紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

細久手(掲示物)

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「 細久手

1、細久手の地名が出てきたのは、記録としては、天正11年(1583)五月苗木城を攻略した兼山城主森長可が、その5月25日の帰途細久手に宿陣したとある『金山記』の記載が始めてである。
2、文禄4年(1595)に國枝与左衛門が、自領地に氏神として日吉愛宕神社を勧請している。
3、中山道の宿として慶長11年(1606)大久保石見ノ守長安の命を受けて7軒の仮宿を開いたが、放火により全焼する。
4、慶長15年(1610)中山道の宿場として正式に成立する。御嵩宿と大湫宿の間にあった中山道の宿場町で、江戸から48番目の宿にあたり、江戸へ94里(372km)、京へ42里(168km)あり、大湫宿から1里半、御嵩宿まで3里。大湫宿から御嵩宿までの間は山坂多くしかも長丁場であることから、大久保長安への両宿の嘆願で設けられた新宿という。
細久手は山村甚兵衛支配地にて無高である。
地子免許(除)覚 安永九年八月
細久手宿地子免除無之
天保14年卯年改(1843)中山道宿村大概帳には
尾州土岐郡細久手宿
江戸に九拾弐里参拾町八間
大湫宿に壱里半 御嵩宿に三里
一、宿高無之
日吉郷十二ヶ村入会から平岩村境迄
宿往還長十町参拾六間之内
一、宿内町並東西に三町四拾五間
一、宿内人別弐百五拾六人
(内男百三十四人、女百二十二人)
一、宿内総家数六拾五軒
本陣 凡建坪百二十三坪余
中町壱軒 門構、玄関附
脇本陣 凡建坪六拾弐坪余
中町壱軒 門構、玄関附
旅籠屋弐拾四軒
(内大六、中七、小十一)
一、地子免許無之
一、問屋給無之、尤米六谷尾州より
問屋の弐人に手当有之
一、人馬継ぎ問屋弐ヶ所
一、宿建人馬五拾人、五拾疋
一、継飛脚給米無之
一、宿高札場一ヶ所、宿東入口に建有之