紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き21日目の3(大湫宿)

二度目の中山道21日目の3
2020年9月6日(日)の3


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【大湫(おおくて)宿入り口】

mojinaviより

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湫(くて)とは、とどこおる/土地が低くせまい/みずたまり/くて/低湿地などの意味をもつ漢字。

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大湫の次の細久手も細い湫です。

10:30 大湫宿
西方 細久手宿 一里半
東方 大井宿 三里半
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10:30 中山道十三峠碑
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「これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼の餉す 庭に石桶ぐさの盛りなるにも わがやどの花いかがならんとしのばし 道の右に山之神の社あり例の輿より下りて歩む輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という
 太田南畝 壬戌紀行より」


10:30 中山道大湫宿
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中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり 
新撰美濃誌より 」

10:34 陶都信用農業協同組合釜戸支店
大湫事務所
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10:34 町並み
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【旧森川訓行家住宅】

10:34 国登録有形文化財
旧森川訓行家住宅(大湫宿休憩所)
(旅籠屋兼問屋丸森跡)
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瑞浪市公式ホームページより

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旧森川訓行家住宅は、中山道大湫宿の北部に位置し、一族の中でも各々を区別するために「丸森」と呼ばれ、旅籠屋の他に尾州藩の許可を得て塩の専売も行い、繁盛を極めたとされています。
建物は江戸時代末期の建築と推察され、江戸の町屋形式をそのまま有し、当時の旅籠・商家の雰囲気をよく残しています。昭和20年代まで住居として使用され、一部は現代様に改修されているものの、建物は建具類を含めてよく保存されています。
平成18年には国登録有形文化財に登録されました。平成26年に所有者から寄贈を受けたことから、大湫宿の観光の拠点となる施設へ整備することになりました。

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保々家(庄屋、問屋場、本陣を兼ねていた)の脇門だと思います。
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10:38 問屋場
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案内板
問屋場

問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていた。」

10:38 白山神社
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10:39 大湫宿脇本陣
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案内板
大湫宿脇本陣

本陣、脇本陣は大名や公家など身分の高いものの宿舎として建てられたものです。この大湫宿脇本陣は部屋数19、畳み数153畳、別棟6という広大な建物でした。今は壊されて半分程度の規模になっていますが宿当時を偲ぶ数少ない建物の一つとして貴重です。」


神明神社の御神木】

10:50 神明神社
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大湫の神明神社にはご神木の大杉がありましたが、倒れていました。
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瑞浪市観光協会HPより

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大湫 神明神社 御神木 倒壊

2020年7月11日夜、 何度も落雷に打たれながらも、強く立ち続けていた 神明神社の御神木の大杉が 大雨の影響で倒れてしまいました。倒れた方向にイチョウの木があり、そこにもたれながらゆっくりと倒れていったようです。人的被害もなく民家の一部をかすめましたが、被害の少ない絶妙な角度で倒れたように見えます。

(中略)

大杉(県指定天然記念物)は樹齢1300年・目通り6.5m高さ60mで太田南畝の「壬戌紀行」に「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり、その元に神明の神社の宮を建つ」とある御神木です。

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立派な蔵
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10:53 中山道大湫宿案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道
大湫宿(おおくてしゅく)

海抜五一〇mの高地に、江戸から四十七番目の宿として、慶長九年(一六〇四)に新たに設けられた。東の大井宿へは三里半、西の細久手(ほそくて)宿には一里半と、美濃十六宿の中で最も高く、それだけに人馬ともに険しい山坂が続く難所に開かれた宿でした。東に桝形を設けた宿の中心には、今も神明神社の大杉がそびえ、古い町並みがよく残っています。
脇本陣の保々家(江戸中期)、旅籠の三浦家(江戸末)、問屋の丸森森川家(江戸末)、新森森川家(明治)の四棟は、建造物として国の登録有形文化財として登録されています。
瑞浪市


【高札場跡】

10:53 大湫宿高札場跡
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案内板
大湫宿高札場跡

高札場とは江戸時代に三定など 幕府からの村民心得や板書札を掲示した場所のことで、 宿の場合は 旅人の道中心得や人馬賃銭など道中奉行所からの高札も掲げられたから大湫宿の場合もこのように立 派なものであった 」


10:55 中山道ぎふ17宿の案内板
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案内板
中山道 大湫宿

中山道ぎふ17宿

江戸日本橋から京都三条大橋まで六十九宿[百三十五里二十四町八間(約五百三十二キロ)]。この中山道の四分の一相当(約百二十八キロ)が美濃国、つまり岐阜県です。十六の宿場を持つ美濃中山道は山間を通る道程で木々や渓谷に四季折々の自然の美しさがある街道です。
木曽路馬籠宿は、景観を保存した観光地として賑わいをみせています。

大湫宿

大湫宿は、江戸から47番目の宿。海抜510mの高地に設けられた美濃国で最も高所の宿場です。付近は急坂が続く、難所とされてきました。街道に沿ってつくられた細長い町並みは家々の地割を6間半平均に割られ、石積みの側溝が今でも家々の境界に見られます。国道や鉄道(JR)などが土岐川沿いに開かれたため、往時のままの姿をとどめています。 」


案内板に、ぎふ17宿とあったり、美濃十六宿とあったりします。
以前は馬籠は長野県でしたが、2005年2月に岐阜県中津川市編入されました。

10:58 道標
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11:00 紅葉洞の石橋
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11:01 小坂の馬頭様
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11:02 木曽街道六十九次「大久手宿」
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案内板
「 木曽街道六十九次『大久手宿』
安藤広重

大湫宿中山道の四十七番目の宿場で、現在でも当時の松並が残されており、幕末には将軍家に降嫁する皇女和宮が、道中宿泊されたことでも有名です。 」

11:06 大洞の馬頭様
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二度目の中山道21日目の4(大湫宿から細久手宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/26/181541


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003