紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

槙ヶ根立場跡

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案内板
「 槙ヶ根立場

ここは中山道槙が根追分である。
東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木側を渡れば大井宿であり(この間約一里)、西別川約二里半(約一〇キロメートル)深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。
ここで中山道と分かれて西に下る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を超せば名古屋や伊勢方面へ行くことができ『下街道』と呼んでいた。
江戸時代ここは中山道の通行者に加えて木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道をはさんで多くの茶屋があり、槙が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。
享和二年(一八〇二)三月この地をといった詳しい太田南畝は、著書『木曽の麻衣』にこのあたりの様子を次ぎのように書いている。
『石ばしる音すさまじき流れにあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの坂というを上る事五六町にして、山のいたヾきより見れば、左右の山ひきく見ゆ、ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり、いせ道と石にゑれり、ここに仮屋して伊勢大神宮に奉納の札をたつ、道のべに一重桜さかりなるは遅桜なるべし、一里塚をへて人家あり、巻かね村という、追分立場というは木曽といせ路の追分なるべし。こゝにもお六櫛をひきてひさぐ、なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり、はじめの道にくらぶればいと近し、松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂という、左の山野上に桜の木ありて西行の塚ありという、円位上人は讃岐の円通寺に終わりをとりぬときくに、こゝにしも塚あることいかがならん、折から谷の鶯の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いてつべし、砂石まじりに流るゝ水にかけし木橋を渡りて中野村あり・・・」

と、

中山道の整備は初め慶長七年(一六〇二)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行としてなされた。
その時の道はこの槙が根追分から西に下り、竹折―釜戸を経て御岳宿へ出た。ところがその翌年こゝから西へ真っ直ぐに行く道が改修され、慶長九年(一六〇四)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の設置は慶長一一年である)
その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、街道の両側に松などの並木を植えて完備した。
その後この地の藩主や村々の農民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能をはたしていた。

平成三年三月
文化庁 恵那市教育委員会