紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き28日目の9(草津宿1)

二度目の中山道28日目の9
2020年3月20日(金)の9


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【低いトンネルを潜る】

17:01 草津市に入りました。
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17:04 中山道道案内
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17:04 草津線高架
高架を潜り、反対側に進みます。
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17:05 低いトンネルを潜りました。
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17:05 右折して線路脇のフェンンス沿いを歩きました。
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17:07 大きい道に合流
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17:09 正面に分離帯
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【灯心草舎】

17:12 灯心草舎 中村畳店
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ギャラリー灯心草舎は、並びの中村畳店が開いたギャラリーです。

Gift Netより

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中村畳店

いつも畳を感じていたい

滋賀県草津市にある、90年余り続く老舗の畳店です。
二代目の店主当主中村明雄は屋号を「灯心草舎」と名付け、本物の畳がもつ温もりと、そこから生まれる日本文化 を大切に伝えていきたいと考えています。灯心草とは畳の原材料である「イグサ」の別名 で、イグサの芯を取り出し、昔の行灯やろう そくの灯心に使われたことに由来します。こ の灯心草のように日本文化の灯りを灯し続け る企業です。
先日、伝統建築工匠の技;木造建造物を受け継ぐための伝統技術として、畳製作がユネスコ無形文化遺産に登録されました。フランス では日本様式を取り入れることを「タタミ ゼ」と言うそうです。今後も畳の魅力を発信 し続けます。

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【渋川界隈】

17:14 しぶはなちゃんの飛び出しぼうや
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しぶはなちゃんは、草津市渋川学区マスコットキャラクターです。

17:16 草津歴史街道 案内板
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案内板
草津歴史街道 中山道

中山道木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。 なお、中山道分間延絵図によれぱ、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。  

草津市教育委員会


【伊砂砂神社】

17:16 伊砂砂神社
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案内板
重要文化財 伊砂砂神社本殿

草津市渋川一丁目

一間社流造、檜皮葺   室町時代

伊砂砂神社の草創は明らかでないが、名称は明治二年からのもので、古くは天大将軍社と称された。 建物は棟札により応仁二年(一四六八)に建立され、元禄四年(一六九一)に修理を受けていることがわかる。 軸部は当初材を良く残こしているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの造作材は、大正時代の修理によるものである。 小規模な一間社であるが、母屋は内部を内外陣のニ室に区画し、正面に向拝を付ける。 組物は三斗組、妻飾りは豕扠首組として、母屋には三方に縁、高欄を巡らし、脇障子か取り付く。 この本殿は建立年代が明確で、木割が細く、正面の建具を吹寄せ格子戸とするなど軽快な建物で、室町時代後期の本殿建築を知るうえで貴重である。  

平成六年三月 
滋賀県教育委員会

17:18 佛乗寺
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17:19 光明寺
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17:20 茶碗八延命地蔵大菩薩 (地蔵堂)
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17:28 草津歴史街道 中山道 案内板
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17:16にあった 草津歴史街道中山道 と同文の案内板です。

17:28 草津の商店街のアーケード
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17:32 地蔵尊
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【旧草津川渡し】

17:33 旧草津川渡しに向かい、坂を上ります。
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川越ルートがわからず、遠回りしてしまいました。

草津川跡は公園とサイクリングロードになっています。
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2011年7月に書かれた「洋洋日記」に載っていた、旧草津川跡地の写真。
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2015年2月に書かれた「徒然歳時記」に載っていた廃川の旧草津
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広重の草津宿(草津川の渡し)
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ちゃんとしたルートがわからなかったので、見つけられなかった案内板を、ネットで見つけてきました。案内板の写真は、「4travel.jp」からお借りしました。
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案内板
草津川の渡し場 Kusatsu River Crossing Points

草津川 は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった『天井川 』です。

草津川 の成り立ち Origins of the Old Kusatsu River

この草津川跡地公園 は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川 となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫(しゅんせつ)などが行われるようになりました。
江戸時代 中ごろより、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重 の浮世絵 からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、
中山道口 から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩 に願い出ています。
草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川 でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水が流れる川でした。

草津川の渡し場 Kusatsu River Crossing Points
草津宿は、江戸時代に東海道中山道の合流する交通の要衝として栄えました。これら二つの街道は、江戸方面から草津宿への出入り口が、それぞれ草津川の渡し場になっていました。
中山道 の渡し場は、追分道標 (東海道中山道の分岐点道標 )の近くで、草津宿 の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道宮町渋川線(商店街通り)のマンボ (トンネル)の上あたりにありました。また、東海道の渡し場は、草津宿東離の横町道標の近くで、草津宿の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道大路16号線あたりにありました。
草津川は、川底が周辺民家の屋根よりも高い天井川であり、普段は、水の無い砂川でした。そのため、「徒歩渡り 」といって水の無い川底を歩いて渡り、少し水が残っているところは、簡易な板が進されていたようです。
天保3年(1982)の『橋銭川越賃定書』によれば、水が無くても、1人3文の川越賃 が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、水高に応じて、1尺(約30cm)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を徴収され、時には、川留め になることもありました。
天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多くの浮世絵や名所図会に描かれており、時の様子がうかがえます。

歌川広重東海道五拾三次 之草津
(草津市蔵、中神コレクション)

歌川広重画 木曽海道六拾九 次之内
草津追分 (草津市蔵)

草津市
Kusatsu City 」
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【出会いの宿場】

17:48 草津追分道標
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中山道東海道が出会う場所です。ここに立つのは5回目です。

案内板
「 道標
市指定文化財
道標『右東海道いせみち』
『左中仙道美のじ」』一基

ここはかっての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。 トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。 しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化十三年(一八一六)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(四.四五メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上、はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。

昭和四十八年十月十五日指定  
草津市教育委員会 
昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

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案内板
草津市指定文化財(有形民俗文化財)
石造道標『右東海道いせみち 左中仙道美のぢ』一基
江戸時代
昭和四十八年十月十五日指定

この道標は、東海道中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化十三年(一八一六)三月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは三九二.二センチを測り、江戸時代に東海道中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
道標竿部南面に『右 東海道いせみち』、西面に『左 中仙道美のぢ』と東海道中山道の行先が刻まれています。
また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。
なお、草津四丁目の立木神社境内には延宝八年(一六八○)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。  
平成二十年三月三十一日
草津市教育委員会

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高札場跡
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「時の旅人」モニュメント
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この絵は、2016年9月に描きました。
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2016年のブログより

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2016年9月6日に中山道を歩いて草津宿に行った時に描いた「時の旅人」のモニュメントです。

中山道東海道が出会う草津追分けの道を挟んだ隣に公民館があり、その前に「時の旅人」があります。

ネットで拾った解説です。

「丁度ここは東海道中山道が交わり、多くの旅人でにぎわっていた事がテーマとなって、鈴木典明さんと云う方が平成10年に制作したそうで作品名「時の旅人」で土台部分に明記されていた。
過去から現在に旅を続け、人が行き交う時間性を表現しているのだそうです。
素材はステンレスの棒を集積・交錯させて、時間と人の軌跡を表現しているとのこと。」

過去のしがらみに悩みながらも、それを振り払って未来へと進もうとする強さと、そんな人間が捨てていく過去の悲しさも感じました。

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本日の歩数 22,952歩 14km


この日は草津のホテルに泊まり、翌日、草津宿から大津宿を歩きました。


二度目の中山道29日目(草津宿から大津宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/13/175853


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003