紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き8日目の6(八幡宿)

2度目の中山道8日目の6
4月5日(日)の6


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【八幡宿入り口】

緩い下り坂。この先が八幡(やわた)宿。
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15:14 道標 重要文化財高良社300m→
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15:15 「八幡山常泉寺」標柱
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ここが八幡宿の入口だそうです。常泉寺は木々の奥の方にあるそうです。


nagareki.comより

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八幡宿(佐久市)概要: 八幡宿は慶長年間(1596~1615年)から元和年間八幡宿(佐久市)(1615~1624年)に整備された宿場町(周辺集落であった八幡・蓬田・桑山の3村が中山道沿いに集められ八幡宿を形成しました。)で中山道69次中24番目に位置しています。天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は本陣1軒(小松家)、脇本陣4軒(依田家・大坂屋など)、問屋2軒、旅籠3軒(天保14年)、と比較的小規模で隣の塩名田宿とは3キロ弱しか離れていない為、旅籠が少ない宿場町でしたが千曲川の西岸にあたり、川止めや背後に難所の1つである瓜生坂を控えていたこともあり脇本陣が4軒と多いのが特徴と言えます。幕末には皇女和宮の宿泊地としても知られ本陣食を担った小松家には下賜された品物などが伝えられています。現在でも交通量が多く建物の建て替えが進む中、本陣や脇本陣の門や問屋、宿場の地名にもなった延徳3年(1491)創建の八幡神社(旧本殿の高良社は国指定重要文化財、当社が地名の由来となっています。)が鎮座し歴史を感じさせてくれます。特に「八幡宿本陣跡」は貴重な事から平成9年(1997)に佐久市指定史跡(交通・通信施設)に指定されています。

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佐久商工会議所 Monthly Newsさく より

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佐久平中山道

滋野氏ゆかりの荘厳な八幡(はちまん)神社にちなむ八幡(やわた)宿

信州短期大学 副学長・教授(余暇学)
中藤 保則

第23 次塩名田宿と第24 次八幡宿との距離2.91 キロは、中山道で最短、次の望月宿までの3.45 キロも4 番目に短い。その理由は、塩名田宿・八幡宿間が悪路であったため、近隣の集落から人を移住させて造られた新宿であったからである。新宿といっても慶長7 年(1602)というから、江戸幕府が一里塚を造成する2 年前であり、中山道が整備されると共に形を整えていったのだろう。同時に新田の開発も行われ、寛永8 年(1631)から、市川五郎兵衛が私財を投じて拓いた五郎兵衛新田は、そのうちもっとも大規模で名高いものとなった。

 八幡宿の宿場としての規模は、本陣1、脇本陣4,旅籠屋3 と小さいが、脇本陣が4 つもあるのは、休憩や宿泊地として旅人に人気があったことを想像させる。皇女和宮の一行も宿泊に幡宿を選んだ。
 名称の由来は入り口にある八幡神社からきているが、「はちまん」ではなく「やわた」と発音される。八幡神社は高良社、あるいは高麗社とも呼ばれる。古代に高句麗から来た牧馬の技術をもった渡来人が、望月の官牧を指導し、その守護神として創建したものである。その後、牧官から武人として成長した滋野氏は、この神社を八幡社として尊崇した。国の重要文化財に指定されている本殿は、延徳3 年(1491)滋野氏によって八幡社として建立されたものである。奈良時代までは「やはた」とよばれていたという。八幡宿の八幡神社は古い呼び名が残ったものであろうか。

 いずれにせよ八幡神社は、その後も武神として武士や庶民から篤い信仰を集め、何度も修理や寄贈が行われてきた荘厳な神社である。

 滋野氏はいうまでもなく、清和天皇の血を伝えるといわれ、平安時代から佐久、小県の両郡に根を張った名門の豪族であったが、やがて海野、禰津、望月の三家にわかれた。知謀の猛将として名高く“真田三代”として知 られる幸隆・昌幸・幸村の真田家は、滋野の本家を継ぐ海野氏からわかれた一族である。

 宿場もさることながら、八幡宿を抜けて次の望月宿に至る道にも、なかなか見ものが多い。百沢の双体道祖神は、衣冠束帯と十二単の王朝風祝言像が精巧な浮き彫りになっており、保存状態もよく男女の表情まで見ることができる。この辺りから望月にかけては、双体道祖神が数多く遺されており、腕が良いことで知られた伊那の高遠石工の手になる秀作が見られるという。

 元禄10 年(1697)に建立された「中仙道道標」も見逃せないところである。「中仙道」となっているのは、「中山道」に表記が統一された正徳6 年(1716)以前に立てられたからである。

 中山道は瓜生坂を越えて佐久平を通る中山道最後の宿、望月宿に入るが、この瓜生坂は古代の東山道にあたり、遺跡も発見されている。

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八幡神社

15:20 八幡神社
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案内板
八幡神社 随神門

構造 三間一戸楼門 組物三手先腰三手先
中備(なかぞなえ)蟇股(かえるまた)間斗束(けんとづか)軒繁垂木(のきしげたるき)
屋根入母屋造(いりもやづくり)
妻虹梁大瓶束(つまこうりょうたいへいづか) 本瓦葺(ほんぎわらぶき)
楼門とは楼造り(ろうづくり)の門のことで二階建の門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠(ぎぼしゅ)をつけた高欄(こうらん)の縁側を巡らしている。頭貫木鼻(かしらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻等 江戸時代末の特色を示す門の両脇の間(ま)には衣冠束帯(いかんそくたい)に剣と弓矢を持った武官神像(ぶかんしんぞう)の随神をおく。

建立 天保十四年(一八四三)六月、今から百五十年前 小諸藩主牧野遠江守康哉が大願主(だいがんしゅ)となり数百本の材木を、また欅材(けやきざい)は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸っている(かかっている)額は明治時代奉納されたもので戈(ほこ)を止(と)めて武を為す(ぶをなす)と横書きをされている。 」

随神門
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随神像
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八幡神社については、佐久市のホームページなどの公で出しているガイドが浅すぎるため、2つのブログを引用させていただきます。どちらもなかなか詳しいのですが、それぞれ、詳しすぎる部分と、言い得ていない部分とがあるため、2つを引用させていただきます。


「オコジョの散歩道」 (浅間山山麓千曲川の町、信州小諸を中心に東信濃の四季の自然のうつろいや、小さな歴史を中心に綴っています。)というブログより

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高良 (こうら)社・・・
祭神は、高良玉垂命(こうらたまたりのみこと)・・・

八幡神社の瑞垣門をくぐって、境内に入ると正面に旧本殿だった高良社があります。
八幡神社は武神として知られる八幡大菩薩を祀った神社ですから、八幡神が祀られていました。

現本殿を作るときに、旧本殿を破棄せずに高良社として、映して残したものとおもわれます。

今の本殿と較べると小さな建物ですが、本殿建立の時に残された棟札によると、高良社は室町時代の延徳3年(1491年)建立です。棟札の裏には、原文は漢字ですが、「そもそもかの八幡宮の御事、その始め数百歳を送るといえども、更に建立の始めを知らず。ここに滋野遠江守光重、望月御牧中悉く本意を致し知行をなす。その懇祈によって、かの宮をその砌みぎりに造立し奉るなり」とあるそうです。

三間社流造りで、屋根はこけら葺というシンプルなものですが、歴史的価値が高いと昭和17年(1942)に国宝に指定され、昭和25年(1950)には国の重要文化財となっています。

高良社・高良神社と呼ばれる社は全国各地にあります。

その由来には諸説ありますが、大きく分けると、二つの説があります。
一つは、本来は高麗(こうらい、こま)神社で、高麗人の神が、歴史の中で武内宿弥を祭神にした高良社になったというものです。
もう一つは、川原の地主神を祀る、川原神社が起源で、川原社が転じて高良社になり、全国に普及した八幡神社と結びついたといいます。

高良社は八幡神社の現本殿と較べると、素朴なそのものです。
時代の差なのでしょうが、このシンプルさの中の美の味わいは格別です。


現在の八幡神社の拝殿・・・

天明3年(1783年)の浅間の大噴火の年に建てられました。 
杮葺きの屋根や彫刻も含めて、落ちつきのある立派な拝殿です。

江戸末期の随神門と較べると次時代が早いためか彫刻は少なめですが、江戸時代の建物で、素敵な彫刻に飾られています。

八幡社由緒によりますと
貞観元年(859)、御牧の管理をしていた滋野貞秀による創建といわれ、吾妻鏡に 「 佐久八幡宮御前二十騎 」という記述があるのを見ても、武将の崇敬の厚かったことが分かる。 
延徳三年(1491)の滋賀光重の棟札に、 「 建立始望月御牧中悉致本意云々 」とあり、御牧七郷の総社であり、住民の総意で建立されたことが窺える。天正五年の修理、元禄十一年の葺替を経て、天明三年(1783)には本殿の建替えが行われた。 御祭神は応神天皇神功皇后玉依姫命である。』

本殿の鳳凰と鶏・・・

色々な動物たちや竹林の七賢人など素敵な彫刻が見られます。

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genbu.netより

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八幡神社

道路に面して、南向きに鳥居が立っている。鳥居の右脇に社号標が立ち、鳥居をくぐると、巨木の聳える参道があり、正面に天保年間造営の楼門。参道の左手には、道祖神の石碑が並んでいる。
(注釈:ここに書かれている楼門が、入口案内板に書かれていた「随神門」です。)

楼門をくぐると、右手に古い建物。昔の社務所だろうか。
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参道を進むと神門があり、神門の奥が社殿のある境内。
(注釈:ここに書かれている神門が、瑞垣門です。)

参道の正面には、当社の旧本殿である高良社がある。この社殿は、室町時代・延徳三年の造営で、国の重要文化財に指定されている。

高良社の右手、東向きに当社の社殿。入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿がある。

本殿の後方には、多くの石祠や石碑が並んでいる。御牧七郷の総社らしく、多くの神々が祀られているのだろう。

社殿の北側は緑の芝生。東側は林になっており、清々しく広い境内。早朝、心静かに参拝するには最適な環境だと思う。

社伝によると、貞観元年、滋野貞秀公によって勧請された古社。当地を支配した望月氏は、望月の鬼門除けとして崇敬したという。

吾妻鏡』に「佐久八幡宮御前二十騎」と記されており武神として、また、御牧七郷の総社として、領民、領主、藩主から篤く崇敬され、度々の寄進や修理営繕を受けた神社。

旧本殿を利用した高良社について。武内宿禰(高良玉垂)を祀る社なので、八幡宮摂社に相応しい社なのだが、あるいは高良(コウラ)は、高麗(コウライ)からの変化でもとは高麗(コマ)、つまり駒(コマ)だったのかもしれない。であれば、信濃御牧(貢馬のための牧場地)に祀られる社としても相応しい。

高良社には三扉あり、それぞれに金の紋が付けられていた。

高良社に向かって、参道の左手、拝殿の向かいに小池があり池の中に厳島社が祀られている。

高良社の背後、境内の北側が芝生になっており、諏訪明神が祀られている。
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重要文化財八幡神社旧御本殿の高良社
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案内板
「 八幡社由緒
御祭神 應神天皇 神功皇后 玉依姫命

由緒
創建年月未祥なれど、伝承に貞観元年滋野貞秀公よる(ママ) といわれ望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという
吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の 崇敬の厚かった事が偲ばれます。
延徳三年滋野遠江守光重公建立の棟札に「仰彼八幡宮之其 始雖送数百歳更不知建立始爰」とあり、又「建立始望月 御牧中悉到本意云々」とあり当時御牧七郷の総社 として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。 その後、天正五年竹田信玄の臣武田佐馬助豊公、滋野 印月公、馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理、 寛文四年酒井日向守公葺替、元禄十一年石川美作守公 葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬厚く、元禄十六年、 享保九年、寛保元年、天明三年には康満公によって寺尾山、 諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面から も寄進と相まって本殿の再建立が行われ、旧本殿は、 高良社として祀られ後文化十四年、天保十四年、嘉永 七年、明治三十一年、昭和九年と営繕が行われ今日に 至っています。御神徳は古くより地方の守護神として 殖産興業、武神縁結び、その他深く厚く各方面の 人々に重く崇敬されています


重要文化財八幡社旧本殿高良社

一、 御祭神 武内宿祢公(神名高良玉垂命
一、 建立年月日 延徳三年九月三十日(西暦一四九一年
一、 国宝指定 昭和十七年十二月室町時代の遺構を良く示すものとして指定
一、 重要文化財指定 昭和二十五年八月(建第一〇三六号)
一、 解体復元 昭和四十年九月三十日(文化庁
一、 特徴 三間社流造こけら葺、庇門、手狭、木鼻の絵模様、その他共にすぐれた室町時代の特徴が現れている。 」



重要文化財八幡神社旧御本殿「高良社」について
創建年月不祥、伝承では貞観元年滋野貞秀公信濃の領所寺尾に八幡宮を城衆雄徳山より定須行者をもって勧請したと云われ、延徳三年(西暦一四九一年)(野遠江守光重公が中心)の棟札に、「抑彼八幡宮之御事其始雖送数百歳更不知建立始」とあり、数百歳前は、平安初期になるので、伝承の裏付けとなる。尚棟札に「建立始、望月、御牧中悉致本意云云」とあり、御牧七郷の綜社として勅旨牧周辺の住民によって建立されるまでに崇敬されていたことがうなずける。

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【八幡宿本陣跡】

15:32 八幡宿本陣跡
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 宿場の中心部に皇女和宮も宿泊したという小松家の本陣門が当時のまま残されており、門前に“中山道 八幡宿本陣跡”と刻まれた石柱が立っています。和宮が下賜された品物などの歴史的資料も残されているそうです。


15:33 南御牧村道路元標
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15:35 八幡バス停
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15:41 八幡入口バス停
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今夜は御代田に泊まるのですが、次の望月宿まで歩くと、バスの本数も少なくてもどれなくなるので、今日の歩きはここまでにして、バスの時刻までまだ時間が沢山あるので、見過ごしたものを探しながら八幡神社前バス停まで戻ることにしました。


15:44 八幡邨標石
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15:46 再び八幡バス停
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待合室は陽当たりがよすぎて暑いです。


15:48 脇本陣
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こちらも脇本陣跡なのか、違うのか。
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15:51 立派な門の家。ここは脇本陣跡なのか違うのか。
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【レトロなバス停】

16:53 八幡神社に戻ってきました。
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八幡神社前バス停は、佇まいもレトロだし、思わず一枚一枚眺めてしまう古い広告がぎっしり貼ってあります。
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バスは16:18発。

佐久平着は16:32。運賃は460円

佐久平駅にて、今、乗ってきたバスです。
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佐久平駅
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佐久平駅で30分強待って、17:08発の小海線に乗りました。

小諸駅17:25着 17:30発しなの鉄道に乗り換え。

17:39 御代田駅佐久平から御代田までの運賃は410円。
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17:46 今夜の宿、明治屋旅館着。
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風呂に入り、洗濯をして、派手さはないけれど、美味しい夕食をいただきました。ビールは大瓶しかないというので、日本酒をいただきました。
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本日の歩数 41,459歩 25.28km


2度目の中山道9日目の1(八幡宿出口から望月宿まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/06/14/224751


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022

二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003