案内板
「 一里塚(いちりづか)跡
一里塚は、江戸幕府が、国内の需用な街道の整備の一端として、距離の目安となるように 一里(約四キロメートル)毎に設けたものである。
宝暦六年(一七五七年)出帆の岐蘇安見絵図(きそやすみえず)によれば、中山道を横切る光善寺川(砂川なるみ橋とあり)の西にあり、 右 榎(えのき)一(北側)、 左 松(まつ)四(南側) と、記されている。
ここを三軒松(さんげんまつ)と称し、戦前まで大きな松が一本残っていた。
なお、この附近の小字名も一里塚という。