二度目の中山道11日目の1
2020年7月31日(金)
【唐沢の一里塚】
5:30 起床
6:30 朝食 美味しかった!
7:00 出発 ご主人に車で大出バス停まで送ってもらいました。
7:12 大出バス停 歩き始めました。
7:20 昨日来た、国道142号線との合流地点
ゴミ無し僮地蔵
すのはら牧場
11年前に来たときは、牛がいたような気がしますが、廃屋でした。調べたら、設楽製作所として高崎に移転したそうです。
扉峠道追分
扉峠口バス停(茅葺き屋根)
旧道分岐 右へ。
一之橋
灯籠
旧道左へ。
草が雨に濡れていて、靴も濡れました。ここから、今日は草の道が多かった。
分岐
木の橋
唐沢の一里塚跡
案内板
「 歴史の道中山道 唐沢一里塚
この塚は、江戸より五一番目の一里塚です。
一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに道の両脇に五間(約九キロメートル)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目じるしとし、さらに、憩いの場所ともしたものである。
和田、下諏訪宿間に一里塚は六ヵ所あったが、これはその一つである。
この塚は、なかせんどうの一部路線変更により山中にとり残されたもので、天保二年(一八三一)の絵図面ではすでに路線からはずれている。
現在種目は残っていないが、塚は二基ともほぼ原形をとどめている。
文化庁 長野県 和田村 」
国道142号線に出ました。
観音沢バス停
男女倉(おめぐら)口バス停
男女倉口 標高1,100m
分岐 右へ
中山道入り口
クマの出没注意
休み茶屋跡
【三十三体観音】
三十三体観音
案内板
「 歴史の道中山道 三十三体観音
かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和四八年(一九七三)の調査発掘により二九体が確認されここ旧道ぞいに安置された。内訳は、千手観音一三体、如意輪観音四体、馬頭観音一〇体、不明二体で四体は未発見である。
峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものである。
文化庁 長野県 和田村 」
廃車
木の橋
木の橋が壊れ、梯子で作った橋
道路に出ました。
【接待茶屋跡】
接待茶屋跡
案内板
「 歴史の道中山道 接待(和田峠施行所)
江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿 とこの和田宿 に五〇両づつ下付し、文政一一年(1828)に設置された施行所の一つである。
十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。
文化庁 長野県 和田村 」
殉職警官近藤谷一郎君之碑
案内板
「 『殉職警官近藤谷一郎巡査之碑』について
近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において
近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝
命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰と
なった。
上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下
諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した
犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受
けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。
享年二二歳。
犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主
人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかっ
た住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届
け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によっ
て谷川の中で発見された。
治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の
霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民を
あげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警
察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警
察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに
開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から、
和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々
が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。
平成一四年八月
和田村役場 丸子警察署 」
道標
木の橋
近藤谷一郎巡査殉職の地
先ほど碑があった近藤谷一郎巡査が実際に刺された殉職の場所が、この下の谷川だったそうです。
避難小屋
石畳
木の橋三ヶ所
【広原の一里塚跡】
このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原であった。
冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(九メートル)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。
この塚は江戸より五二番目の一里塚にあたる。
文化庁 長野県 和田村 」
炊事場 和田峠青少年旅行村キャンプ場
石畳風の道
道路に出ました。
10:17 東餅屋
案内板
「 歴史の道中山道 東餅屋
標高一五三一メートルの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。
この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寬永年間(一六二四~一六四三)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家はなく)石垣を残すのみである。
文化庁 長野県 和田村 」
本日の2(和田峠)に続く
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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
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