紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

接待茶屋跡と殉職警官近藤谷一郎君之碑

接待茶屋跡
f:id:asiandream0804:20201219191356j:plain
f:id:asiandream0804:20201219191424j:plain
案内板
「 歴史の道中山道 接待(和田峠施行所)

 江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿 とこの和田宿 に五〇両づつ下付し、文政一一年(1828)に設置された施行所の一つである。
 十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
 その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。

文化庁 長野県 和田村 」


殉職警官近藤谷一郎君之碑
f:id:asiandream0804:20201219191503j:plain
案内板
「 『殉職警官近藤谷一郎巡査之碑』について

近藤谷一郎巡査は、慶応三年一〇月二〇日、新潟県北蒲原郡において
近藤谷右衛門の長男として生まれ、明治二二年二月四日長野県巡査を拝
命し、同年三月九日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰と
なった。
 上田警察署丸子分署に勤務中の明治二二年八月二二日、窃盗犯人を下
諏訪警察分署へ護送する途中、当接待地籍において、やにわに逃走した
犯人を捕らえようとして谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受
けて倒れ、さらに、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職した。
享年二二歳。
 犯人は頭部を負傷し、接待地籍の茶屋へ逃げ込んで来たが、茶屋の主
人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りかかっ
た住民二人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所へ届
け出て事件が判明した。近藤巡査の遺体は、翌八月二三日捜索隊によっ
て谷川の中で発見された。
 治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の
霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年八月二二日の命日に、村民を
あげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から四八年過ぎた昭和一二年、丸子警
察署庁舎改築を機に、依田窪全町村長の発意により、この地に「殉職警
察官近藤谷一郎君之碑」の慰霊碑が建立された。
 慰霊祭は、例年八月二二日の命日に和田村民の手によってしめやかに
開催されてきたが、昭和六三年の百回慰霊祭をもって和田村主催から、
和田村教育委員会の管理となり、その後、和田村更生保護婦人会の方々
が命日前に慰霊碑周辺の清掃、供花等の供養を続けていただいている。

平成一四年八月

和田村役場 丸子警察署 」