紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の7(守山宿)

二度目の中山道28日目の7
2020年3月20日(金)の7


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【高札場跡、稲妻形道路】

15:35 守山市に入りました。
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15:37 馬路石邊神社
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15:44 中山道高札場跡、稲妻形道路

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案内板
中山道高札場跡、稲妻形道路

帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約一○○mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。 遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。 中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。 また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように『稲妻型道路』となっていた。 街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。 宿場の治安維持を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところは大変珍しい。 現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することができる。  

平成十三年 
守山市教育委員会


【加宿吉身】

15:45 中山道守山加宿吉身
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吉身についての案内板、今回は見つけられなかったのですが、2016年に、案内板の写真を撮っていました。
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案内板
「 吉身(吉水郷)

この辺り一帯を『吉身』という。 古くは『吉水郷』と称し、ゆたかな森林ときれいな『水』に恵まれた天下の景勝地であった。 元暦元年(一一八四)九月に発表された『近江国注進風土記』には、当時の近江国景勝地八十個所の一つとしてこの地が紹介されている。 南側は『都賀山』の森と醴泉(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な『益須寺』があった。 そしてこの街道は『中山道』である。 古えの『東山道』にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。 鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、『吉身』はその西の『今宿』とともに守山本宿の『加宿』として宿場の役割を分担した。 ここは吉身加宿の『高札』が立っていた所である。本宿と加宿の境には川が流されてその標とした。 流れるこの川を「伊勢戸川(伊勢殿川)」という。野洲川の伏流と湧水を戴く「宮城川」の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。 里中にしては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類のさかなたちを育み、同時に『ゲンジボタル』の発生の川としても親しまれてきた。 昭和三十年代後半以降約四十年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り戻しはじめた。 その証としてゲンジボタルがその佳麗な姿を見せてきたことを啓示とし、地元自治会が『川をいつもきれいに』する動きを始めた。 時あたかも守山市が市制三十周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、『ホタルが住みよい吉身』のまちづ<りを目ざしている。  
平成十三年(二○○一)早春 
吉身中町自治会 
『水とホタル推進委員会』 」


【帆柱観世音】

15:46 帆柱観世音 慈眼寺 薬師如来
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「本はし羅可んせおん」(帆柱観世音)

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案内板
「 帆柱観世音

このお寺は、天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺です。古来地元吉身や近在の人びとから『帆柱観音さん』と親しまれ、広く信仰されてきました。 ご本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)です。 縁起によれば、傳教大師最澄桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇して危急の祈り、海上に観世音菩薩が現れて風波が鎮まり無事に帰国された。 帰国後大師は海難で折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天多聞天像を彫り、弘仁元年(八一○)中山道に沿う吉身の地に水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源とされています。 元亀二年(一五七一)織田信長の兵火の際、村人達がご本尊を地中に埋めてお守りし、その後現在の地にお堂を建てて、以来ずっと護持してきました。 また境内薬師堂に安置されていた源信僧都作と伝える薬師如来坐像と脇侍の日光・月光両菩薩立像は本堂改修に伴って修復され、文禄三年(一五九四)の銘を残す鬼瓦とともに守山市の指定文化財になっています。 特に修復後新本堂に安置された薬師如来坐像は、昔この寺が馬路石邊神社の神宮寺で、海や水の守り神住吉神との関わりが深いとされる本地仏(神本来の姿で祀られた仏)の可能性の高い仏像として平成二十一年(二○○九)志賀県の「近江水の宝」にも認定された傑作です。 この度、江戸期以来風雨に晒され崩壊寸前であった本堂を、地元吉身の住民が中心となって浄財を募り、新しく再建して落慶を迎えました。  

平成二十一年(二○○九)十一月一日 管理者 慈眼寺 慈眼寺本堂改築委員会 」


【石部道道標】

15:57 石部道道
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「高野郷新善光寺道」
「すぐいしべ道」(すぐ、は、真っ直ぐ)
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案内板
「 道標

この道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道に向かう人々に対して案内したものである。
文字は一面に『すぐ、いしべみち』、
片面に『高野郷新善光寺道』と刻まれている。
この場所に建てられた年代は残念ながら明らかではない。
善光寺栗東市高野にあり、
彼岸には門前に市がたつ賑わいをみせる寺院であり、守山方面からも大勢の人々が参拝したと思われる。
栗東郡史には東海道の林(栗東市)から守山宿まで二十町五十九間四尺の距離があると記され、高野、辻、旧物部村の浮気をとおる道筋の記録がある。
この道は守山道と呼ばれ、逆に中山道から東海道へ入る道としてかなりの人々が利用したと思われる。
もともとこの場所に建てられていたが
中程から折れたため、しばらく市役所に保管されていたが
平成四年三月、中山道守山歴史文化保存会により復元されたものである。

平成二十二年四月
中山道守山歴史文化保存会
守山市教育委員会


【うの家】

15:58 うの家(中山道町家)
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うの家ホームページより

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宇野本家歴史

この建物は、元内閣総理大臣 宇野宗佑氏が生まれ育った家でした。

 宇野家は、江戸時代「年寄」と言う役職を務め、「長左衛門」と名乗っていました。又宿場に馬や人足(労働力)を提供する事を家業としていました。その後荒物屋を営み、荒物屋長左衛門と名乗られた。屋号の「荒長」はここからきています。

 明治初期に酒造りに展換され「栄爵」を醸していました。平成21年頃まで酒造りをされていたが、その後廃業されました。この建物は明治初期頃に建てられたものと推測され、築140年程たっています。

 平成22年、守山市が宇野家をゆずり受け、改修工事を経て、平成24年1月29日中山道守山宿の拠点として又情報発信、憩いの場としてオープンしました。

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15:59 天満宮
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案内板
中山道守山宿

守山は古来、東山道の宿駅として栄えました。 江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。 寛永十九年(一六四二)守山宿は、徳川幕府より、中山道の正式宿場としての制札が下され認可されました。 中山道は板橋(東京都)から守山までの六十七次で守山は最終宿場でした。 江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約32キロ)から十里(約40キロ)でした。 京都三条大橋から守山までが八里六町(約34.4キロ)でこの行程にあたる。 京都から中山道を通って江戸方面に行く(東下り)人たちは守山で泊まりました。 この事から『京だち守山泊り』と呼ばれ守山は明治維新まで繁栄しました。  

平成二十五年五月 
中山道守山宿歴史文化保存会 
守山市観光物産協会 」

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案内板
「 稲妻型屋敷割りの道

中山道守山宿は街道筋の距離が、文化十四年の記録では一○五三間、内民家のある町並が五六九間という長い街村であった。 宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。 この高札場から東に約四十mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。 街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。 段違いの長さは一定ではないが、およそ二~三尺で、間ロの幅には規定されていないことがわかる。 この屋敷の並び方がいつごろから行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。  

守山市教育委員会


【守山宿本陣跡】

16:00 守山宿本陣跡
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案内板
「 本陣跡

この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たしました。 文久元年(一八六一年)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁される皇女和宮親子内親王が御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊されています。 この場所は、昭和四十年まで特定郵便局兼局長宅でしたが、平成十六年(二○○四年)に取り壊されました。

謡曲『望月』

『望月』は、室町時代末期(一五○○年代後半)に、古来宿駅として、貨客の往来が盛んであった木曾街道(中山道)の守山を舞台に仇討ちを題材にした創作物語です。 『望月』は、信濃の佳人・安田荘司友春の妻子が、元家臣である甲屋の主人・小沢刑部友房とともに、仇敵の望月秋長を討つというあらすじで、登場する人物はすべて架空とされています。 また、その舞台になった宿「甲屋」も、「近江奥地史略」享保十九年(一七三四年)や皇女和宮降嫁の文久元年(一八六一年)の事前「宿屋」調べにも記載がないことから、架空の宿と考えられます。

  平成二十二年四月 
中山道守山宿歴史文化保存会 
守山市教育委員会

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案内板
「 井戸跡

この井戸は、天保四年(一八三三年)の宿場絵図に記載され、それ以前から存在したもので、他にもあったとされるが、現存しているのはこれ一基だけです。
守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防という微高地のため、用水路がなく、宿場の防火や生活用水に使用されたと思われます。 平成二年の市教育委員会との合同調査では、井戸は漆喰の枠が、六段積み重ねられ、さらに数段が土砂の流入で埋まっていることがわかりました。 上部の石組は、一辺九十cmで四角形に組んでいて、盤石は、後世にのせたようです。 この石組は、もともと西に二十m程行った所のコの字型になっている所にありましたが、平成十八年から平成二十一年の側溝工事に伴い、中山道守山宿歴史文化保存会・中山道ろくはち会・中央商店街がこの地に移転保存したものです。 守山宿の往時の生活を知る貴重な遺産です。  

平成二十二年四月 
中山道守山宿歴史文化保存会 」

16:01 中山道文化交流館
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16:01 お地蔵さま
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錦織寺道道標・高札場跡】

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16:03 石造道標
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「右 中山道 并 美濃路
「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」

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案内板
「 石造道標
守山市指定文化財(民俗資料)

本道標が建てられているこの地点は、かつて掟書などが掲げられた高札場の一角であった。 道標は、高さ約一.五五m、一辺三○cm角の四角柱の花崗岩製の石造品で、中山道側の側面には、『右 中山道 并 美濃路』、 その左側面には、『左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち』の文字が刻まれている。 『右 中山道 并 美濃路』とは、右が美濃(岐阜)へと続く中山道で、『左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち』は、 左の道を行くと人々の信仰を集めた真宗木部派本山である錦織寺(中主町)に至る約四kmの道程(錦織寺道)であり、 それに続く『こ乃者満ミち』は、琵琶湖の津として賑わっていた木浜港へも通じる道筋であることを示している。 背面に延享元年(一七四四年)霜月の銘があり、大津市西念寺講中によって建立されたことかうかがわれる。 石造道標としては古く、また数少ないため、昭和五十二年(一九七七年)四月三十日に民俗資料として守山市文化財に指定された。  

平成十四年十月 
守山市教育委員会

石造道標の辺りに高札場があったそうです。



【東門院】

16:05 東門院
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JAPAN GEOGRAPHICより

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東門院( とうもんいん ) (守山観音) 

天台宗

JR守山駅の北西約800m、旧中山道に面して建つ。

平安時代の初期、今から千二百年前、最澄延暦13年(794)に開いたとされる古い寺。

桓武天皇の勅願により、最澄鎮護国家の道場とした叡山三千坊の「東門」にあたるためこの名称が付けられたと伝えるが、坂上田村麿呂の伝承のように「皇城」の「東門守護」から付けられたとも伝えられる。

しかし、座主良源(912~985)以降、広大な荘園を有し、東側の志那街道(比叡山街道ともいう)の山門屯所の仏像を安置したことからこの名称になったとするのが妥当とされている。

本寺は中近世度々の戦火に遭いながらも信仰を集め、門前町を形成、守山宿と共に市街地発展の核的役割を果たしてきた。

江戸時代には朝鮮人街道を通る朝鮮特使の宿舎になっていた。

昭和61年(1986)本堂焼失により、寺宝類を多数焼損したが、平成3年(1991)本堂が再建され、修復された仏像等が安置された。

不動明王坐像・石造五重塔が国重要文化財、石造宝塔、石造宝篋印塔が国重要美術品建造物である。

その他、市指定文化財が多くある。

境内南隅に座す三基の石塔が当寺の歴史を語る。

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16:06 中山道案内板
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案内板
中山道守山宿

守山は古来、東山道の宿駅として栄えました。 江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。 寛永十九年(一六四二)守山宿は、徳川幕府より、中山道の正式宿場としての制札が下され認可されました。 中山道は板橋(東京都)から守山までの六十七次で守山は最終宿場でした。 江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約32キロ)から十里(約40キロ)でした。 京都三条大橋から守山までが八里六町(約34.4キロ)でこの行程にあたる。 京都から中山道を通って江戸方面に行く(東下り)人たちは守山で泊まりました。 この事から『京だち守山泊り』と呼ばれ守山は明治維新まで繁栄しました。  

平成二十五年五月 
中山道守山宿歴史文化保存会 
守山市観光物産協会 」

16:06 明治天皇聖蹟
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【門前茶屋 かたたや】

16:07 かたたや
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案内板
中山道守山宿
門前茶屋
かたたや

江戸時代後期の天保年間(一八三○~一八四三)の頃、中山道守山宿の東門院の門前に『堅田屋』という一軒の茶屋がありました。
当時の茶屋は、旅人の休憩の場であり、お茶や食事、お酒などを出していたそうです。
また、『堅田屋』は、一部旅籠の機能もあり、『京発ち守山泊まり』と言われた守山宿にあって、多くの旅人が旅の疲れを癒していたのがうかがい知れます。
そして一七○年余りが経った平成の時代に、その『堅田屋』と同じ場所、同じ建物で『門前茶屋かたたや』が誕生しました。
当時の梁や柱、土壁、格子、虫籠窓、階段箪笥などを残しながら、最新の技術で耐震性、機能性を高めました。 どこか懐かしく、どこか新鮮。そんな空間で人々を癒す場所として、また新たな『かたたや』の物語が始まります。  

平成二一年五月吉日 」

16:08 土橋
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守山市観光物産協会ホームページより

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土橋

中山道の守山本宿と加宿(今宿)との境の吉川に架かっています。旧・栗太郡と旧・野洲郡の境界でもあり、川が木材運搬の運河だった江戸時代の古文書によると当時は長さ20間(36m)幅2間(3.6m)もあり、修理費用などは公儀=幕府の負担で行われたそうです。

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二度目の中山道28日目の8(加宿今宿から草津宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/11/133640


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003