岡 朝子の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き21日目の2(十三峠)

二度目の中山道21日目の2
2020年9月6日(日)の2


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西行の森と槙ヶ根一里塚跡】

こんな道を歩きます。
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7:11 西行塚展望台入り口
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今日は山道30km歩かねばならないので、展望台はパス。

案内板
西行

西行苑は、平安時代末の高名な歌人西行(法名円位、俗名 佐藤義清(のりきよ)
1118-1190)をしのんで整備された公園で、ここには西行が葬られたと
いう岐阜県指定史跡西行塚(五輪塔が立つ)や、西行の歌碑、芭蕉の句
碑が並んでいます。
定説では、諸国を行脚した西行は、晩年になって河内国(大阪府)弘
川寺に身を寄せ、文治6年2月16日 (1190)に亡くなったといわれてい
ます。
しかし、全国には様々な形で西行の伝説が残されており、その終焉の
地にしても十を下らない数の場所が知られています。この恵那市におい
ても古くから西行の伝説がいくつか知られています。その伝説の一つに
よれば、西行は、諸国行脚の途中、この地に立ち寄り、竹林庵を結び3
年暮らしたという。西行は、そこで自分の死期を悟り、自分が死んだら
その遺骸をこの中野坂に埋葬するよう村人に頼んだ。そして建久9年2
月14日(1198)に亡くなり、村人たちは遺言通りに中野坂の傍らに西行
を埋葬し、五輪塔を建てたという。
事実はともあれ、富裕な北面の武士(院を警護する武士)で妻子もあ
った西行が、すべてを投げ捨て、僧となって諸国を行脚し、数々の歌を
詠んだ(新古今和歌集に94首が入る随一の歌人であった)。こうした西行
人となりが、多くの人々の共感を呼んだり、あるいはある種の憧れにも
のた気持を生み、それが各地に残る伝説となったのではないでしょうか。 」


7:18 リコーエレメックス恵那事務所森づくり
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案内板
「 私たちリコーグループは、世界各地で行っている 生物多様性保全の一環として、リコーエレメックス 恵那事業所の社有林で森づくりに取り組んでいます。

(以下略) 」


「ようこそ【リコーえなの森】へ」
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こんな道です。
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7:19 槙ヶ根一里塚跡
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案内板
「 槙ヶ根一里塚

一里塚は、一里(約4キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれたといわれるが、一般的には、慶長9年(1604年)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要な街道に設けさせ制度化させたものをいっている。しかし、180・90年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。県内の中山道には、全部で32か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と紅坂一里塚ほかに瑞浪市内の権現山一里塚など5ヶ所の合せて7ヶ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5メートル、幅は9.9メートル、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9メートル、幅は10.1メートルである。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原型をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。

恵那市教育委員会 
恵那ライオンズクラブ

トイレをお借りしました。木の香りがよく、綺麗なトイレでした。
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7:22 西行の森
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7:32 伝西行
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案内板
「 伝西行

丘陵上に五輪塔があり、これが古くから西行塚と伝えられています。慶長19年(1614)に記録された『長国寺縁起』には西行の終焉の状況が細かく記されており、それを根拠に西行の墓と信じられてきました。『壬戌紀行』をはじめ、中山道の旅記録書の多くにこの塚のことがしるされています。 」


【槙ヶ根立場跡】

7:34 中山道は右斜め上の草道へ。
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7:35 茶屋松本屋跡
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7:37 槙ヶ根立場の茶屋
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案内板
「 槙ヶ根立場の茶屋

江戸時代の末頃ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あった。そして店先にわらじを掛け、餅を並べ、多くに人がひと休みしてまた旅立って行ったと思われる。(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)
これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が変わり、脇道ができ、特に明治三五年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。
そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。 」

7:37 伊勢神宮遙拝所
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案内板
伊勢神宮遙拝所

京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化二年(一八〇五)に『木曽名所図絵』といつ本に書いた。
そしてその挿絵に槙ヶ根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。
ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。
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伊勢神宮参拝の人はここで中山道と分かれて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせて遙拝したという。 」

7:37 槙ヶ根立場
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案内板
「 槙ヶ根立場

ここは中山道槙が根追分である。
東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木側を渡れば大井宿であり(この間約一里)、西別川約二里半(約一〇キロメートル)深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。
ここで中山道と分かれて西に下る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を超せば名古屋や伊勢方面へ行くことができ『下街道』と呼んでいた。
江戸時代ここは中山道の通行者に加えて木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道をはさんで多くの茶屋があり、槙が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。
享和二年(一八〇二)三月この地をといった詳しい太田南畝は、著書『木曽の麻衣』にこのあたりの様子を次ぎのように書いている。
『石ばしる音すさまじき流れにあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの坂というを上る事五六町にして、山のいたヾきより見れば、左右の山ひきく見ゆ、ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり、いせ道と石にゑれり、ここに仮屋して伊勢大神宮に奉納の札をたつ、道のべに一重桜さかりなるは遅桜なるべし、一里塚をへて人家あり、巻かね村という、追分立場というは木曽といせ路の追分なるべし。こゝにもお六櫛をひきてひさぐ、なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり、はじめの道にくらぶればいと近し、松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂という、左の山野上に桜の木ありて西行の塚ありという、円位上人は讃岐の円通寺に終わりをとりぬときくに、こゝにしも塚あることいかがならん、折から谷の鶯の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いてつべし、砂石まじりに流るゝ水にかけし木橋を渡りて中野村あり・・・」と、

中山道の整備は初め慶長七年(一六〇二)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行としてなされた。
その時の道はこの槙が根追分から西に下り、竹折―釜戸を経て御岳宿へ出た。ところがその翌年こゝから西へ真っ直ぐに行く道が改修され、慶長九年(一六〇四)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の設置は慶長一一年である)
その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、街道の両側に松などの並木を植えて完備した。
その後この地の藩主や村々の農民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能をはたしていた。

平成三年三月
文化庁 恵那市教育委員会

7:38 大神宮標柱
「右 西京大阪
左 伊勢 名古屋 」
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7:38 下街道案内板
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案内板
「 下街道

中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。
下街道は竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。
この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は紙街道より四里半(約一八キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。
しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人荷の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。 」

国道19号1km →

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東海自然歩道道標
←中部北陸自然歩道合流点0.3km
野井 5.1km

深萱 3.9km →
紅坂一里塚 2.8km


7:48 姫御殿跡
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この地には、文化元年(1804)、十二代将軍家慶のもとへ下向した楽宮(さざのみや)の通行の際には仮御殿が、また和宮の下向の時も、漆塗りの見事な御殿が建てられたとそうです。

こんな道を歩きました。
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【首なし地蔵と乱れ坂】

7:50 下座切場跡
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下座切場は通行する偉い役人に対し、地元の役人が袴を着用し土下座して迎えた場所だそうです。

7:51 首なし地蔵
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案内板
「 首なし地蔵

この地蔵様は宝暦六年(1756)地元勢(武並町美濃)の人たちが、旅行者の道中安全を祈って立てたものである。
その後地蔵様は、下街道沿いの丘の上に移され、春の桜の頃に地元の人たちが集まって、盛大な祭典を行っている。
この地蔵様にはこんな話が残っている。
昔、二人の中間(ちゅうげん)がここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。『少し休もうか』と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。 しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれら しき犯人は見あたらなかった。怒った中間は『黙って見ているとはなにごとだ!』と腰の刀で地蔵様の首を切り落してしまった。
それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。 」


7:53 中山道乱れ坂石標
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7:57 みだれ坂標柱
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7:57 みだれ橋
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案内板
「 乱れ坂 と乱れ橋

 大井宿から大湫宿までの三里半(約14km)には、西行坂 や権現坂 など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」と呼ばれるようになったという。このほかに「みたらし坂 」とか「祝い上げ坂 」ともいう。
 坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋 」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつ銭を徴収する有料橋のときもあったという。
平成15年3月
恵那市教育委員会

8:04 うつ木原坂
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8:09 殿様街道跡
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8:16 平六坂
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【紅坂一里塚跡とぼたん岩】

8:22 紅坂一里塚跡
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案内板
「 紅坂一里塚

一里塚は、慶長9年(1604年)徳川幕府の命によって東海、東山、北陸の3道に各一里(約4km)ごとに築かれた里程標で、土くずれを防ぐため頂上には榎の木が植えられました。ここは、紅坂一里塚といいここから江戸へ89里、京へ45里といわれます。 」


8:25 うばヶ出茶屋跡
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8:26 ぼたん岩
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案内板
「 『紅坂のぼたん岩』

みなさんの足元にある直系5m程の岩が上から見ると『ぼたんの花』に見えることから『紅坂のぼたん岩』として江戸時代から有名でした。『日本一多数の人から踏まれた岩』です。学術的には、花こう岩の『タマネギはく離(オニオンクラック)』の標本として貴重な岩のひとつです。 以上 」

8:32 黒すくも坂
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8:35 分岐
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久しぶりに車が通る大きな道に出ました。

8:36 藤村高札場跡
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案内板
「 藤村高札場

恵那市
恵那市教育委員会

高札場は村のうち人通りが多く目につきやすい場所に、一村一か所建てるのが普通であるが、この藤村や竹折村のように二か所に建てた村もある。高札には親子・キリシタン・毒薬・火付・徒党・駄賃銭などの多くの札があるが、藤村のこの高札場には二枚掛けてあった。[享和元年(1801年)頃] 高札場の管理は藩に命じ、村人にはきまりを厳しく守らせ、この前では笠などを取らせ礼をさせるなど厳重に取り締らせていた。 (この高札は当時の大きさで尾張藩用のものを書写したものである。) 」


【深萱立場】

8:38 深萱立場
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案内板
「 深萱立場(ふかがやたてば)

立場とは、宿と宿の間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、駕籠をのせかつぐ場所」と言われている。深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や栗おこわといった土地の名物を食べさせたりしていた。立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。 
平成15年3月 
恵那市教育委員会

8:40 東海自然歩道道標
←大久後 2.5km 60分
→紅坂一里塚 1.1km 20分
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8:42 ここは中山道 深萱立場
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案内板
「 ここは中山道 深萱立場

深萱立場には数軒の茶屋があり、多くの旅人たちの憩の場となっていた。
特に立場本陣は和宮をはじめ多くの姫君や大名行列の殿様が御小休みされた家である。この道は大井宿と大湫宿の三里半(約14km)を結び十三峠という。
尾根伝いの展望のよい、土道が続き、途中には一里塚や石仏や多くの茶屋跡などが残り、今でも往時の面影のよく残る道である。 」


【西坂、みちじろ峠】

8:49 西坂
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8:52 分岐 (道標が三本)
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8:53 ここを上ります。
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8:57 ばばが茶屋跡
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8:58 みちじろ峠
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9:00 下座切場跡 中山道石標
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9:01 中山道石碑
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9:05 大久後の向茶屋跡
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9:08 分岐を左へ
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道標(中山道東海自然歩道)
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【観音坂と馬頭様】

9:09 観音坂 (瑞浪市 H11)
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9:16 大久後観音坂
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9:19 観音坂と馬頭様
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案内板
「 歴史の道中山道
観音坂と馬頭様

大井宿と大湫宿の間の三里半(約十三、五km)は、起伏にとんだ尾根道の連続で、『十三峠におまけが七つ』とも言われ、中山道の中でも難所のひとつでした。
ここは観音坂と呼ばれ、瑞浪(みずなみ)市の東の端、釜戸(かまと)町大久後(おおくご)地区に位置しています。
坂の途中の大岩の上には、道中の暗算を祈念する馬頭観音像が立ち、坂の西には天保二年(一八四一)銘の『四霊場巡拝記念碑』が建っています。
さらにその西に連なる権現山の山頂には刈安(かりやす)神社が祀られ、貫禄には往時、駕籠(かご)などを止めて休息した、大久後・炭焼(すみやき)の二つの立場跡が残っています。

平成十八年度のこの事業は、文化庁岐阜県からの補助金を受けています。

瑞浪市


9:21 観音坂の霊場巡拝碑
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9:23 分岐
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9:24 灰くべ餅の出茶屋跡
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9:25 大久後の観音堂と弘法様
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9:27 権現坂
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9:33 刈安神社
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9:33 東海自然歩道道標
←大湫 3.2km 炭焼立場0.4km
→大久後 0.2km
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【炭焼立場跡】

9:34 炭焼立場跡
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案内板
「 歴史の道 中山道
炭焼立場跡(いわやきたてばあと)

立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。太田南畝(蜀山人)が享和二年(1802)に著した『壬戌紀行』に『俗に炭焼の五郎坂といふを下れば炭焼の立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり。』という記述があります。十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。

瑞浪市

9:37 吾郎坂
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9:45 十三峠の内中山道樫木坂
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9:45 瑞浪市史跡 権現山一里塚(県指定史跡)
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案内板
「 権現山一里塚

江戸へ90里、京都へ44里という道標で、樫ノ木坂 一里塚とも呼ばれ、石畳とともに中山道当時の姿を偲ばせています。南塚は高さ約5m、 径約9m、 北塚は高さ約3.5m径約9mです。
慶長8~9年に十三峠の新設工事とともに築かれた ものであり、瑞浪市内の4ヶ所のように完全な形で現存している一里塚は珍しく、貴重です。
(県指定史跡) 」


【巡礼水と馬頭様】

9:48 巡礼水の坂
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9:55 巡礼水と馬頭様
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案内板
「 歴史の道 中山道
巡礼水と馬頭様

大湫宿と大井宿の間の三里半(約十三、五km)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ、二十余りの山坂道をいい、中山道の中でも難所の一つでした。十三峠は、大湫宿東端の寺坂から、巡礼水の坂、権現山の一里塚、観音坂を過ぎて恵那市へと続きます。
この地には、お助け清水・巡礼水と呼ばれる小さな池の跡が残り、その上段には、宝暦七年(1757)銘の馬頭観音が祀られています。その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏によって目の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられています。

 瑞浪市


9:55 十三峠の巡礼水
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案内板
「 十三峠の巡礼水

旅の巡礼がここで病気になったが、念仏によって水が湧き出して生命が救かったと伝えられています。
僅かな清水ですが8月1日に枯れることはないといい、旅人たちから『十三峠のお助け水』として大切にされてきたものです。 」

中山道 巡礼水石碑
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中山道 巡礼水
坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という
常には さのみ水も出ねど 八月一日には必ず出するという
むかし巡礼の者 此の日此所にて なやみ伏しけるが この水飲みて命助かりしより今もかかることありといえり 
太田南畝 壬戌紀行」

こんな道を歩きました。
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10:01 びあいと坂(枇杷湯糖茶屋跡)
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両側はゴルフ場。

靴紐を直していたら、

「ファー!」

と大声がして、その時は大丈夫でしたが、その先で真新しいゴルフボールを見つけました。

またさらに先に進むと、ネットが張られているにもかかわらず、かなりゴルフボールが落ちている場所があり、もしこれで怪我をしたら、いや、怪我で済まなかったら、補償はあるのだろうか。私はゴルフ場へ行ったことがないから知らないのだけれど、プレイする前に都度都度対人対物保険に入るのだろうか。中山道の脇にゴルフ場を作った持ち主に対して訴訟を起こせるのだろうか、など考えてしまいました。

熊出没の看板
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10:08 中山道十三峠阿波屋の茶屋跡石碑
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阿波屋のおつる婆さんの出茶屋跡だそうです。


【三十三所観音石窟】

10:08 十三峠の三十三所観音石窟
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案内板
「 歴史の道 中山道
三十三所観音石窟

大湫宿と大井宿の間の三里半(約十三、五km)は、険しい山坂の連続する『十三峠』と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。
ここには、道中安全を祈って天保十一年(一八四〇)に建立された観音石窟があり、三十三体の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち道中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚(じょうびきゃく)嶋屋・京屋・甲州屋を始め、奥州・越後の飛脚才領(さいりょう)、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出費者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。
瑞浪市

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案内板
「 十三峠の三十三観音

険しい山坂の連続である十三峠は、旅人ばかりでなく、宿や助郷の人馬役のものにとってもたいへんな道でした。この観音仏は道中安全を祈って建てられたものですが、寄進者の中に定飛脚才領中や中馬連中の名もあり、中山道にある建造物の中でも学問上貴重なものの一つです。 」


【尻冷し地蔵尊

10:11 十三峠の尻冷し地蔵尊
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案内板
「 十三峠 尻冷しの地蔵尊

 昔の旅人にとって道中の飲み水は大切でした。山坂の多い十三峠では特に大切であり、ここの清水は大変貴重とされました。この地蔵尊はそんな清水に感謝して建てられたものですが、ちょうど清水でお尻を冷しているように見えるところからこんな愛称で親しまれてきました。

東海自然歩道
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石碑
中山道 尻冷し地蔵尊

地蔵坂という坂を上れば、右に大なる杉の木ありて地蔵菩薩たたせ給う
 壬戌紀行」

所々にあった注意書き
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「 登山道通行者へのお願い

この山域において、豚コレラウイルスに感染した 野生イノシシが見つかっています。
コレラウイルスは、物について運ばれる恐れが あることから、他の地域への感染拡大を防ぐため、 靴底の泥をよく落し、 石灰帯で靴底を消毒してください。」

10:14 道標
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【しゃれこ坂、山之神坂、童子ヶ根】

10:17 しゃれこ坂の名号碑(八丁坂の観音碑) 「南無観世音菩薩」
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道標を兼ねた石碑
中山道 しゃれこ坂(八町坂)

曲りまがりて、登り下り猶三四町も下る坂の名を問えばしやれこ坂という右の方に南無観世音菩薩という石を建つ向うに遠く見ゆる山はかの横長岳(恵那山)なり。
太田南畝 壬戌紀行 」


10:24 中山道十三峠 山之神坂
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10:25 童子ヶ根
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10:29 眼下に大湫宿が見えてきました。
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【十三峠におまけが七つ】

いよいよ十三峠も終わり、もうすぐ大湫宿です。十三峠は坂や峠がたくさん、という意味なのでしょうか。実際には、「十三峠におまけが七つ」と言われ、二十の坂があるそうです。中山道ブログをいろいろ見ていると、いやいや、22あった、24あった、25あった、などの説も見られます。

私が持って歩いた『ちゃんと歩ける中六十九次』によると、次の二十の坂だそうです。

西行坂、槙ヶ根坂、乱れ坂、お継原坂(うつ木原坂)、紅坂、平六坂、黒すくも坂、西坂、茶屋坂、新道坂、観音坂、権現坂、鞍骨坂、吾郎坂、巡礼水の坂、びやいと坂、曽根松坂、地蔵坂、しゃれこうべ坂(しゃれこ坂)、山之神坂

()をつけたのは、私が実際に見た標柱の名前です。



二度目の中山道21日目の3(大湫宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/25/231804