山道から分かれ山に向かって進むと、薬師如来を本尊とする岩蔵寺があるそうです。

13:29 大篠原神社社標
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家並み
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こちらは2016年に撮った家並みです。
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道祖神中山道案内板】

13:32 道祖神 お掃除中でした。
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2016年に撮ったこの石地蔵が、今回お掃除中で近くで見ることが出来なかった道祖神ではないかと思うのですが。
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案内板
中山道

中山道は江戸時代より日本五街道の一つとして、重要な役割を果たした。
昭和十年頃まで国道としての役割を果たしていた。
ここから数百mの家並みを通り鏡へと通じる道路は古い中山道の面影を留めている。古代に造られた日本の幹線道路、東山道には、篠原に駅家が置かれ、十五頭の馬が配備され、篠原駅として、宿場と共に栄えていた。
東山道の位置は、この付近では中山道と同じ位置で、鏡へと通じていたと考えられる。
鎌倉時代頃より篠原宿は衰え、宿場は鏡の方に移っていった。

野洲市大篠原自治
大篠原郷土史会 」

13:33 大篠原堤
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ガイド本に書いてあったコンビニはなくなっていました。

13:46 地蔵
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13:46 愛宕山大神と常夜燈
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【家棟川砂防事業】

13:46 家棟川(やのむねがわ)砂防事業の概要
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案内板
「 家棟川砂防事業概要

上流の山は芙佳の進んだ花崗岩質の地質性状なため、出水の時は大漁の土砂が流れ出し、家棟川は河床が周辺地盤より高い『天井川』を形成していました。そのため、過去幾たびかの堤防決壊等により大きな被害も生じており、治水安全度が極めて低い状況でした。
この家棟川による被害から住民のみなさんの生命・財産を守るため、平成7年度より整備を進め、国道8号の上部を通過していた『天井川』の河床を最大10m切下げ、平成19年度に平地河川化が完了し、家棟川の治水安全度は大きく向上しました。 」

案内板がかなり薄れていました。こちらは2016年に撮った撮った同じ案内板です。
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13:47 やのむねかわ新橋
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2016年に撮った家棟川
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【篠原神社とかつての家棟隧道】

13:50 村社 篠原神社
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大きそうな神社なのでトイレがあるか見に行ったのですが、ありませんでした。
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案内板
「 家棟川と隧道の歴史

時の流れは、この場所に様々な変化をもたらしました。
ここには、現在とは異なり、川辺が周辺家屋の棟の高さまでにもなった『天井川』の家棟川が流れていました。そのため、ここを通行する人々や馬車は堤防に上がり大変な苦労をしながら川を渡っていました。
大正6年(1917年)の大正天皇陸軍大演習の行幸にあたり、『天井川』の下に突貫工事でトンネルが掘られました。そのトンネルは『家棟隧道』と名付けられました。
以来、『家棟隧道』は、昭和28年の国道8号の開通まで中山道として国土の幹線軸の一端を担ってきましたが、家棟川の切下げ工事を機にその歴史的な価値を惜しまれつつも、通行の安全性などに配慮して撤去されました。 」

こちらは「廃線隧道【BLOG版】」よりお借りした、ありし日の家棟隧道
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同ブログよりお借りした、家棟隧道跡地
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13:57 長屋門
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こちらは同じ長屋門を2016年に写したもの
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【子安地蔵堂

14:00 子安地蔵堂
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トイレがあったのでお借りしました。
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案内板
地蔵菩薩(子安地蔵)
野洲市大字辻

往時この地方は比叡山三千坊に数えられた
数多くの巨刹(さつ)があり、その中に天台系嘉祥寺に安置され元亀の兵火をまぬがれたのがこの地蔵菩薩像である。極彩色等身大にして蓮台に腰をかけ左目手を繋ぐ垂下し右足を曲げて左膝に置き左目に薬玉をみぎてに錫杖を持ち材は桧と思われる。眉間に水晶製白毫(びゃくごう)をはめ、目は彫眼で表し、まるがおでふくよかな顔つきや丸みのある体躯、彫りの浅い衣文など平安時代末期(十二世紀)の造像と考えられる。秘仏となっているが安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤く、毎年一月、八月の縁日には開扉(かいひ)される。
野洲観光協会

境内には沢山のお地蔵さまが。
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「子育て水子地蔵尊」石碑

案内板碑
「哀(あわ)れ愛(いと)しと抱きたまう
大慈大悲の 地蔵尊
あみだ如来のすがたかえ
育て導く 最尊(ほとけ)なり

南無や幼子(わらべ)の 地蔵尊
南無阿弥陀阿弥陀佛 」


14:06 愛宕大神
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【甲山古墳と銅鐸モニュメント】

14:12 甲山古墳入り口
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過去2回はパスしましたが、今回初めて見に行きました。
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案内板
「 甲山(かぶとやま)古墳

標高110mの丘陵先端につくられた6世紀前半の円墳で、直径約30m、高さ10mの規模をもち、内部には西に開口する横穴式石室があります。
備前は、部屋割り(玄室)手前の天井石が落下しており、内部に大量の土砂が堆積していました。また、墳頂部も陥没し、墳丘盛土(ふんきゅうもりど)も流失しつつあり危険なことから、通路(羨道 せんどう)の石組を積み直し、墳丘盛土についても復元整備を行いました。
石室は、奥に向かって下がっている通路 (羨道)があり、部屋(玄室)は、奥から見て右側に袖をもち、長さ6.8m、幅2.8m、高さ3.3mの規模で、床面には玉石が敷き詰められています。中央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇土(うど)半島の凝灰岩(ぎょうかいがん)でつくられた家形石棺(いえがたせっかん)を安置しています。
整備を伴う発掘調査によって装身具(金糸、銀製くちなし玉、空〔うつろ〕玉、碧玉〔へきぎょく〕製切子〔きりこ〕玉、ガラス張り玉)、鉄製の武具(甲冑〔よりいかぶと〕、太刀、鉾、鏃〔やじり〕刀子〔こがたな〕)、馬具(金銅〔こんどう〕製鏡板付轡〔くつわ〕、金銅製透彫入〔すかしぼりいり〕雲珠〔うず〕、馬甲〔うまよろい〕)などが出土し、特に金糸や馬甲は珍しいものです。」

ここに書いてある、馬具の雲珠とは何でしょう。

雲珠(うず)とは?コトバンクより

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馬具の一部の名称。 面繫(おもがい)などがそれぞれ交差する辻の上につけた如意宝珠ようの金具を,唐鞍(からくら)の制で雲珠とよんだことに由来する。 金具がうず高くつくられていることから,このような名称が生まれたものといわれる。

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円墳の中に入って見ました。家型石棺がありました。
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甲山古墳は桜生(さくらばさま)史跡公園内にあり、桜生(さくらばさま)という珍しい地名は、桜生(さくらばさま)城に由来するのかと思ったら、桜生城の歴史は、 築城年代は定かではなく、永禄年間(1558年〜1570年)の城主は沢弾正清光だったそうで、今も沢氏の子孫が住んでいるそうで、城主がさくらばさま、だったわけではないんですね。

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この後、この辺りに銅鐸のモニュメントがあるはずなのに、過去2回とも見逃しているので、今回はようく探して、初めて見つけました。


14:20 桜生(さくらばさま)自治会館の屋根の上(ベランダ?)に探していた銅鐸モニュメントがありました。
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14:26 中央池地蔵尊
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14:32 稲荷神社
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14:35 石仏群
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14:39 苗村邸跡
小篠原村庄屋苗村邸跡
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14:39 養専寺
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茅葺き屋根の曙酒造】

14:41 曙酒造株式会社
茅葺屋根の造り酒屋
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14:43 大きい道を渡り、斜め前の道へ。
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中山道外和木の標】

14:48 中山道外和木の標
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案内板
中山道・外和木の標

中山道は、東海道に対し東山道、あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています。 ところが、新しい道路に役目を取って代られ、中山道が千数百年もの長期にわたって果たしてきた大切な役割を知る人は年々少なくなっています。 この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所であり将来に永くこの意味を伝え、この道がいつまでも町民に広く親しまれ愛されることを目指して修景整備事業を実施しました。 外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものです。
 
平成十年三月 野洲町 」

外和木の標は、野洲小学校前にありました。
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14:53 朝鮮人街道分岐
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14:56 不動明王
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【背くらべ地蔵】

14:56 背くらべ地蔵
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案内板
「 背くらべ地蔵・阿弥陀如来立像

市指定文化財
背くらべ地蔵(右)
阿弥陀如来立像(左)

この大小の石仏二体は鎌倉時代のもので、中山道を行き交う旅人の道中を護ったといわれています。
また、当時は乳児がよく死んだので子を持つ親たちが『我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ』と背くらべさせるようになり、いつしか『背くらべ地蔵』と呼ばれるようになりました。
二○一一年(平成二十三年)七月二十四日
行畑愛宕地蔵祭保存会 」

14:59 唯心寺
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この辺りは、浄土宗のお寺が多い気がします。


【枡形と蓮照寺境内の朝鮮人道道標】

14:59 枡形
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今回、角の店はシャッターが降りていました。2016年の写真は、店は開いていました。
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15:01 蓮照寺 蓮正坊
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境内に朝鮮人街道の道標がありました。
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15:04 顕了寺
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15:07 宇野勝酒造(銘酒「玉の春」蔵元)
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2016年に撮った宇野勝酒造
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15:11 石仏石塔群
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【常夜燈を照らし続けた十輪院

15:11 十輪院 常夜燈を照らし続けた寺
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境内に芭蕉句碑
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案内板
芭蕉翁句碑

 『野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす  芭蕉翁』

  野洲晒は、麻布を白くさらす『布晒』を専門に行っていた。
その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。
冬に冷たい川に入って布をつくのは、晒の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がしのばれる。 」

2016年に訪れた時は、本堂の手前右下に案内板があったのですが、
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今回はその案内板はなくなっていました。

kenkou-ikka.comから案内板の画像をお借りしました。
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案内板
「 百足山十輪院

中山道沿いの野洲川のほとりに、明暦三年(一六五七)徳允居士が開いたお堂。 徳允は立入氏の先祖で、お堂は立入家が代々守り伝えてきた。 元禄五年(一六九二)には看守覚源がおり、黄檗宗直指庵の末寺であった。 本尊地蔵菩薩立像は、新川神社と縁のある尊像と伝え、鎌倉時代に遡ると考えられる。 鎌倉時代聖観音立像(野洲市指定文化財)も祀られ、湖東三十三所の第五番札所で、『ひとすじに みなを唱えば誰もみな 渡る瀬やすき やすの川波』の御詠歌が知られる。 かつて、夜に川を渡る旅人が迷わぬように毎晩灯籠に灯をともしていたといい、八石八斗が徐地となっていた。 現在お堂の横にある天明五年(一七八五)の灯籠は、以前は野洲川の畔にあり、対岸にあった燈籠は新川神社鳥居横に移されている。 また、旅人のための茶所(接待所)があった。 しかし、大正十四年(一九二五)、道路移設に伴い境内の真ん中を道路が通るようになったことが、残念に思われる。 境内には、野洲晒を詠んだ芭蕉句碑『野洲川や身は安からぬ さらしうす』があり、毎年、八月二十四日の地蔵盆には多くの人々にお詣りいただいている。 」


15:12 ファミマでトイレをお借りし、ドリンク剤とボールペンを買いました。

15:28 野洲川
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二度目の中山道28日目の7(守山宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/11/125802


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003