紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

塩名田宿 問屋・本陣跡 花街塩名田

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案内文
「 問屋・本陣跡
(丸山新左衛門家、本棟造、切り妻で入り口が妻側にある)

 塩名田宿 は、江戸から四三里一三丁、二三番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難場のひとつ、千曲川を前に一宿が必要として北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に四〇軒ほど移して形成した(慶長七年=1602)。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政一二年(1800)の宿内総家数は一二六軒。
 問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦六年(1756)に再建されたが現在は御殿部分が改装した住宅になった。丸山家には宿場関係史料が多数保存されている。 」


花街塩名田 案内板
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案内板
「 花街塩名田

 塩名田が活気を帯びてくるのは明治三〇年代(1897-1906)になってからであろう。八幡から料理業二人が移転して営業、新角屋は上等の芸妓屋で三二年に塩名田一流の料亭として開業して四四年に新築して名声が挙がった。塩名田が花街として形成された要因は、地理的に北佐久郡の中央、千曲川の川畔にあり、当時の交通事情も良好で、他地域より営業に参加し易かったのであろう。また商家もここへ営業を求めてつめかけていた。志賀銀行支店・肥料会社。製糸工場もできた。劇場『塩名田座』も出現した。住民は養蚕に精を出し始めた。昭和三年(1928)時点で川原宿 に五軒、中宿に三軒があった。しかし、昭和一〇年代になると、いままでの平穏な世相は一変してしまって、三味線の音も消えていった。」