紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き7日目の4(碓氷峠越え後半)

2度目の中山道7日目の4
4月4日(土)の4


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【山中茶屋跡】

11:53 山中茶屋跡
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案内板
「 山中茶屋

 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で慶安年間(一六四八~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
 寛文二年(一六六二)には十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
 明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。」


11:53 山中学校跡
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案内板
「 山中学校跡

 明治十一年、明治天皇御巡幸の時、児童が二十五人いたので、二十五円の奨学金の下賜があった。供奉官から十円の寄付があった。 」

ここに残っているプレハブ小屋は、物置なのか、お休み処のような売店のようのものがあったのか、そう古いものではないと思います。

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【山中坂】

11:57 山中坂
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案内板
「 山中坂

 山中茶屋から子持山山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は『飯食い坂』とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
 山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 」


11年前のブログより

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昔、何らかの施設があった跡地の廃屋、廃バスがあり、その少し先には、また廃車がありました。

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何らかの施設、と書いた廃屋は、何かの保養所だったらしいです。
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【一つ家跡】

12:05 一つ家跡
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案内板
「 一つ家跡
                 
 ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。 」


11年前のブログより

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左側に、「一ッ家跡」の立て札。昔、この辺りに一人の老婆がいて、旅人を苦しめたという、と説明がされていましたが、山姥?鬼婆?

以前は家族で茶屋をしていて、みんな亡くなって一人残され、本人は旅人と話がしたかったのに、旅人が怖がって逃げた、というのが真実ではないか、と、想像…。

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今考えてみても、同じ想像をしますね。


陣場が原追分】

12:10 陣場が原追分
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案内板
「 陣馬が原

 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。 」


12:10 子持山
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案内板
子持山

 万葉集第十四 東歌中
       詠人不知

 兒持山若かへるでの
      もみづまで
 寝もと吾は思う
     汝はあどか思う
      (三四九四) 」
          

 この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、

 子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?

注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。

 山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。

歌垣(うたがき) wikipediaより

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古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事であり、互いに求愛歌を掛け合いながら、対になり恋愛関係になるとされる。語源は「歌掛き(懸き)」であり、東国方言の「かがい(嬥歌)」も「懸け合い」に由来すると考えられている。時期としては春秋に行われ、生産の予祝・感謝としての性格を持っていたとされる。

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歌垣は元々中国の風習で、ベトナムを 経てインドシナ半島、フィリピンやインドネシアでも似た風習があるそうです。

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11年前のブログより

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やがて、子持山の立て札と、陣馬が原の立て札。ここが分岐で、旧中山道は左に入ります。右の林道は、皇女和宮の道&安政遠足の道。

ガイド本によると、旧中山道は熊が出たり、雨で増水すると通れないところがあり、東京屋の方も、旧中山道は通れないかもしれない、と言っていたので、私は皇女和宮の道を通ることにしました。一人旅だから、回避できる危険は回避して、安全な旅を心がけるべきだと思います。

林道歩きは変化には乏しいけれど、一定に歩けるので、ぐんぐん距離を伸ばしました。

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夕べの宿、東京屋のご夫妻が、熊が出るから皇女和の宮の道を行きなさい、とおっしゃっていたので、11ねんまえはこの分岐から皇女和の宮の道(安政遠足コースであり、中部北陸自然歩道でもあります)を行きましたが、今日は旧中山道を行きます。

ここから暫くは、初めて歩く道です。

12:18 化粧水跡
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案内板
「 化粧水跡

 峠町へ登る人々がこの水で姿・形を直した水場である。 」


12:20 道が崩壊していました。
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【人馬施行所跡】


12:21 人馬施行所跡
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案内板
「 人馬施行所跡

 笹沢のほとりに、文政11年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて、人馬が休む家をつくった。 」

足元に「←中山道」という道標が、落ちているのか、わざわざ足元に設置してあるのか、その矢印通りだと、もう少し川上(谷の奥側)へ進まねばならないのですが、それでは沢を渡れそうな所がないし、地図によると、この人馬施行所跡で左に折れて沢を渡るように書かれているので、矢印より地図を信じて沢に進んだのですが、暫くは道を間違えたのではないかと不安でした。


12:23 笹沢を渡りました。
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ガイド本に、熊笹の道、とありましたが、熊笹はほとんど生えていないのも、この道でいいのかの不安の一因でしたが、わずかばかりの熊笹なら生えていました。
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案内板が見えてきたので、この道で大丈夫らしい、とほっとしました。


【長坂道】

12:45 長坂道
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案内板
「中仙道をしのぶ古い道である。 」


その先、T字路を右へ行くべき所を左に行ってしまい、間違いに気づいて戻ってきたら、さっき間違えた分岐に戻るのに10分かかりました。

間違えて歩いていた道
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12:55 先ほどの分岐に戻りました。
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こちらが正しい道
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中山道と、安政遠足の道(皇女和の宮の道)が合流します。

11年前は、旧中山道ではない方の、和の宮の道を歩いてきました。

11年前のブログより

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暫くすると、旧中山道と合流。ちょうど合流地点付近に、仁王門跡、思婦石などがありました。思婦石は、ヤマトタケルが亡き妻、オトタチバナヒメを思って嘆いた、という故事に因んだもの。

ヤマトタケルが走水で入水したオトタチバナヒメを思って「あづまはや」と言ったのが、ここの碓氷峠という説が一番の定説になっていますが、実は碓氷峠は3カ所あって、私は学生時代に、ヤマトタケルが「あづまはや」と嘆いた碓氷峠は、箱根の碓氷坂ではないか、という説を書いたことがあります。

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【思婦石、仁王門跡】


12:57 思婦石(おもふいし)
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案内板
「 思婦石

群馬郡室田の国学者 関橋守(せきのはしもり)の作で、安政四年(一八五七)の建立である。
 ありし代に
   かえりみしてふ
       碓氷山
 今も恋しき
    吾妻路のそら 」

12:57 石仏石塔群
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12:57 仁王門跡
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案内板
「 仁王門跡

もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。 」


12:58 中部北陸自然歩道道
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上州碓氷峠越えのみち
←坂本宿8.5km・霧積温泉6.1km
熊野神社0.3km


11年前のブログより

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暫く林道へと進むと、霧積温泉への道との分岐に出ました。

西条八十の帽子の詩を思い出しました。

「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。(後略)」

松田優作主演、ジョー山中の主題歌で話題となった映画「人間の証明」の1シーンで、吊り橋から麦わら帽子が落ちていく、あのシーンが目に浮かんできました。

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【史蹟 赤門屋敷跡】


13:00 力餅、見晴亭(閉まっています)
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13:01 史蹟 赤門屋敷跡
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案内板
「 史蹟 赤門屋敷跡

江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為『中山道』が碓氷峠熊野神社』前を通り、此の赤門屋敷跡には『加賀藩前田家』の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿『追分・沓掛・軽井沢』を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(一八六一)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。明治十一年(一八七八)明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町『峠部落』も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。此の屋敷は熊野神社代々の社家『峠開発の祖』曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門『御守殿門』及び格調高い『上屋敷』の滅失が惜しまれている。

赤門の由来
現在 東京本郷 東大の赤門が現存しており、此の門は文政十年(一八二七)今から約百七十年前、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ十一代将軍徳川家斉(いえなり)の息女溶姫(ようひめ)の為に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されている。

平成七年五月十五日

熊野神社 宮司 曽根恒季 」



熊野神社 県境】

13:02 熊野神社
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安政遠足決勝点

「信州STYLE」より

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沿岸防衛が重要視される安政2年には安中藩主・板倉勝明が50歳以下の藩士の鍛錬のため、藩士96人を安中城の城門から碓氷峠熊野権現まで徒競走をさせています(『安中御城内御諸士御遠足着帳』)。
これが有名な「安政遠足」(あんせいとおあし)で、日本のマラソンのルーツともいわれています。途中で碓氷峠の関所、ゴールの熊野権現で神主のサインを受け、帰路も駕籠(かご)などを使えば厳罰というお達しでした。峠では力餅の接待が用意されていました。
毎年5月の第2日曜には安中城址をスタート地点に、旧碓氷峠をゴールにする30km(標高差1050m)という過酷な『安政遠足侍マラソン大会』が開催されています。

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県境があります。
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13:03 山口誓子句碑
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案内板
山口誓子句碑

朝日俳壇で活躍していた山口誓子の作を刻んで昭和50年に建立されました。

剛直の冬の妙義を引寄せる

(この下に、同内容を英語、ハングル、中国語で書いてあります。) 」


碓氷峠熊野神社

群馬県神社ゴシュインマップ」より

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【由緒】
熊野神社は「碓氷権現」「熊野権現」として世に知られる、日本三大熊野の一つ。中山道碓氷峠の頂上に位置し、群馬県と長野県の県境が神社の中央を通っている。景行天皇40年(西暦110年頃)日本武尊は上野を経て碓氷坂に差し掛かったが、濃霧にて迷われた。その時、一羽の大きな八咫烏が紀国熊野山の梛の葉を咥え来て尊の御前に落しながら道案内をし、尊は無事頂上に達することができた。碓氷峠に立った尊は棚引く雲海より海を連想され、相模灘で入水された弟橘姫を偲び「吾嬬者耶」(嗚呼愛しき吾が妻よ)と三度嘆かれた。以後ここより東の国を吾妻と呼ぶこととなった。(日本書紀)このことからこの地に日本武尊が紀国熊野の大神を勧請した。

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碓氷峠熊野神社の古鍾

「信州STYLE」より

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上州側の新宮には1292年に鋳造されたことが刻まれた「正応五年」銘入りの古鐘がありますが、群馬県側ということで、現存する群馬県最古の鐘として県の文化財に指定されています。
刻まれた銘には「奉施入臼井到下今/熊野大鐘 事/正應五年壬辰夘月八日/右志者為松井田一結 衆/十二人現當悉地成就也」とあり、松井田の住民12人(武士12人)が結縁して卯月8日(釈迦生誕の日)に寄進したものとわかります。鋳造当時は別当寺(神仏混交時代に神社を守護する寺)の神宮寺にあったものと推測され、安政3年(1856年)、大砲鋳造のため引き上げを命ぜられたが、当時時鐘として用いられていたことから軽井沢宿の人々の嘆願により許され、現存しています。
安政2年(1855年)に水戸藩では那珂湊反射炉建設(大砲鋳造のための反射炉)が始まり、安政3年には中小坂鉄山(なかおさかてつざん/群馬県下仁田町にあった鉄鉱山)の磁鉄鉱調査など水戸藩への鉄供給が安中藩に迫られる課題だったのです。

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【旧中山道碓氷峠道跡】

13:05 旧中山道碓氷峠道跡
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案内板
「 旧中山道碓氷峠

 江戸時代五街道の一つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て近江草津東海道と合する。
 この谷間の道が五街道の一つ中山道で坂本宿を経て峠に至り、軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は
 『旅人の身を粉に砕く難所道
      石のうすいの峠なりとて』

 『苦しくも峠を越せば花の里
      みんな揃って身は軽井沢』
 
と唄っていた。峠の頂上には道中安全の 神、熊野権現が祀られている。
 現在の道(舗装路)は明治天皇御巡幸道で明治11年に改修された道である。

 軽井沢町教育委員会
 軽井沢町文化財審議委員会 」


トイレに行きたかったので、見晴台入口の門を潜って、トイレに行きました。

曇っていたし、ここの見晴台は以前にも来たことがあるので、見晴台へは上りませんでした。


2度目の中山道7日目の5(碓氷峠から軽井沢宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/28/165914

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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き7日目の3(碓氷峠越え前半)

2度目の中山道7日目の3
4月4日(土)の3


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碓氷峠への登り口まで】

9:42 坂本八幡
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9:43 「その他の危険」の道路標識
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何が危険なのか不明です。

道路が大きく右へカーブする手前で左に入ります。
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9:44 分岐斜め左へ
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11年前のブログより

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建物が切れて寂しくなってきた辺り、国道が右にカーブする手前に、左に入っていく林道赤松線が旧中山道

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オフロードに入ってからは真っ直ぐ進むことは、実は何となく覚えていたのですが、一応地図を見直していたら、さっき私の前を歩いていた地元の方が農作業をし始めていて、

「真っ直ぐですよ」

と教えてくれました。

9:45 坂本浄水場
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【クリップを外せ!】

浄水場を左に見て、まっすぐ進みます。
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9:47 獣害対策用電気柵
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高圧電流が流れているそうで、クリップを外して通ってください、と書いてあるのですが、そもそもクリップってどれ?どうやって外すの?

戻って、さっき声をかけてくれた方に聞いてみるのが正解だとは思うのですが、
三本の線が通っていて、子どもの頃ゴム飛びの一種で、ごむに触れないように潜り抜けるという遊びがあったけれど、これ、一番下を潜り抜けられるはず。

失敗したら死ぬ?

いや、空身なら余裕でしょう。リュックとかウエストバッグがネックですから、ウエストバッグを外してリュックも下ろして、線の下を通して先に荷物を向こうへ移動させてから、帽子も先に送って、空身で潜り抜けました。

これ、失敗して電流受けて死んだら、バカな奴だとニュースになっちゃうなあ。

でも、余裕で潜り抜けられました。

暫くは気持ちよい道を進みます。
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【登り口】

突然急な上り。きつい、と思った頃に道路に出て、道路を渡ると、

9:52 碓氷小屋(碓氷峠登り口)
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碓氷峠登山口バス停です。
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そのすぐ左には、「中部北陸自然歩道『上州路碓氷峠のみち』」の案内板があります。中部北陸自然歩道は旧中山道峠の重なるところが多いのですが、全くイコールではなく、安政遠足のコースが 「中部北陸自然歩道『上州路碓氷峠のみち』」 に当たるそうです。

11年前のブログより

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急坂がいったん落ち着いた辺りが、堂峰番所跡。「安政遠足ゴールまで8.0km」という立て札。安中市が毎年5月第2日曜日に行っている、安政遠足の案内板です。昔の行事に倣い、鎧甲冑を着けて、安中市内から碓氷峠熊野神社まで走るそうです。歩くだけでもきつい山道を、よく走れるなあ、とびっくりします。

上りが続き、ところどころにロープが張られ、「危険注意」の札。

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【堂峰番所跡】

9:59 堂峰番所
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案内板
「 堂峰番所

 堂峰の見晴しのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。」


11年前のブログより

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上り道が左に曲がっている正面に、ケルンが積んであり、その奥に縦すじの結晶の集合体みたいな岩肌が見えます。

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【柱状節理】

10:19 柱状節理(ちゅうじょうせつり)
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案内板
「 柱状節理

火成岩の冷却固結するとき、亀裂を生じ自然に四角または六角の柱状に割れたものである。 」


10:21 刎石坂(はねいしざか) 石仏石塔群
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案内板
「 刎石坂

刎石坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある。 」

11年前のブログより

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刎石(はねいし)坂には、馬頭観音と大日尊がありました。坂本宿で見た芭蕉句碑も、昔はここにあったらしい。

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【上り地蔵下り地蔵】

10:29 上り地蔵 下り地蔵
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案内板
「 上り地蔵下り地蔵

十返舎一九が『たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて』と・・・
 その険阻な道は刎石坂である。刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめていると ともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。 」


11年前のブログより

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上りがずっと続き、上り地蔵下り地蔵と書かれた岩壁のところを巻き込んでいき、覗(のぞき)と呼ばれる、眼下に坂本宿を見下ろせる場所。その先に風穴がありました。

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10:31 馬頭観音
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【風穴】

10:33 風穴
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案内板
「 風穴

刎石溶岩のさけめから、水蒸気で湿った風が吹き出している穴が数ヵ所ある。」


落ち葉が思った以上に深いです。霜柱なのか、さくさくしていて、つるつるでもぐちゃぐちゃでもなく歩きやすい道です。


【弘法の井戸】


10:37 弘法の井戸
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案内板
「 弘法の井戸

諸国をまわっていた弘法大師が刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと教えたと伝えられている霊水である。 」


【刎石茶屋跡】


10:42 刎石(はねいし)茶屋跡
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案内板
「 刎石茶屋跡

ここに四軒の茶屋があった、
現在でも石垣や墓が残っている。 」


10:42 四軒茶屋跡
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案内板
「 四軒茶屋跡(よんけんぢゃやあと)

刎(はね)石山の頂上で昔こヽに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。) 」

10:43 杉木立の道
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【碓氷坂の関所跡】

10:44 碓氷坂の関所跡
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案内板
「 碓氷坂の関所跡

昌泰2年(八九九)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。 」


11:01 中部北陸自然歩道道
←坂本宿 2.5 km →熊野神社6.4km
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中部北陸自然歩道道標の左奥にあずまやがありました。
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【堀切】

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11年前のブログより

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下り道になり、堀切りと呼ばれる、道の両脇が切れて、馬の背のように細くなっている所がありました。

その先、左に大きくカーブしていてロープが張られている場所は左が谷で、気を付けなければいけません。

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11:01 掘り切り
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案内板
「 掘り切り

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大導寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。 」


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古い案内板
「 堀切

両側が深い谷で道が狭く、小田原勢の○将大道寺政繁(○城主)がこの道を掘って北国勢を防いだ古戦場跡である。 」

(○城主)は多分、松井田城主


【南向馬頭観世音、北向馬頭観世音】


11年前のブログより

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南向馬頭観音は小さいので見逃しやすい、とガイド本にありましたが、立て札の回りを随分探したけれど、見つけられませんでした。私が見つけられなかっただけなのか、実際、なかったのか。風化して崩れてしまったり、嵐などで流されてしまったり、時には、誰かに持ち去られてしまうこともあるそうです。

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この時私は南向観世音を見つけられなかったのですが、同時期に碓氷峠越えをした方が「南向観世音、ありましたよ。写真撮りましたよ」と写真を添えて、当時私が中山道歩きのトピックスを書いていたmixiのコミュニティにコメントしてくれました。

という訳で、今回は南向観世音を見逃さないように、小高いところをずっと見上げながら歩いていました。

11:04 南向馬頭観世音
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案内板
「 南向馬頭観世音

 この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
 昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある。

 寛政三年十二月十九日 
坂本宿 施主七之助


11:04 北向馬頭観世音
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案内板
「 北向馬頭観世音

馬頭観世音のあるところは、危険な場所である。
 一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。

 観世音菩薩
 文化十五年四月吉日  
 信州善光寺
 施主 内山庄左衛門 上田庄助
坂本世話人 三沢屋清助 」


11:08 一里塚跡
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案内板
「 一里塚

 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
 その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている。 」

11年前のブログより

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緩い坂を上っていると、上から落ち葉の絨毯がそこだけ膨らんだような茶色のかたまりが下りてきました。

なんだろう、と見ていたら、オコジョでした。

オコジョは鈍いのか、人間に脅かされたことがないからか、私に向かって下りてきました。

1メートルぐらいまで接近すると、オコジョもさすがに私に気がつき、慌てて右手に逃げていきました。

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【座頭ころがし】

11:17 座頭ころがし
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案内板
「 座頭ころがし(釜場 かんば)

 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので、すべりやすい所である。 」

11年前のブログより

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急な坂を上りきると、「座頭ころがし」の立て札。赤土で滑りやすいらしい坂ですが、落ち葉の絨毯のおかげで、滑らず、膝にもやさしい。

朴葉と思われる大きな葉が沢山落ちていて、裏が白っぽく、まるで紙屑を散らしたみたいに見えました。

座頭ころがしの先で休憩しようと、座りやすい岩か木の根を求めて少し先まで進んだら廃車が見えて、なんだか怖いので、それ以上近づくのはやめて休憩しました。

廃車は窓ガラスが全部なくなって、ボロボロのシートが見えていましたが、何かが潜んでいるような気がしました。

小休憩を終えて廃車の脇を通り抜けましたが、その先、今までよりは平坦になったとはいえ、木があったり、道幅的にも車は通れそうにありません。

楳図かずおの「漂流教室」や、時空を越えたSFを思い出し、この車はこの山道を走ってきたわけではなく、タイムマシンみたいに突然ここに現れて捨てられたのではないか、と思いたくなるぐらい、走ってくるには無理のある場所でした。

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古い「座頭ころがし」の立て札。ここが安政遠足の給水所になっているようです。
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安政遠足(あんせいとおあし)」立札
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この辺りに以前は廃車が放置されていました。


【栗が原】

11: 28 栗が原
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この付近、とても気持ちがよいです。
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案内板
「 栗が原

 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治8年群馬県最初の『見回り方屯所』があった。これが交番の始まりである。 」

11:47 入道くぼ
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案内板
「 入道くぼ

山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。
 鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。」


2度目の中山道7日目の4(碓氷峠越え後半)日目に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/28/154956


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き七日目の2(坂本宿)

2度目の中山道7日目の2
4月4日(土)の2


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【下木戸跡】

9:27 坂本宿下木戸跡
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案内板
「 下木戸跡

慶長七年(一六〇二)、江戸を中心とした街道整備が行なわれたとき五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道 百三十二里(約540k)が定められ、この間に六十九次の宿場ができた。その一つに坂本宿 が設けられ宿内の長さ三百九十二間(約七一三m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当時の設置場所に一部復元したものである。木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。文久元年の絵図によると、八間一尺巾(約一四、八m)の道路に川巾四尺(約一、三m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百六十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
雨が降りゃこそ松井田泊まり
 ふらにゃ越します坂本へ 」


9:28 近藤屋
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案内板
「 多才だった『武井九夏』

『九夏』は、文化十二年(一八一五)ここ、『こんどうや』に生まれる。
幼いときから学問に励みその多才ぶりは以下の自伝でもうかがい知ることができる。われ七歳にして学問に入り、九歳にして歌俳諧に心ざし、十二歳より書画に心を書しかくの如く老年に至るまで風雅をすてずと 雖も(いえども)何一つとる所なし。
ある時、竹を画きて其讚に呉竹の千尋のかげは写しても世にとどむべき一ふしもなし竹を好むによりて、またその名を竹翁の号し一筋に直なるかげを写しおく。

竹のおばなをあわれにも見る。
真弓迺舎翁 九夏
明治三十七年八十九歳で没す。

なお、同人は郷土の俳人中村碓嶺の弟子である」


9:29 米屋 米屋は屋号で、お米屋さんではなく民家です。
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刎石(はねいし)山がだいぶ近づいてきました。
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9:32 「なかむらや」
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案内板
「 『中村碓嶺(たいれい)』生誕の地

『碓嶺』は、一七九〇年(安永九年)代々旅籠屋を営んでいる『中村屋』に生まれた。
姓は仁井田であるが、中村碓嶺と呼んでいる。坂本は碓氷嶺が迫る景勝の地であるので俳号もこれに因んでいるものと思われる。
坂本宿は、街道文芸として俳諧・短歌が発達したので地元に多くの廃人が傑出した。
『碓嶺』は幼少よりこれらの影響を受け、四十数km離れた本庄に住む長庵に師事し遠路通ったという。そのため、めきめき頭角を表し当時、村上鬼城横綱とすれば、髙崎で西馬、坂本で碓嶺が両大関といわれるほどになった。
弘化三年(一八四六)没、六十七歳。辞世は、

明る夜を かくす雲なし 時鳥 」


【佐藤本陣跡】

9:33 佐藤本陣跡
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案内板
「 佐藤本陣跡

坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永十九年(一六四二)譜代大名にも参勤交代 を義務づけた。そのため、文政年間では三十一大名が坂本宿を往来した。寛政二年八月八日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京大夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊りが必然となり本陣が二軒必要だった。安政六年(一八五九)二月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は安中藩の役人宅にお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅)金井本陣)である。宿割りは脇本陣はじめとして十六宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、七月十七日朝五ッ半(午前九時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壷道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったがその反面難渋も少なくなかった。 」


9:34 永井脇本陣
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9:35 坂本公民館(酒屋脇本陣跡)
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中山道のおもかげ残す『かぎや』】

9:35 元旅籠かぎや
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案内板
「 坂本宿のおもかげ残す『かぎや』

 『かぎや』は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を『かぎや』とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に『かぎや』と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
 間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳二間に廊下、中庭をはさんで八畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
 宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。 」


【つたや、たかさごや、丸二屋跡】

9:36 元旅籠つたや(若山牧水宿泊の宿) 
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案内板
若山牧水宿泊の『つたや』

碓氷峠アプト式鉄道が開通してから十五年後の明治四十一年ごろになると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。
この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を超えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋『つたや』に無理に頼んで泊めてもらうことにした。
寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのが次の歌である。

秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し
坂本の宿の 糸繰りの唄 」


9:37 小林一茶の定宿たかさごや
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案内板
小林一茶の定宿『たかさごや』

 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(一七六三~一八二七)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 それで、ひとたび一茶が『たかさごや』に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に『覗き』と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

    坂本や 袂の下は 夕ひばり 」


9:38 丸仁屋跡(石柱)
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正面「上州中山道筋坂本宿丸仁屋跡」
側面「東 江戸へ三十四里」
「西 京へ百二里」


9:39 峠の湯入口(日帰り温泉施設)
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【上木戸跡】

9:40 上木戸跡
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坂本宿は下木戸跡から上木戸跡までの713mの長さの宿場です。


9:40 橋供養碑
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上木戸の足元には、常夜燈と刻まれた石塔と並び、文政5年建「橋供養塔」があります。
正面「文政五年壬午 橋供養 五月吉祥日」
背面「宿内男女念仏講中 世話人 佐藤羊兵衛 佐藤平兵衛妻 佐藤平兵衛」
と刻まれています。
これは、群馬県中山道に残る橋供養塔6基のうちの1基だそうです。


芭蕉句碑】

9:40 芭蕉句碑
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案内板
安中市指定重要文化財
 芭蕉句碑

 江戸寛政年間(一七九〇年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連(ちくすいあんれん)が、春秋庵加舎白雄(しゅんじゅうきんかやしらお)先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ一、六七m・幅 基幅一、三七m・頂部幅〇、六m・厚さ約〇、二m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治 明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
 書体は『筑羅様』で、句は紀行文『笈の小文』にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

 ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ 

   安中市教育委員会


2度目の中山道7日目の3(碓氷峠越え前半)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/27/140537


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

 

2度目の中山道六十九次歩き7日目の1(横川駅から坂本宿への道)

2度目の中山道7日目の1
2020年4月4日(土)の1


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【碓氷関所跡】

始発に乗り、青春18きっぷで横川までやって来ました。


8:48 横川駅から出発。
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前回、2度目の中山道6日目の3月14日は雨で見ることが出来なかった妙義山が目の前に聳えています。
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8:51 村社諏訪神社入口
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8:54 碓氷関所東門の位置
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関所跡の門は階段の上。桜が綺麗に咲いています。
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階段を上がって門をくぐり、「おじぎ石」を見ました。
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案内板
「 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を受けた。

松井田町教育委員会

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案内板
「 碓氷関所の沿革
碓氷関所保存会

 東海道 箱根関所 と並び称される中山道 碓氷関所 が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。
 寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子が国元へ逃げ帰るのを防いだのです。
 しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所の改めもゆるやかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化され、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。
 碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と束門(安中藩管理)で区切り、あいだの五二間二尺(約95メートル)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峰番所を置いて二重に監視しました。

関所役人
番頭 2人 安中藩士。1日交代で勤務。上席者が決裁権を持つ。
平番 3人安中藩士。番頭を補佐。
同心 5人代々関所に定住し定付同心ともいわれ、手形受付・罪人追捕などの実務を担当。
門番 4人 幕府の門である西門は、代々定住の西門番2人。安中藩管理の東門は領内採用の東門番2人が通いで勤務。
改女 2人西門番の妻女が交代で勤務。
中間 4人 近村の領民。関所内の案内整理、雑役などを担当。
平番長屋跡に復元された関所門の門扉2枚・門柱2本・屋根材6点は廃関当時のものです。 」

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案内板
「 碓氷関所の門

醍醐天皇の昌泰2年(899年)に群盗を取り締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623年)といわれ、
幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、
いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。
明治2年(1869年)廃関されるまで中仙道の要所となった。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた
堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、
東京大学教授工学博士 藤島亥治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。

松井田町教育委員会
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8:59 国道18号に合流。
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【川久保橋と薬師坂】

9:01 霧積川の川久保橋を渡ります。桜がきれい。
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案内板
「 川久保橋

碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は、正しくは碓氷御関所橋と呼んで中仙道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的かを優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。こりため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。細い麻縄を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を操り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。大名の渡河に際しては、番頭も川原に罷り出て見届けた。 」


国道18号線は左に大きくカーブしていますが、旧中山道はまっすぐに進みます。


9:02 薬師坂入口
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9:03 川久保薬師如来
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案内板
「 薬師坂にお座す薬師堂

元和九年(1623)碓氷関所 が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた。そこで、無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来 を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太を商う店があり旅人たちは、ここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場であった。このところから心太坂といわれ親しまれた。
薬師如来は、治癒に霊験あらたかということで近郷からの参拝客も多くあり、例祭が桜咲く四月十八日なので市も立つほどの賑わいぶりであった。
現在では、その影もひそめ地元で講を開き本堂を守っている。 」


9:10 薬師の湧水
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群馬県の42名水のひとつ。

https://ginzastc.aikotoba.jp/page036.html より

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

28 川久保薬師の湧水
    群馬県安中市松井田町原53

 元和9年(1623)碓氷関所が開設されました。 旅人は、無事通過の願いと感謝をこめてこの坂に薬師如来をまつる薬師堂が建立されました。 また、近くに清澄な湧水があるところからここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場でありました。 薬師如来は、治病の仏と信仰され、特に湧水で洗顔すると眼病の治癒に経験あらたかということで近郷からの参拝客も多くありました。
 国道18号線、碓氷川にかかる橋を渡るとすぐ右側に「川久保薬師坂」と書かれた石碑が見えます。 この坂を上るとすぐ左側に薬師堂が見えます。 さらに10mほど登ると左側に水場が見えてきます。 祠の下の穴から冷たくきれいな水がこんこんと湧き出て四角い囲いの中に流れています。

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9:13 中山道道標
←坂本宿0.9km →松井田宿7.4km
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暫くはまっすぐな道を歩きます。正面に見える山は刎石(はねいし)山です。
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振り返ると妙義山が見えます。
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11年前のブログより

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高速道路の下辺りに、「みんなのトイレ」があって、助かりました。

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今回はまだトイレへは行きませんでした。


9:20 中山道道標
→坂本宿0.5km ←松井田宿7.8km
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9:20 旧家
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【原村の水神宮】

9:22 水神宮
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案内板
「 原村を潤した水神

当祠は水神 を祀ってある。もとは、現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。坂本宿 が整備される以前に原村は、四十戸あまりの集落があって、中山道間延絵図 によると、道路の端に流れてきた堀を屈折させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として利用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。
水神は、川・井戸・泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることから、ともすれば粗略に扱い勝ちである。水神を詣でることで水への再確認を深めたいものである。清き水掬して喉を潤へり 峠越えゆく気のみなぎりけり  古歌 」

9:27 石塔 文化9年(1812)建立「奉納 西国四国秩父坂東 天下泰平」と刻まれています。
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2度目の中山道7日目の2(坂本宿)に続く       
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/26/181115


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き6日目の6(五料村から横川駅へ)

2度目の中山道6日目の 6
3月14日(土)の6


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【五料村へ】

15:53 薄日が差してきました。あの白い雲に覆われた辺り、妙義山があるんだろうなあ。
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15:57 T字路を右へ。
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15:59 岩の上にお地蔵様
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16:01 山灯籠 明治十三年(1880)建立
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山灯籠の後ろにちょっとだけ写っているのは、二十三夜塔。これは文政十年(1827)建立。


16:01 中山道道標
←坂本宿6.0km →松井田宿2.3km
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16:04 中山道は右斜めへ
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16:08 庚申塔と二十三夜塔
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【五料村茶屋本陣お西・お東】

16:11 茶屋本陣お西・お東入口
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とりあえず、線路を渡って行ってみました。

と、その前にこの看板
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16:12 高札場跡
安中藩
板倉伊豫守領分
五料村
高札場
松井田町教育委員会

そして、踏切を渡ります。


16:13 茶屋本陣お東の前ですが、左へ(お西の方へ)行くように矢印にに従って左折。
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16:14 茶屋本陣お西前。看板によると、受付終了は16:30で、まだぎりぎり間に合いますが、中には入らないことにしました。
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ここは新型コロナウィルス対策の休館はやっていないのでしょう、多分。

安中市ホームページより

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五料の茶屋本陣
茶屋本陣のプロフィール
五料の茶屋本陣
 五料の茶屋本陣は江戸時代の五料村の名主屋敷で、
また、中山道の茶屋本陣として参勤交代などで、中山道を通行する大名や公家、幕府の役人などに休憩所として利用されていました。
 建物は「お西」・「お東」と2棟あり、復元・修復作業が施され、往時を偲ばせるものとなっています。
なお、お西は昭和33年8月1日、お東は昭和59年12月25日に群馬県指定史跡に指定されました。

開館時間
午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)(3月~11月)
※冬期(12月〜2月)は、午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
月曜休館(月曜が祝日の場合はその翌平日)
年末年始休館(12月29日〜翌1月4日)
入館料
大人210円・小人(中学生以下)100円
団体(20人以上):大人150円・小人70円

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Travel & Portal WEB GUNMAより

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五料の茶屋本陣は、中山道を参勤交代で往来する大名や公家の休憩所として利用された場所で、「お西」と「お東」の2つの建物が並び本陣を営んでいました。どちらの建物も先祖を同じくし名主を勤めた中島家の屋敷で、天保7年(1836)から明治にかけて1年交代で茶屋本陣を営んでいました。

茶屋本陣の「お西」「お東」の両建物とも文化3年(1806)に建築された書院造りの上段の間を持ち、当時の姿を今日に伝えています。この五科の茶屋本陣は、群馬県の指定史跡に指定され大切に保存されています。

五料茶屋本陣 「お西」
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五料茶屋本陣「お西」は、「お東」と同じ文化3年に建てられた間口十三間、奥行七間の切妻作りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんどが同じです。「お西」は、白壁造りの屋敷構えをしています。

五料茶屋本陣「お東」
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五料茶屋本陣「お東」の建物は、間口十三間半、奥行七間で、書院造りの上段の間をはじめ式台など当時の面影を伝えています。「お東」は、土壁造りの屋敷構えをしています。

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16:18 男女双体道祖神
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男女双体道祖神は、雨で見えないけれど、11年前は妙義山をバックに撮ったなあ、と思い出しながら撮りました。

2009年4月15日に撮った同じ男女双体道祖神を貼ります。
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16:23 道祖神
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16:25 青面金剛
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16:25 茶釜石とお地蔵様
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案内板
「 茶釜石

この奇石 は、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまこゝを通った蜀山人は、この石をたゝいて珍らしい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。
 五料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石
 音打(値うち)をきいて通る旅人
この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名がある。
人々は、この石をたゝいてその不思議な音色を懐かしんでいます。
五料の七不思議 の一つに数えられています。 」

guntabi.comより

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茶釜石は古くから信仰の対象になっていたようで付近には夜泣き地蔵が安置されています。夜泣き地蔵は昔、馬片が荷のバランスが悪く難儀しながらこの地まで来ると、偶然にも地蔵の首が落ちていた為、重りとして利用しました。その後、馬方は容易に荷を運ぶ事が出来、目的地である深谷で荷物を下ろすと地蔵の首も必要がなくなり棄てしましました。すると地蔵の首は口を開き「五料に帰りたいよ~」と毎晩泣き叫ぶようになり、哀れと思った深谷の住民が元々安置されていた五料に運び胴体に乗せたそうです。その後、地蔵は泣く事は無くなり道中の人々の安全を見守っていると伝えられています。

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五料の七不思議が他には何があるか、ちょっと調べただけでは分かりませんでした。

今回は叩く石がなかったのですが、11年前は石で茶釜石を叩いてみました。

11年前のブログより

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その先、坂の頂点に、夜泣き地蔵と茶釜石。茶釜石を、上に置いてある石で叩いてみると、確かに鉄製の茶釜みたいに響きます。

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16:28 高い所にあり、台座も高い石仏
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11年前に撮った、同じ石仏
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16:31 菜の花の中の石仏
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菜の花が咲いている斜面があったので、

(ここに石仏があったら素敵だなあ)

と思ったら、何と!あったので、絵手紙に描きました。
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11年前のブログより

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夕方に山に入っていく雰囲気の道は、ちょっと不安になりますが、行ってみると陽当たりのいい気持ちのいい道で、草に半分埋もれた道祖神を見つけて写真を撮り、気分がハイになりました。

中学生の頃、道祖神を訪ねて写真を撮る旅をしてみたい、と思っていましたが、その夢が、今、実現している!

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16:37 馬頭観世音
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雨がやみ、線路沿いを歩いていると、うっすら妙義山が見えるような、見えないような。
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16:41 碓氷神社
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guntabi.comより

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碓氷神社(安中市)概要: 碓氷神社は群馬県安中市松井田町五料に鎮座している神社です。碓氷神社碓氷神社の創建は不詳ですが碓氷峠に鎮座する熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。鎌倉時代初期の建久年間(1190~1199年)、源頼朝鎌倉幕府初代将軍)が信州に牧狩りを行った祭に当社を参拝したと伝えられ、正徳年間(1288~1293年)には執権北条氏により碓氷郷総鎮守を定められています。南北朝時代に入ると碓氷郷一ノ宮となり広く信仰を広め、江戸時代初期の慶安年間(1648~1652年)に碓氷峠熊野神社の里宮となり社殿を改築し碓氷神社と社号を改称しています。
明治42年(1909)に菅原神社、波古曽神社(波古曽神は妙義山の山の神で、以前は妙義神社や中之嶽神社の主祭神でしたが、現在は合祀神や境内社などに甘んじている例が目立ちます)、諏訪神社八幡宮など周辺の神社を合祀して大正3年(1914)に村社の格式を得ています。拝殿は木造平屋建て、切妻、銅板葺き、平入、桁行4間、張間2間半、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。本殿は覆屋内部の為に不詳。祭神は速玉之男命伊邪那美命事解之男命大山祇命保食神、大日?貴命、建御名方命猿田彦命スサノオ命、火雷神、阿志奈都智命、手奈都智命、誉田別命菅原道真公、埴安姫命、石長姫命、火産霊命。

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碓氷神社の周辺には、二十三夜塔など石塔もたくさんありました。
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ガイド本ではもう少し手前の踏切を渡るのが旧中山道ですが、危険なら高墓踏切を渡るように、と書いてありました。手前の踏切は、現在は渡れないのではないかなあ。ここまで来たから碓氷神社も視ることが出来ました。

16:45 高墓踏切を渡ります。
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16:49 道祖神など
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16:49 男女双体道祖神
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16:51 小山沢交差点
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16:53 百合若大臣の足痕(あしあと)石
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案内板
「 百合若大臣の足痕石

 この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、石の上がへこんだといわれています。
 その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山にむけ「よしあの山の首あたりを射ぬいてみよう」と思いつき、満身の力をこめて射はなった。その時、後足をふんがいたのがこの石と言われています。
 これを見ていた家来の一人も負けづと思い、腰にぶらさげていた弁当のむすびを力一ぱいほうり投げ、山には二つの穴があきました。
 それで今でも二つ穴が、ここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」とよぶようになったと言われています。
 百合若大臣がその時使った弓と矢が妙義神社に奉納されています。 」
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17時のチャイムが、11年前は「イエスタデイ」で夕暮れにぴったり、と思ったのに、今回は「ふるさと」になっていました。


17:13 妙義山が少し見えてきました。
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横川のおぎのやは閉まっていて、釜めしは買えませんでした。


今日は横川駅から帰りましたが、11年前は横川に泊まりました。

11年前のブログより

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横川で泊まれるところを探そうと思っていたけれど、案内所もないし、無理そうなので、バスで軽井沢まで行こうと思い、時間を調べたら、現在17:34で、バスは18:10。

飲み物を買って、上着を着て、うろうろしていたら、「宿泊」と書いてある建物発見。

ダメ元で聞いてみたところ、泊まれることになりました。

横川には泊まれるところがここだけ、という東京屋。

今日の宿泊客は私だけ。

2階の鉄線の間に通され、みすず飴とお茶で一服しました。

風呂の準備が出来、汗を流して、大きな湯船に浸かった時、幸せだなあ、と思いました。

急に来たのに、すばらしい御馳走でした。
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自家製合鴨燻製サラダ、田芹お浸し、こんにゃく田楽、ヤマメ唐揚げトマトソース、おきりこみ(群馬の郷土料理。うどんと野菜の汁物で、甲州ほうとうを思い出しました)、天婦羅(山椒、タラの芽、しめじ、すなっぷえんどう、海老)、煮物(高野豆腐、里芋、椎茸)、香の物、ご飯。

生ビールを2杯飲みました。

今日採ってきたばかりという山椒、タラの芽、芹が美味しかった。

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本日は横川駅着17:15。
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本日の歩数 49,206歩 30.01km

17:21の高崎行きに乗って帰りました。
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高崎駅のトイレで汗と雨で濡れた服を着替え、上州鳥弁当を買って、車内で食べました。
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2度目の中山道7日目の1(横川から坂本宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/25/211454


二度目の中山道六十九次歩き目次1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003



2度目の中山道六十九次歩き6日目の5(松井田宿から新堀へ)

2度目の中山道6日目の 5
3月14日(土)の5


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松井田宿

15:01 松井田町道路元標
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道路元標とは・・・wikipediaの記事はこちら→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%85%83%E6%A8%99


15:01 趣深い旧家
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15:02 まちなかにぎわい広場
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広場の右の端に松井田宿の絵地図看板があります。
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15:07 地蔵堂
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15:09 旧家
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15:10 無料休憩所
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宿場町らしい民家を利用した休憩所で、開いていれば休憩したかってのですのですが、新型コロナウィルスの感染拡大防止措置のためでしょうか。閉まっていました。

「徒然素浪人のSanpoing World」より

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■みなとや・・・安中市松井田町松井田560

 木造2階建ての往時の宿屋で、同時に両替商・質屋・塩を商うこともあったという。明治4年(1871)の大火で建物が焼失した後、築150年超の農家の建物を移築した建物で、現在、300年経っているとされる建物が30余年前廃業し、空き店舗を活用した無料休憩所「お休み処みなとや」として平成19年11月17日にオープンしている。

 ここは、商店街を訪れる人の無料休憩所として、松井田商店連盟が群馬県安中市の助成を受けて整備したもので、旅館の風情が漂う店内には、座敷にお茶が用意された無料休憩所のほか、コーヒー・紅茶・ソフトクリームなどを安く楽しめる喫茶コーナー、地元工芸家の手作り作品の展示販売コーナーなどがあり、商店街の憩いの場になっているという。
 運営には松井田商店連盟と安中市松井田商工会が協力し、営業時間は午前10時から午後3時まで、定休日は月曜日である。

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mapple. netより

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お休み処みなとや (オヤスミドコロミナトヤ)
歴史を感じさせる無料休憩所
30年前に廃業した旅館「港屋」を改装した無料休憩所。明治の初めに建築された建物には、宿場の面影が残る。座敷で休憩ができ、無料の茶が用意されている。

お休み処みなとやの詳細情報
住所
群馬県安中市松井田町松井田560
交通
JR信越本線松井田駅から徒歩15分
営業期間
通年
営業時間
10:00~15:00
休業日
土・日曜(年末年始休)
料金
入場料=無料/コーヒー・紅茶=200円/ソフトクリーム=200円/ランチ=500円/かき氷=200円/

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15:18 公衆トイレがありました。助かります。
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15:18 蔵造りの建物
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15:20 安中市松井田商工会
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洋風デザインの建築に和風の屋根を載せたいわゆる「帝冠様式」の建築だそうです。

元々は1938年に建築された警察署で、同署が移転改築する時、地元が保存の申し出をして商工会館で活用することになったそうです。


15:33 庚申塔
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【松井田城址と一里塚跡】

15:36 松井田城址
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案内板
「 松井田城址
城の位置 松井田町新堀
(松井田市街地の北方の山なみ)

城について
城は東と西の二つの郭から成る。東半は御殿山を中心に安中郭(市指定)と呼び安中忠政が本格的に築城したという。
西半は本丸、馬出し、二の丸の三つの郭から成る。二の丸の北西部に土囲が依存する。自然の尾根を巧みに利用し、無数の堀切りや竪堀りを構築している。北条流の典型的な中世の山城として名高い。

平成二十八年六月
安中市観光協会


15:36 補陀(ふだ)寺
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guntabi.comより

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補陀寺(安中市)概要: 大泉山補陀寺は群馬県安中市松井田町新堀に境内を構えている曹洞宗の寺院です。補陀寺の創建は室町時代の応永年間(1394~1428年)、無極慧徹禅師(肥前国出身、室町時代曹洞宗の高僧)によって開かれたのが始まりと伝えられています。当初は草庵でしたが、無極慧徹禅師が美濃国の大泉山補陀寺の住職時代の弟子で跡を継いだ月江正文(尾張楞厳寺、上野双林寺、武蔵普門院を開山)が、寺号を移した事で正式な寺院となり自らを2世としました。歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、特に武田信玄は元亀3年(1570)に寺領を安堵する朱印状を発布し、天正10年(1582)からは小田原北条氏の有力家臣で北条家三家老とも言われた大道寺政繁が当地に配されると自らの菩提寺としました。
大道寺政繁は武勇に優れ北条家からの信頼も篤かった為、常に最前線を任され領内の中山道の入口に当たる松井田の地を守らせました。政繁は豊臣軍の進撃に備える為、すぐさま松井田城を一大要塞に大改修し補陀寺の境内も城郭に取り込み補陀寺郭と称されました。天正18年(1590)、小田原の役が始まると前哨戦の碓氷峠の戦いで敗退し、政繁は松井田城に1ヶ月にわたり立て籠もりましたが前田利家上杉景勝真田昌幸が率いる35000人の軍勢の前に屈します。

その後、政繁は豊臣軍に従軍し忍城や武蔵松山城鉢形城八王子城攻防戦などに参加し特に八王子城では大功があったものの小田原城が落城し北条家が滅ぶと切腹させられ、松井田城も廃城となります。松井田城落城後、政繁の豊臣軍に対する貢献は非常に高いものでしたが、結果的には切腹になった為、江戸時代に加賀藩前田家の大名行列が通過すると政繁の墓に悔し汗をかくと噂されました(政繁と前田家には密約があったが反古にされ怨まれたとも)。その後、補陀寺は現在地に再興し「関左法窟」(関東一の道場という意味)の額を掲げる程寺運が隆盛し何人もの名僧を輩出しています。

補陀寺総門は切妻、桟瓦葺、一間一戸、高麗門形式。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式。本堂は寛政8年(1796)に再建されたもので木造平屋建て、寄棟、銅板葺、平入、桁行9間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。補陀寺境内には政繁の墓碑と伝わる宝篋印塔が建立されています。山号:大泉山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来准胝観世音菩薩

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山門の「関左法窟」(関東一の道場という意味)の額、素敵ですね。


15:38 分岐左へ
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15:41 道祖神
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15:42 一里塚跡
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案内板
「 一里塚跡(江戸より三十二里目)

この場所は、松井田町大字新堀字漆原一里山といいます。
明治二十年代までこの中山道をはさんで南側と北側に一里塚がありました。
この立札の南方十メートルに南側の一里塚がその跡をとどめています。

平成十二年二月吉日
松井田町教育委員会

11年前のブログより

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2009.4.15.

松井田城址の石垣と、補陀寺の門の写真を撮り…

その先で、道祖神の写真を撮っていたら、地元の方に、「一里塚はここですよ」と声をかけられました。

「立て札はここにあるけど、あの奥にちょっとだけこんもり見えているのが一里塚。昔の4分の1になっちゃったらしいけど」

「家の脇(庭)を通っていっても構いませんよ」と言うということは、ここの家の方なのね。

「そちらの道からも回っていけますよ」

お礼を言って、遠回りの道から回ってみましたが…
裏から見ると、さっきは小さいながらも小高く塚らしく見えたのに、反対側からだと、草ぼうぼうの中に木があるようにしか見えませんでした…

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15:44 中山道道標
←坂本宿6.8km →松井田宿1.5km
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15:44 製糸踏切
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「→中山道(御巡幸道)」の矢印に従って線路沿いの道を右へ。


15:48 第十中仙道踏切を渡ります。
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2度目の中山道6日目の6(五料村から横川駅へ)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/22/221507

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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き6日目の4(間の宿原市から郷原へ)

2度目の中山道6日目の 4
3月14日(土)の4


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【間の宿原市】

12:17 安中市原市の杉並木
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12:19 安政遠足(とおあし)之図
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安政遠足は、映画「サムライマラソン」のモデルです。

こちらは、映画「サムライマラソン」を観たとき、わたしが描いた絵です。
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「越智前社長のおちゃめ日記」より

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杉並木が途切れると旧街道の雰囲気を醸し出している古民家などが目立ちだします。杉並木の入り口付近にある給水塔の壁面に刀を背負った侍達が走っている図が描かれています。

この安政遠足(とおあし)之図は、安政2年(1855年)、安中城主板倉勝明が藩士の鍛錬のために、藩士96人に安中城門から碓氷峠にある熊野権現神社までの約28kmの距離を走らせたのが始まりの『安中藩安政遠足』の様子を描いたものです。走破時間や着順は昭和50年(1955年)に碓氷峠の茶屋で偶然発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』に記されてはいるものの、この安政遠足は走者に意義を持たせることが目的で開催されたもので、順位やタイムは重要視されていませんでした。ゴールした者には餅などが振る舞われた…と記録に残っています。この安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には『安中藩安政遠足の碑』と『日本マラソン発祥の地』の石碑が建てられています。

また、昭和50年からは「安政遠足 侍マラソン」が毎年5月第2日曜日に開催されています。ランナー達は侍など昔ながらの格好に扮装して走るのだそうです。最近は、侍などの昔ながらの格好ではなく、思い思いの仮装で走るランナーが多いのだとか…。この日のスタートポイントだった安中市商工会館の入り口に今年の「安政遠足 侍マラソン」のポスターが貼られていました。

それにしても約28kmの距離を走らせて、ゴールが碓氷峠にある熊野権現神社ですか…。碓氷峠の標高は約960メートル。安中市役所の標高は海抜180メートルほどなので、780メートルを一気に駆け上がるわけです。ちなみに箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)の5区山登りの区間で駆け上がる国道1号線の最高点である箱根峠の標高は874メートル。ほぼ同じくらいの距離と高さを駆け上がるわけです。箱根駅伝との違いは舗装されていないまったくの山道を駆け上がること。そう思うと、この安中藩安政遠足、箱根駅伝名物の山登りの5区以上に過酷な“遠足”です。ちなみに、小学校などで行われた「遠足(えんそく)」の語源も、この安中藩安政遠足なのだそうです。

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12:22 稲荷神社
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正一位稲荷大神が祀られているそうです。


12:44 ココス安中店でランチ
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サイコロステーキを食べました。

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13:05 天然記念物安中原市ノ杉並木碑
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側面 「昭和九年三月建設 文部省」


13:08 双体道祖神
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13:10 原市村戸長役場跡
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旧原市村の戸長役場がそっくり残されているそうです。戸長役場とは、明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。

もともとは碓氷郡原市村でしたが、原市町を経て、今は合併し安中市原市となっています。


【茶屋本陣跡】

13:14 明治天皇原市御小休所跡
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茶屋本陣・高札場跡
明治天皇原市御小休所
案内板
「 説明

明治十一年北陸東海巡幸の際九月五日御小休所となりたる處にして主要部分はよく舊規模を存せり

注意

一、火氣に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せざる事

昭和十三年五月
文部省 」


13:16 石祠
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ご神灯が対で建っています。


13:17 真光寺
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Travel & Portal WEB GUNMA より

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真光寺の鐘 市指定重要文化財安中市

真光寺の鐘は、原市の仁井与惣衛門が真 真光寺に寄進した鐘で、安中藩第12代藩主 板倉勝暁の代に「時の鐘」として許可され、鋳直(いなお)して鐘楼を建て直し、天明元年(1781年)7月2日に撞き始めが行われました。

真光寺は天保3年(1832年)に本堂、鐘楼が焼失しましたが、その後も時の鐘として、男二人を雇い昼夜怠らず時を知らせ続けました。このような由緒から第二次世界大戦においても供出を免れることができ、安中市ではこの鐘と、板鼻の称名寺の鐘、下秋間の桂昌寺の鐘の3つが供出を免れています。

真光寺の鐘(時の鐘)は、現在、お堂の傍らに建っていますが、かつては中山道からの入口すぐ東側にありました。

■参考資料:安中市教育委員会資料

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真光寺の左に写っている塔は、プロテスタントの原市教会です。


13:18 黒い蔵
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13:21 丸太道標 ←松井田宿5.4km
→安中宿 3.7km
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【八本木地蔵堂

13:31 八本木地蔵堂
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案内板
「 説明

八本木地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、頭は円頂(削った坊主頭)で、体には袈裟と衣を着用し、不通の僧侶の姿をしている。秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、霊験あらたかで日本三地蔵の一つであるといわれている。
様式は田舎造りで素朴の中に威厳と気品をそなえ、頭頂が扁平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。 」

日本三地蔵は諸説あり、京都壬生寺の「縄目地蔵菩薩」、伊賀壬生野村の「延命地蔵菩薩」、滋賀県長浜市の「木之本地蔵院」、東京巣鴨高岩寺とげぬき地蔵」、静岡県沼津市「平作地蔵」などか挙げられています。

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案内板
安中市指定重要文化財 八本木延命地蔵尊縁起

 当地蔵堂の御本尊延命地蔵菩薩像は、大永五年(1,525)松井田小屋城主安中忠清 が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かっての故郷越後国新発田より、近戸明神、米山薬師と共に城の守護仏として勧請したと伝えられている。
 像は木像寄木造りで総高一、一五米、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。霊験灼かな秘仏として百年に一度御開帳される。
 なお日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つとして善男善女の崇敬を集めた。特に江戸時代、高崎城第二代城主酒井家次(慶長九年~元和三年)は、この地蔵菩薩に深く帰依した。ある夜夢のお告げにより、御堂を改築、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し信仰を怠らなかった。
 参勤交代の為中山道を往来の諸大名も、下乗下馬(騎乗のまゝ通れば仏罰により落馬するという)して参詣したと伝えられる。
 御利益は除厄消災、子育安産、延命招福その他私たちの諸々の願望を叶えて下さる有難いお地蔵さまである。

上州原市八本木
延命地蔵尊奉讃会 」

聖徳太子孝養の像
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案内板(印刷物)
聖徳太子孝養の像
所在地 八本木地蔵堂境内

要約 地蔵像と誤解されてヨダレカケが奉納され、首にかけられていることが多いが、まぎれもない聖徳太子孝養像で、手に墨壺を持った優品である。全高二メートル九十五センチ(台石百七十五センチ、像高九十三センチ)、立像で、後ろ、上段には、『天保六年歳次末冬11月、信州伊那石工講中、満福寺現住俊澄代』と三行に記され、その一段下の左、右、後の3面に合計五十二名(内一名は名前の部分がかけて不明)の講中の氏名が刻まれている。講元には、『前橋本町、宮下政吉、野口、北原市五郎、安中伝馬町、伊藤弥右衛門・・』と続いているが、伊藤弥右衛門は『館の百体馬頭観世音』の主尊に刻まれている石工と同一人物であり、この伊那石工講中をまとめ、この地に孝養の像を建てさせた人と考えることができる。講中として刻まれた人物で西上州の住所となっている者は『伝馬町伊藤嘉吉、磯部堀口直次郎、高梨子国太郎、中後閑佐五郎、藤塚鍛冶屋與六、高崎新田町相沢小右衛門』の六名がある。弥右衛門と嘉吉との関係についてはわからないが伝馬町に二人の石工がいることは無関係ではないと考えられる。

解説 聖徳太子は、法隆寺建立など寺院建築史上でも大きな存在だったところから、建築関係の職人の信仰対象となり、職人たちの守護神として早くから崇められるようになり、『太子講』と呼ばれる祭り一月(二月)、八月(七月、九月)の二十日前後にもてれ、各地に太子像が作られた。太子像は二歳の南無太子像、十六歳の孝養像、壮年期の摂政太子像などがある。八本木の孝養像を建立した伊那石工講中がどのように結成されたかは一切不明であるが、江戸時代末に、上州各地で活躍した高遠石工仲間たちの結束と、信仰の深沢示す資料としても貴重なものである。

安中市文化財編より
八本木延命地蔵尊奉賛会 」

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案内板(印刷物)
地蔵堂便り3
安中最古の庚申石祠
寛永二年(1625)造立

庚申信仰の由来

庚申信仰はその源を中国の道教に由来する。六十日に一度巡ってくる庚申の日に、人間の身中に住む三尸虫が、深夜ひそかに就寝中の体内より抜け出して、天帝(北斗星)にその人の罪を告げる。天帝はそれを記録し、罪の軽重により寿命を決定するといわれる。この信仰は平安時代には既に守庚申として宮廷貴族に伝えられ、鎌倉・室町時代には武士階級に庚申待として広まった。更に江戸時代には農業神とも結びついて、各地に庚申講が結ばれ、庚申の夜、身を清め宿の家で大盛の飯を食べ徹夜して三尸虫の出るのを監視した。
更に庚申信仰は佛教と習合しては『青面金剛尊を本地佛』とし、神道と結びついては『猿田彦命を主神』として、各講単位に庚申供養塔や庚申祠が造立された。これらの塔には、一猿、二猿、三猿、他にも日月や鶏の像が刻まれることが多い。なお、縊死祠の屋根に鬼面の刻まれるものは特にふるいとされる。庚申講の習俗は、今も各地に残されている。

平成三年六月
小坂橋良平氏資料より転記する 浦野 」

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立て札
「 安中最古
庚申石祠
寛永二年(一六二五)建立 」

境内には他にも、石仏石塔群がありました。
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13:35 道祖神
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13:48 道祖神と石祠
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道祖神は明和九年(1772)建立


郷原 日枝神社・自性寺】

13:56 村社日枝神社

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咲前(さきさき)神社のリンクより

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日枝神社(ひえじんじゃ)

日枝神社

鎮座地
郷原2804番地

主祭神
大山咋命建御名方命大山祇命

創建
応永4年(1397)

祭典日
春祭 4月10日
夏越大祓 7月31日
秋祭 10月10日
大歳参り 12月31日

日枝神社
芸能
楽殿が毎年九月十九日に例祭が行われ、「花神楽」を奉納するのが旧例であった。尚、『自性寺文書』に文久二年(一八六二)、明治二年(一八六九)に太々神楽奉納の記録がある。

『安中志』
 「山王大権現 一村鎮守 祭神 大物主神 御朱印四拾壱石余一、 例祭九月十九日 花神楽興行 自性寺 一、日枝山王上七社の内第一の社、大宮は祭神大国主命にませは其大宮をうつし成へし。」

由緒
 当社は、安中市西部に位置する郷原の鎮守で、旧号「山王大権現」と称し、かつては一体であった旧別当職、真言宗豊山派 自性寺と隣接して鎮座する。
 慶安二年(一六四九)徳川家光より御朱印四一石八斗の奉納を受けた。
また神仏習合の頃は、境内で護摩祈祷などを行った模様である。また山王権現のお使いが猿であることから、延宝八年(一六八○)の庚申燈籠を始め供養塔、青面金剛碑などの石造物がある。
 本殿は、山門のように正面に配置されているのは拝殿で、神楽殿も兼ねた物である。元禄十年(一六九七)建立で棟札に大工三左衛門尉とある。
 また、大正二年(一九一三)には大規模な社殿修理が氏子総出でなされた。
 一の鳥居は、明治二八年(一八九五)『古社調』に山王鳥居の図が見える。平成十年(一九九八)御鎮座六○○年記念の石鳥居が氏子一同により奉納された。二の鳥居は元文元年(一七三六)の物である。

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境内も広く立派な神社で、トイレをお借りしました。

14:05 自性寺
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Travel & Portal WEB GUNMAより

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郷原自性寺

郷原自性寺は、真言宗豊山派の寺で、国道18号線と平行する中山道の北側にあります。自性寺の開基は不詳ながら一説に保延元年(1134年)開創とする寺伝があり、本尊に大日如来を祀っています。

郷原自性寺の宝篋印塔は、安中市の市指定重要文化財

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郷原のフィールド】


14:09 中山道丸太道標と道祖神・百番供養塔
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中山道丸太道標
松井田宿3.4km →安中宿5.7km

道祖神は、安永三年(1774)建立


この先、新しい道が出来て、そっちを歩いてしまったらしく、ガイド本にあった道祖神や一里塚を見ることが出来ませんでした。


14:23 分岐 右の下り坂へ
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ひとっこひとりいない静かな道。

14:27 突き当たって左へ。
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ドラクエのフィールドみたいで楽しい。
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14:35 道路の下を潜ります。雨の日は、一瞬でも傘をささなくていい場所はほっとします。ガイド本を見直したりも出来ます。
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突き当たって右へ。
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14:38 Y字は右へ。
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14:38 石仏石塔群
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14:51 庚申塔
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2度目の中山道6日目の5(松井田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/22/095350



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き6日目の3(安中宿)

2度目の中山道6日目の 3
3月14日(土)の3

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【安中宿】

11:34 安中宿下ノ木戸跡
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11:37 安中宿本陣跡(安中郵便局敷地内にる)
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11年前に初めての中山道を歩いたときには、旧中山道より一本北の道、大名小路を歩きました。

11年前のブログより

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2009.4.15.

東海道ウォーキングの時は、なるべく旧東海道を歩くことにこだわりましたが、今度の中山道ウォーキングは、かなり柔軟に行こう、と決めているので、伝馬町交差点で曲がって一本脇の大名小路を歩きました。

碓氷郡役所、垂れ桜がきれいな安中教会、そして有料公開されている郡奉行役宅と武家長屋を見学。郡奉行役宅の管理人さんから、「男部屋」の説明と、この近所に、この家で生まれ育ったお嬢さんが90何歳で元気でおられて、当時の暮らしについて話してくれたことを二、三、聞きました。

まず、男部屋と言うのは、当時まだ暗い早朝に出勤してきて、薪割りをして竈に火を起こしたり、井戸水を汲んで湯を沸かし、夜遅くまで働いては家に帰る通いの男の人がいて、その人は、土間より上には上がってはいけない決まりになっていたため、疲れて休みたいときに、ちょっと腰掛けるだけの板の間のスペースをもらっていて、それを男部屋と言います。覗いてみると、横になるほどの長さはなく、本当に腰掛けるだけ。

また、この家のお嬢さんは、自分で足袋を履いたことがないそうです。朝、起きれば、使用人の女性が足袋を履かせてくれる。しかし、そんなお嬢様がとにかく辛かったのは、寒い時期の湯殿。当時は湯船はなく、沸かしたお湯をかけてもらうだけだったそうですが、実際見学してみてなるほど、と思いましたが、板の壁は隙間だらけ。特に上下に隙間がある。昔のシャワーは命がけだったんですね。

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11:42 青柳質店
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11:43 ギャラリー米庄 温故知新館
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米庄商店の米貯蔵庫をギャラリーに使っているようです。


11:48 清水商会 サカウエ薬局
蔵造りの商家
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11:56 株式会社有田屋・便覧舎跡
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株式会社 有田屋ホームページより

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江戸時代,中山道の宿場町として栄え、山紫水明の郷として知られる上州安中。美しい山々と清らかな水が流れる川が私たちにもたらしてくれたのは、醤油づくりに適した上州の豊かな風土と天の恵みでした。

有田屋は、天保三年(1832年)、上州安中の地に創業いたしました。以来180余年もの間、昔ながらの天然醸造の製法にこだわった醤油を作り続けています。語り継がれる味、そして語り継がれてゆく味。伝統の味を守りつつ新しい試みを繰り返しながら、「ありのまま」の醤油の味わいを今に伝えています。

日本人の心の味、醤油の真の味わいを守ってゆきたいと願って、今日も努力を重ねています。

有田屋 当主

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便覧舎跡

安中市ホームページより

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湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。便覧舎は無料で利用でき、自由な閲覧が可能。人々は一心不乱に本を読み、新しい思想を身につけようとしました。これが民間人が創設した最初の図書館です。その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼してしまい、現在はその存在を示す「碑」があるだけとなっています。

石碑
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【右側面】
湯浅治郎設立 日本最初の図書館と云われる東京書籍館の創立と同年なり 図書三千余無料で自由に閲覧させた
【正面】
便覧舎址
【左側面】
明治五年(一八七二)建設
明治廿年(一八八七)焼失

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案内板
「 便覧舎

明治5年(1872)、有田屋3代目当主の湯浅治郎が 日本で初めて設立した私設図書館。蔵書は、和、漢、 洋に亘り3000冊、誰でも自由に無料で閲覧できた。 又、同志社大学設立者の新島襄先生より感化を受けた 男 16名、女14名の人々がキリスト教の洗礼を受け、 安中教会設立の原動力となったのもこの場所である。 明治20年(1887)の大火で建物は消失し、現在は碑 が残るのみである。

株式会社 有田屋 」


11:59 愛宕神社
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古今東西御朱印と散策」より

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歴史・沿革

 当社は火防守護の神として信仰され、また夏祭には旧中仙道に露店が立ち並び、安中ひな市と並び賑やかである。また祭りに雨が降っても火伏せの神であるので、却って喜ばれるものである。

 境内はかつて古墳であった所で『安中志』には「永禄二己未年(1559年)谷間なりしを土をならして家をたつ故に谷津村となづけしとなん。 愛宕大権現 祭神伊弉冊尊迦遇突智命 本地仏将軍地蔵菩薩。 一、例祭 正月 六月廿四日」と記されている。

 創建の由来は、江戸時代末期の弘化二年(1845年)の手水鉢、御神徳奉賛額の大山融斎撰文に依ると、元禄年間(1688-1704)に祠を祀り柳沢豊昵の夢告によって手水鉢を奉納したとある。『旧市史』の記事では、文武天皇の頃、又醍醐天皇の延喜の御代に霊地として信仰を受けたとある。旧別当は本山派修験の千寿院で裏の墓地にその面影を残している。また境内は、かつて古墳(愛宕神社古墳 円墳? 現状50m、高さ3m )であったとされ歴史を偲ばせる所である。

 明治時代の神社合併の際、当社を熊野神社に合祀しようしたが、当社は、火の神、熊野神社末社諏訪社は水の神であるから宜しくないという事で合併しなかったと云う逸話が伝えられている。水利に不便な町中では特に火災が一番心配な事であるから、火伏せの信仰は現代も脈々と続いている。
愛宕神社由緒書より)

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11:59 常夜燈
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12:00 大島酒店
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間口が広く蔵があります。


12:09 新島譲旧宅入口
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安中市ホームページより

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新島譲旧宅

新島襄は、天保14年(1843年)、安中藩士の子として江戸・神田に生まれました。21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ帰郷し、キリスト教を伝道しました。その後、神戸から京都へ向かい、同志社英学校を設立し、47歳でこの世を去りました。ここでは、その遺品や関係書類、写真などを展示しています。ぜひ、お出かけください。

「 新島 襄」について
安中市は、「文教のまち」として知られています。これは、江戸時代の安中藩主板倉勝明侯によって基礎が築かれました。
新島襄は、この勝明侯の感化を受けましたが、新島襄自身も安中にキリスト教の教えを伝えるなど、安中の文化に多大の影響を残しました。新島襄の影響を受けた安中の文化人には、湯浅治郎、湯浅半月、海老名弾正、柏木義円、千木良昌庵などがいます。また、碓氷社でも社員教育キリスト教の教えを採用していました。

新島襄は、明治7年(1874)11月29日に、この家で元治元年(1864)以来十年ぶりに父母姉妹と再会しました。ここは新島襄が、まさに十年間にわたるアメリカでの苦学を活かして日本での活動を始める第一歩となったところです。
その後、新島襄は、京都に同志社英学校を設立してキリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で亡くなりました。

その後、昭和38年に安中市はこの新島襄の旧宅を移築し、その遺品や関係書類及び写真等を収集して展示する施設を造り、昭和39年に開館しました。ここを訪れる人々が新島襄の事績を偲ぶとともに、その精神を受け継いでいくことを念願いたします。

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12:09 道祖神 弘化四年(1847)建立
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2度目の中山道6日目の4(間の宿原市から郷原)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/22/044121


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き6日目の2(板鼻宿)

2度目の中山道6日目の2
3月14日(土)の2


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安中市 寒念仏橋供養塔】

10:00 寒念仏橋供養塔
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案内板
「 寒念仏橋供養塔

安中市指定史跡
昭和五二年一二月二二日指定

板鼻宿の念仏講中が寒念仏供者で得た報謝金を蓄積し、享保七年(一七三ニ)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。
その後年月を重ねて破損したので、享和二年(一八〇二)板鼻宿の木嶋七郎左衛門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に遺したものである。地元ではこの石橋を『かねつ橋』と呼んでいる。

正面
「坂東
秩父
西国 橋供養 」
右側面
「享和二年壬戌春三月
木嶋七郎左衛門毘頼」
左側面
「奉若先考遺命夙夜欽念不敢廃肆須石于
問埜爱建斯橋煙享既往攸詣関西既山東
佛陀於橋上永祷行渡聊立石記歳月」
裏面
「 信州伊奈郡福嶋村
石エ
三澤染右衛門吉徳 」

この塔が建てられた直後に、中山道を旅した太田南畝、別名野山人がその著『壬戌紀行』の中で、『板鼻川の橋を渡れば板鼻の駅 むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり、新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といえる石たてり。げに累々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道十六号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いにあったのをわずかに現在地に移動したものである。

安中市教育委員会


供養塔の左側面の二行目の後半「 詣関西既山東之」の後ろから四文字目は、此処では「既」 と書いてありますが、変換できなかっとので暫定的に「既」としてありますが、左側面に刻まれている文字は「既」ではなく、「既」の下側に「旦」という字です。上が「既」下が「旦」という、一文字です。


10:08 板鼻下町交差点
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ここから斜め右に入ります。

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分岐の先、整地された空き地。これからここに何か出来るのでしょうか。

その先の分岐を左へ。右への道はガイド本にはない道です。
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10:12 中山道道標
板鼻宿0.5km →高崎宿5.6km
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10:14 石仏石塔群
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案内板
「 双体道祖神

双体道祖神は寛政4年(1792年)のもので祝言形(夫婦和合)です。台座には、『当駅より京へ107里3丁、江戸へ21里半丁、日光へ37里、善光寺へ37里、榛名山へ5里、妙義山へ4里半、加州金沢へ92里半』と旅程が刻まれています。 」


10:16 石仏石塔群 庚申塔と地蔵様
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10:20 「榛名道道標」
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正面「やはたみち」
南面「はるな くさつ いかほ ***み」

「***」は読めません。


板鼻宿

10:23 板鼻館
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板鼻館の消火器
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食べログ掲載のお店のPRより

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登録商標

創業以来百有余年の歴史を誇る板鼻館のカツ丼、平成生まれのタルタルカツ丼を是非ともご堪能下さい。

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この先右側、木島本陣跡があるはずなのですが、コロナ禍で閉まっていたから気づかなかったのか、どこかわからないまま通りすぎてしまいました。

11年前のブログより

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公民館が本陣跡で、奥の資料館にここに宿泊した皇女和宮についての展示がありました。資料館は無料で見られますが、声をかけて鍵を開けてもらいます。昔の書院を資料館として使っています。

和宮の下向ルートはほぼ中山道でしたが、花嫁道具の輸送ルートは東海道だったことが、資料で分かりました。

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10:29 八坂神社の双体道祖神
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案内板
「 八坂神社の双体道祖神

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この双体道祖神祝言形(夫婦和合) です。子宝祈願・安産祈願の碑で、男は盃、女は徳利(とっくり)を持ち、仲睦まじく肩を寄せ合っています。 」

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双体道祖神の隣には猿田彦や○○金剛が並んでいます。下の写真の左の木造の社のようなものは、神輿の収納庫です。
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板鼻宿外れから安中宿への道】

10:37 鷹巣神社
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案内板
鷹巣神社

鷹巣神社は鷹巣山の崖の上に鎮座する板鼻の総鎮守です。明治後期に、板鼻宿のほとんどの神社を合祀しました。現在は門と石宮が現存しています。 」


10:39 鷹之巣橋(碓氷川)を渡りました。
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鷹之巣橋を渡る手前右の方に板鼻宿渡し場跡があるそうです。(11年前は見たのですが、今回は渡し場跡を見ませんでした。)

10:45 中宿歩道橋を渡って右へ。
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10:54 庚申塔道標 享和二年(1802)の建立
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「従是一宮大日街道」

10:59 中仙道道標を右へ
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11:01 中山道道標
←安中宿1.2km →板鼻宿1.2km
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その向かい合わせに

道祖神・蠶養神(養蚕の守護神)
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11:02 馬頭観音 寛政十年(1798)建立
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三面六臂(顔が三つ腕が六本)馬頭観音

11年前は、多分この辺りだと思うのですが、安中駅付近の工場が見えたのですが、今回は見えませんでした。

11年前のブログより

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板鼻宿を抜け、碓氷の渡し場跡を左折して高之巣橋を渡り、その先、右折して小さい橋を渡ると、遠くにハウルの動く城みたいな要塞のような物が見えました。安中の亜鉛精錬工場だそうです。

Y字の右側の静かな道を行くと、道祖神が点在する辺りを左へ右へと曲がり、国道に合流するとやがて久芳橋で、ちょうど正午の時報がウ〜ウ〜と鳴り響きました。

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11:09 ひさよしはし(久芳橋 碓氷川)
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11:13 下野尻歩道橋
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斜め左の安中市街方面へ。
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2度目の中山道6日目の3(安中宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/21/152700

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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き6日目の1(高崎宿)

2度目の中山道6日目の 1
2020年3月14日(土)の1 一日雨


【高崎宿】

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6:00 起床

6:30 バイキング朝食

7:30少し前にチェックアウト

既に雨が降ってきました。

一日雨でした。

東京近辺では雪が降ったそうです。

私は高崎から安中〜松井田〜横川と29キロ強を歩きましたが、南関東よりも2〜3度低い予報なので、雪か霙に降られるかも、と覚悟していたのに、一日雨でした。

新型コロナウィルスの影響で、あちこちの施設が休館していました。

7:33 高崎駅
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7:39 あら町交差点
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道の左側を歩きました。

7:45 連雀町の由来
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案内板
連雀町の由来

連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。

 高崎の散歩道より  」

7:50 田町絹市場由来
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案内板
「 絹市場の由来
 高崎生絹大織売買所は通称『絹市場』と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
 高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、『お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと』と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。 」


7:55 本町三丁目(左折)
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7:56 黒の蔵つくり商家(山田家)
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高崎市景観重要文化財 山田家(旧山源漆器店)

高崎市ホームページより

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山田家(旧山源漆器店)


所在地:本町

この山田家のある本町地区は、明治13年の大火により町家の大半が焼失した。その後、この一帯の町家は防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きに変貌するが、この店蔵と主屋もその頃建て替えられたものと思われる。
その後、昭和37年、都市計画道路の整備に伴い多くの建物が建て替えられ、土蔵造りの店蔵が失われていったが、そんな中でこの山田家は、曳き屋をして残された数少ない例といえる。
北側の通りに向かって熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そして漆喰で仕上げられ、更に黒く塗られた外壁を持つこの店蔵は、重厚感にあふれ、通行する人々が思わず足を止める程、印象深いファザードをつくっている。
関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物は、高崎市にはこの山田家以外にはなく、その意味で高崎市民は大変貴重な歴史的遺産を有しているということができる。(※原則として非公開)

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8:03 本町一丁目 ここから道路幅が狭くなります。
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赤坂通り

この、道幅が狭くなった辺り、上り坂になりますが、赤坂通りというそうです。

11年前のブログより

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2009.4.15.

道は赤坂通りと呼ばれる細い坂道へと入ります。高崎は昔は赤坂と呼ばれ、その後、和田と改名され、慶長三年、井伊直政が築城の際に高崎と改名したそうです。

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8:07 長松寺
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城彩 jyo-sai.comより

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高崎城跡の北側に、高崎城の移築書院がある長松寺があります。この書院は1730年頃、高崎城本丸の改築に伴い不要となった建物をこちらに移築したそうです。ここは、二代将軍秀忠の次男で三代将軍家光の実弟の徳川忠長が自刃した間と伝わります。

長松寺は1507年に臨済宗の嶽應元海が現在の末広町北部に創立しました。当寺はその後衰退してしまいますが、1624年に興禅寺の虎谷春喜が曹洞宗に改め現在の地に開山します。本堂、衆寮、山門、鐘楼、薬師堂(和田薬師)がある立派な寺でしたが、1726年に全焼してしまいます。現在の本堂は1789年に再建されたものです。

長松寺に入ると、本堂の入り口の上(お賽銭箱の上)には、風化して古そうな立派な天女が描かれていました。これが狩野探雲により描かれた、「向拝天井絵 天女」(高崎市市指定重要文化財)です
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画像は城彩jyo-sai.comより

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【岡醤油醸造

8:09 岡醤油醸造株式会社
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ニホンイチしょうゆ 岡直三郎商店ホームページより

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ご案内

弊店は、天明七年(1787)近江商人 初代 岡忠兵衛が、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのが始まりです。
明治30年(1897)四代・宗一郎が群馬県高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設。以来「ヒキソーイチ」の名で、地元の皆様に親しまれてまいりました。また、映画のロケ地としても幾度か弊店の建物や工場煙突を使用されております。
現在も、明治期の建物を大切に守りながら、伝承の製法で造る木桶仕込み・天然醸造醤油の販売をしております。お土産対応、ギフト包装、また全国発送なども承っております。
市内旧中山道散策のついでにも、是非お立ち寄りください。

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案内板
「 岡醤油醸造の事務所と煙突

 岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
 中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
 裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。  」
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【山田文庫と美峰酒類

8:11 山田文庫
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3月4日から、新型コロナウィルスのため休館中でした。
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We love 群馬(群馬の情報サイト)より

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2019年7月21日
《地域に愛される山田文庫は歴史的にも価値ある私設図書館だった》

[歴史的価値の高い山田文庫とは]

歴史的な建造物を高崎市民に引き継いでほしいという思いから、群馬県高崎市では歴史的景観建造物登録制度を設け、保全のための支援を行っています。

地区50年以上の建物で所有者が活用・保全する意思があり、老朽化がひどくないものそして景観が良いもの等が登録の対象となっていています。

じつは、今回ご紹介する山田文庫の主屋、茶室、土蔵2棟、そして煉瓦塀の建物が2000年に高崎市都市景観重要建築物等に指定されているんですよ。

赤レンガの壁に囲まれた敷地内の日本家屋を改造し作られた和風図書館は見るからに歴史が感じられます。

庭園には40種類100本、月桂樹や黒松、檜などが植えられ灯篭6基と調和しています。

[山田文庫の歴史とは]

1974年、高崎倉庫の取締役だった山田勝次郎さんと妻の山田とくさんが群馬県内の小中高校生に読書に親しみをもって欲しいという思いから私財を投じて山田文庫を設立しました。

創立者の山田勝次郎・とく夫妻は子供の頃からとても読書好きだったそうですよ。

そんな山田夫妻の思いを受け継ぎ、現在山田文庫では財団のスタッフやボランティアの方が子供達の情操教育につながればと本の管理や茶室での絵本読み聞かせなども行っています。

山田文庫自体が図書館となり図書の貸し出しを行う他、県内の小中高等学校の学校図書や視聴覚資料の助成を行っています。

山田文庫に私財を投じた勝次郎さんと妻とくさんの略歴は下記山田文庫HPよりご覧になれますよ。

山田文庫公式HP:http://www.yamadabunko.or.jp/

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8:14 美峰酒類 レンガ塀
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高崎新聞web newsより

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美峰酒類株式会社レンガ倉庫

山田文庫と隣接する赤レンガ倉庫は、美峰酒類株式会社の倉庫。外観はレンガ造りに見えるが、実際は柱・梁の構造で、外にレンガ壁を巡らせたもの。上部が段々に迫り出し、屋根を支える軒蛇腹を巡らせるレンガ造りの意匠が施されている。

明治26年に、蝋山政右衛門、政次郎父子が新潟から移り「蝋山酒造」として酒造りを開始。しかし、第二次世界大戦中の食糧難で、サツマイモからアルコールを取るようになり、現在の美峰酒類㈱に移管された。高崎が生んだ議会政治家であり政治学者の蝋山政道は、この政次郎の長男。そして、次男は勝次郎で、明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉の娘とくとの結婚によって山田姓を名乗る。自身は優秀な農業経済学者であった。義父の急逝によって高崎倉庫㈱社長に就任。弟で三男の長四郎は、松井田の小山家の養子になり、旧美峰酒類㈱の社長を務めた。

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8:21 並榎(なみえ)町坂下公民館
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この先、烏川のかかる君が代橋に向かう、歩行者のルートが分かりづらかったのですが、たまたま向こう側から自転車が走ってきて、向かうべきルートが分かりました。
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左の方の横断歩道をわたって、白い柱の右側を向こうに進みます。


【烏川の君が代橋

8:26 烏川君が代橋
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君が代橋から見た烏川に鷺がいました。
君が代橋という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたそうです。 

橋の渡り詰めで、本当は地下道から道路の向こう側の脇道に入るのですが、間違えて脇道に入らずに国道406号線を進んでしまいました。

多分右側に渡って、あの先に進めば国道406号に入れると思ったら、その通り、うまくいきました。
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この付近、11年前歩いた時とかなり印象が違います。ガイド本が違うので、歩いている道自体が違うのか、11年の間に町や道の印象が変わってしまったのか。

11年前のブログより

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200メートルほどサイクリングロードを歩き、新しい君が代橋国道18号線と合流すると、左奥に高崎観音が小さく見え、前には妙義山が見えました。今日はずっと妙義山を見ながら歩きました。

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髙崎観音堂が見えなかったのは残念です。天気が悪いので妙義山が見えないのは仕方ありません。


高崎だるま

8:33 高崎だるまの店
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高崎市ホームページより

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そうだったんだ高崎だるま


鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。

本市では豊岡地域を中心に「高崎だるま」の伝統が受け継がれています。日本の吉祥である鶴と亀が顔に描かれていることから「縁起だるま」「福だるま」とも呼ばれている高崎だるま
平成5年には、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。
また平成18年には、特許庁が創設した地域団体商標制度で県内初となる商標登録を受けています。

高崎のだるまは、旧豊岡村が1955年に高崎市と合併するまでのおよそ140年の間、豊岡だるまと呼ばれていました。現在は「高崎だるま」として商標登録を行い、全国にその名が知られています。


高崎だるまの歴史

高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。

稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。
1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。

徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。


病気除けとしてのだるま

だるまの広まりは、江戸で疱瘡(天然痘)という病気が流行したことに由来します。当時の庶民は病を恐れ、しばしば願掛けを行っていました。赤いものが邪気を払うと信じられていたため、赤く塗られただるまが疱瘡除けとして求められるようになりました。流行時には、子どもの枕元などに置かれていたと言われています。

その後、疱瘡の予防法が発見されたことで、江戸のだるまは姿を消していきました。


七転び八起き、縁起がいい顔の福だるま

形全体が丸みを帯びて、ふくよかな感じのする高崎だるま。その特徴は、眉毛は鶴、髭は亀を表現しています。日本では「鶴は千年、亀は万年」と言われ、吉祥・長寿の動物に例えられます。その縁起の良さから昔から高崎だるまは多くの人に親しまれてきました。
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お腹には「福入」、両肩には「家内安全、商売繁盛、大願成就、目標達成」などの願いを込めて金文字が書かれています。文字が書かれているだるまは全国的に見ても珍しいものです。

また、「七転び八起き」と言われ、いくら転がしてもすぐに起き上がります。重心が安定した形は心の持ち方を示し、どんな困難にも対処できる落ち着いた心と忍耐力を表しています。

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8:34 石神社
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道の反対側からの写真で、案内板は読めませんので、探してきました。

案内板
「 下豊岡の石神社

 古代の人々は、大自然の力に対しその偉大さに恐怖心さえ抱き、これを鎮めるために神として仰ぎました。この神社は、石を神として崇拝することから起った石神信仰の一つです。
 石神社は音で読むと「しゃくじん」であり、これが訛って「しゃくじ」となり、ここ豊岡の小字「尺地」の由来と言われます。(他に、碓氷峠から中山道の里程を、尺縄を使って測っていたところ、尺縄がこの地でボロボロにすり切れてしまったので、それを万日堂で拝んでもらい、石神社に祀ったことから「尺地」との説もあります)
 境内に、安永元年(一七七二)と刻まれた石宮や、明和九年(一七六四)の道祖神があります。昔は社殿にシャモジを寄進して家内安全を祈願しました。神仏習合の江戸時代には不動寺の境内にありました。 」


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下豊岡バス停を目印に左斜めに入るのですが、間違えて手前の下豊岡町西交差点で左斜めに入ってしまい、旧中山道と平行に走る一本化南側の道を暫く歩きました。

全く目印が見つからないけれど、バス停か板鼻、安中行きで、方向は合っているので、とにかく進みました。

雨で、雨宿りできる屋根のある場所がなかなかなくて、立ち止まって現在地を確認出来ないので、こういう時、雨は辛い。

交差点が見えてきて、多分あそこで旧中山道と合流すると思い、交差点よりもてまえで右に曲がって、旧中山道と合流しました。

この、今回間違って歩いてしまった辺りに、豊岡の茶屋本陣跡があったのです。今回は見そびれてしまったのですが、11年前のブログでは・・・

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豊岡の茶屋本陣は無料で見学できました。

茶屋本陣は泊まれないので狭いのですが、大名が休憩する上段の間は、東海道で見た本陣より装飾が立派でした。

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【湯沢のお地蔵様 ・ 金ヶ崎不動尊

8:55 湯沢のお地蔵さま
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案内板
「 湯沢のお地蔵様

左の『お地蔵様』は、
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宝暦三年(一七五三)に茶屋本陣の飯野家より建立され、風雨で損傷したため安政三年(一八五六)に再建されました。戦時中召集令状が発布されると、交付された者は必ず地蔵様をお参りし出征するのがこの地域のならわしで、その結果、地蔵様のご利益で全員が無事ご帰還されたそうです。現在も、地域有志により、八月二十四日に例祭として縁日が行われ、提燈・行燈が灯され、祭が継承されています。
中央の『如意輪観音』は、
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女性特有の病気平癒の願掛けと結び付いた女人講として造立。八月二十三日に香花を供えて祭られます。灯してまだ燃えきらない蝋燭を妊婦が貰い受け、お産の時に家で灯し安産を願うと、蝋燭が燃えきらないうちに無事出産するという伝えがあります。
右側の『二十二夜塔』は
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月待信仰のもので八月二十二日に縁日が行われます。」

8:59 金ヶ崎不動尊
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案内板
「 金ヶ崎不動尊

 この堂は、豊岡の茶屋本陣(東へ約300m)の飯野家が所有する広大な土地の鬼門(北東の方位)に当る、乗附村金ヶ崎に方位除けとして祀ったものですが、明治四十三年の大水害で流されてしまいました。そこで、飯野家所有の現在地に建てられました。本尊は木彫りで漆喰仕上げの不動様で、背の後に今もって鮮やかな色の大火焔があります。
 お堂は、昭和天皇即位の頃に建て替えられたときは、顔を洗うことにも使っていた清流が中山道沿いに流れていたので、北向きで中山道に面していました。昭和三十三年に改築の時に南向きに変えました。地元の人々によって、三月と九月の二十七日の夕方から二十八日まで縁日としてお祭りが行なわれています。不動明王は怒りの姿で悪魔を恐れさせ、悪魔から守護してくれると信仰されています。この不動様のおかげで、この地区には火災がないといわれています。 」

金ヶ崎不動尊の境内には、庚申塔道祖神もありました。
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9:05 水準点
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9:05 馬頭観音(国道18号線との交差点付近)
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もう大分前からトイレに行きたくて、中山道を外れて裏の方にトイレを探しに行きましたが、見つからず。


浅間神社富士山・藤塚の一里塚跡】

9:17 浅間神社富士山
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案内板
浅間神社富士山

 中山道の一里塚の向い側に建つこの神社は、富士山を神格化した富士山信仰の神社で、静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間神社が総本山の末社です。
 浅間さまは、坂上田村麻呂が勧請したと伝えられることから、田村麻呂伝説が多い東国のこの地でも信仰されて来たのではないかと思われます。祭神は木花咲夜姫で、祭礼日は七月十四日です。
 旅人たちが休憩する場所となっていた中山道二十八番目の一里塚が、八幡村豊岡村の村境に位置していました。そのため、村人らが分担して清掃を行ない、一里塚を大切にすることに役立っていたと思われます。
 当社は八幡村分の藤塚が祀り、南側の八坂神社は豊岡村分の下藤塚が祀るのが慣例になっていました。 」


道の反対側に一里塚(藤塚の一里塚)
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高崎市ホームページより

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高崎市の指定文化財 県指定

一里塚(上豊岡町・藤塚町)

一里塚というのは、慶長9(1604)年に江戸幕府2代将軍秀忠(ひでただ)の命令で主な街道が整備された時、街道一里(約4キロメートル)ごとに目印として築かれたものです。

江戸時代、江戸(現在の東京)から京都までのルートには、海沿いの東海道と山沿いの中山道(なかせんどう)がありました。

高崎市上豊岡町にある一里塚は中山道沿いに設置されたもので、、群馬県で唯一形の残っている一里塚です。塚の上には、樹齢400年と言われるムクノキが茂っています。

この一里塚は江戸日本橋から28里にあたり、中山道で江戸からの距離は約112kmになります。

なお、中山道は中仙道と記されることもありますが、正徳6(1716)年に幕府から、「海道に対する山道であるから、公文書では中仙道の文字はあやまりである」というお触れが出されたそうです。

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11年前は藤塚一里塚跡を近くで見ました。

11年前のブログより

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再びR15と合流し、国道脇の碓氷川の土手の下の歩道を歩くと、藤塚一里塚がありました。
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天照皇大神宮

9:26 天照皇大神宮・洪水紀念之碑・射水
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案内板
天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水

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天照皇大神宮
全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行われています。

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・洪水祈念之碑
明治四十三年(一九一〇)、大洪水のた
め藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋
流失十八軒、半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名をえました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。

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射水
大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑り
をして確氷川を塞ぎ、人家や田畑に大き
な被害を与えました。村民は堤防を造
り、同十一年に村を守ることを願いこの
碑が建てられました。 」


9:52 上野国一社八幡宮鳥居
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いつもNAVIより

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社伝によると、天徳元年(957)、京都の石清水八幡宮から勧請。当社の正式名は「八幡宮」だが、「やわたの八幡さま」と呼ばれ、また、古くから一国一社の八幡宮として広く崇敬されていた。

永承年間、源頼義が奥州征伐のおり、当社にて戦勝祈願。康平年間、頼義の子・源義家八幡太郎)が戦勝の奉賛として社殿を修築し、以来、源氏の氏神として崇敬され、源頼朝鎌倉幕府開設にあたり神田百町を寄進した。

(中略)

通常、一国一社の八幡宮国府八幡宮、国分八幡宮などと同様、国府国分寺の鎮守として祀られた八幡宮のことだが、当社の場合は、どういう理由によるものなのだろうか。

ちなみに上野国府は前橋市元総社町あたり、国分寺高崎市国分町あたりだとされているので、当社からは、やや遠い。

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鳥居の扁額「八幡宮」は、弁慶の書という説もあるそうです。社殿は北北西750mのところに鎮座しています。



2度目の中山道6日目の2(板鼻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/19/230203


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き5日目の5(倉賀野宿から高崎宿入口)

2度目の中山道5日目の5
3月13日(金)の5


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【烏川を渡って】

柳瀬橋を渡る時、川風が冷たくて、しまった!と思いました。リュックを下ろして着るものを出すよりは、急いで渡った方がよいと思い、あしばやに渡りました。出来れば風のあまり来ないところでリュックを下ろしたい。

橋を渡ったら、少し戻るイメージで土手を右折。

渡し場に戻るので、橋を渡るのは遠回りになるのです。(往時の渡し場が今はなくなって、橋を渡らねばならないため、昔より遠回りになっている場所は沢山あります。)

15:27 岩鼻樋管のところを、
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左の土手下に降ります。
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15:27 旧中山道標識
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ここで旧中山道に戻りました。ここでリュックを下ろして上着を着ました。

しかし、歩き始めたら暑くなりました。


【北向子育観音】

15:32 北向子育観音
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岩鼻の子育て観音として地域の人々に親しまれているそうです。

15:36 分岐左へ
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15:45 跨線橋を渡りました。
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15:53 セブンイレブンでトイレを借りて、バニラカスタードのシュークリームを食べました。

16:04 石仏石塔群
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【閻魔堂・常夜灯・道しるべ】

16:05 閻魔堂
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閻魔さま 写真は「Persimmon Marsh Loft」より
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高崎市観光協会会報「縁起のいいまち高崎」より

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閻魔堂・常夜灯・道しるべ

倉賀野宿の東端に目を転じると、中山道日光例幣使街道との追分に閻魔堂がある。その傍らには文化11年(1814)に建立された常夜灯と、「従是(これより)右江戸道(えどみち)、左日光道(にっこうみち)」と刻まれた道しるべがある。
現在お堂は再建中。閻魔堂を飛び地境内とする九品寺(くほんじ)に、閻魔さまが仮住まいしているというので訪れてみた。(中略)カラフルで意外とハンサムな閻魔さま(後略)

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16:05 例幣使街道の常夜燈および道しるべ
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案内板
高崎市指定史跡

例幣使街道の常夜灯及び道しるべ

所 在 地 高崎市倉賀野町ニニ三○
指定 昭和四十八年一月三十一日

江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使(れいへいし)と言う。
例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基合には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山(きめんざん)与五衛門など三十八名も含まれている。
勧化薄という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立し
たとある。

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常夜灯
正面『日光道』右側面『中山道』左側面『常夜燈』
裏面『文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日 高橋佳年女書』
総高 三七三センチ 台石高 六七センチ
灯籠高 三〇五センチ
灯籠屋根幅 一○五センチ

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道しるべ
正面『従是 右 江戸道 左 日光道』
裏面『南無阿弥陀仏 亀涌水書』
総高 一七二・八センチ 台石高八・八センチ
石柱幅 一辺三十三・七センチ

平成八年三月
高崎市 教 育 委 員 会 」


【倉賀野(くらがの)宿案内板】

16:06 中山道倉賀野宿」案内板
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案内板
中山道倉賀野宿

中山道倉賀野宿』は江戸より、十二番目の宿場でここから徳川家康を祀る日光東照宮の春の大祭に京都の朝廷が弊帛(へいはく)を奉納する為に派遣した例幣使が通る『日光例幣使道』が始まる。
宿の南には利根川水系最上流の倉賀野河岸があり、上信越の諸大名の廻米、商人の荷物などが河岸から船積みされて江戸へと運ばれ、倉賀野宿は上信越と江戸を結ぶ水陸の交通の要所として栄えた重要な宿場であった。
倉賀野宿には、 京方向に上の木戸、江戸方向に下の木戸が設けられ、宿内の長さ(木戸から木戸の間)は九町十六間(約千メートル)、道幅は四間(約七メートル)から六間(約十一メートル)であった。天保末年(一八六三)の中山道大概帳によると、倉賀野宿には、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が三十二軒あり、人口は二千三十二人であった。
高崎市観光課 」

16:07 素敵な家
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16:09 素敵な家
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16:13 石仏石塔群
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【本陣跡・脇本陣跡】

16:14 倉賀野宿本陣跡
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案内板
倉賀野宿本陣跡

倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・公家などが休息・宿泊する場でした。倉賀野の本陣はその一軒で、元和年間(一六一五〜二三)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330㎡)もある広大なものでした。 」


16:16 立派な家
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16:17 脇本陣
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16:18 高札場跡
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道の反対側から写真を撮ったので、案内板は読めませんでした。


【倉賀野神社入口と安楽寺

16:20 倉賀野神社入口
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16:20 飯塚久敏と良寛の碑入口
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16:23 安楽寺
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安楽寺の異形板碑(市指定文化財)

高崎市ホームページより

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板碑は板状の石材を使用した卒塔婆の一種で、中世の関東地方で多く作られました。多くの場合、石材には緑泥片岩(りょくでいへんがん)が使われています。
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安楽寺境内にある2基の板碑は、通常の板碑に比べ厚みがあり、石材も牛伏砂石(天引石)が使われています。

銘文や年号は風化が進み読み取れませんが、全体のつくりや、梵字の彫り方などから南北朝時代(1300年代)以降のものであると考えられます。

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16:26 一里塚跡
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案内板
中山道の一里塚跡

一里塚は、江戸幕府が慶長九年(一六〇四)に江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。
ここにあった塚は日本橋から二十六番目のもので、規模は径が約15m、高さ約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、『一里山』と呼ばれていました。
明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。」


【高崎宿入口】

16:57 国道17号線を潜りました。
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17:08 高崎アリーナ

「KOHEI UCHIMURA CUP 2020」中止のお知らせ
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新型コロナウィルスの影響で、内村航平主宰の第1回目のイベントが中止。残念ですね。

今は、公共の施設はほとんど休みです。私設のところは、時間を短くしてやっているところもありますが、臨時休館、臨時休業がやはり多いですね。イベントも次々延期や中止になっています。

17:09 踏切(上信電鉄線)
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17:20 あら町交差点 本日はここまで
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今夜はアパホテル高崎に泊まります。

風呂の後、夕食。唐揚げ定食と生ビール
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本日の歩数 47,996歩 29.27km



2度目の中山道6日目の1(高崎宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/16/145745


二度目の中山道六十九次歩き目次1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947

絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き5日目の4(新町宿から藤岡市)

2度目の中山道5日目の4
3月13日(金)の4


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神流川合戦古戦場跡記念碑は移転】

神流(かんな)川を渡ると高崎市。いよいよ上州(群馬県)です。東京都→埼玉県→群馬県とやって来ました。


13:56 神流川合戦古戦場跡記念碑

貼り紙
「 仮移設のお知らせ

国道17号神流川橋改築に伴い、神流川合戦古戦場跡記念碑を仮移設いたしました。
仮移設場所は、下記地図を参照して下さい。 」
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神流川合戦については知らなかったので、本来ここにあるはずだった案内板を読み取った文を見つけたので、お借りします。

案内板
神流川合戦

天正10年(1582)6月19日織田信長が本能寺で倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、
これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて
石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760もの戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。
後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。 」

神流川合戦古戦場跡記念碑と案内板は、工事前の本来ならこうなっている、という写真をネットから拾ってきました。
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11年前のブログより

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2009.4.10.

古戦場碑の先に自衛隊駐屯地がありましたが、桜におおわれた敷地内に、いかついジープのようなトラックや、零戦が置いてありました。

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13:59 分岐右へ 常夜燈
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この分岐が新町宿の入り口です。ここにある常夜燈は、先ほどの神流川の見通し灯篭の実物大の復元だそうです。常夜燈の前に道標が立ち、「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」と彫られています。



【新町八坂神社】

14:03 新町八坂神社
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案内板
「 新町 八坂神社

八坂神社は、明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主(いりしおみ)が新羅国(しらぎ)牛頭山(ごずさん)に祭られる素戔嗚尊(すさのう)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観(じょうがん)十八年(八七六)とされている。ご祭神は素戔嗚尊を主神とし櫛稲田姫(くしなだひめ)命と八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭る。
著名な祇園祭清和天皇貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾(ほこ)六六本を建て御霊会(ごりょうえ)を行ったのを起源とし、天祿元年(九七〇)から恒例となった。
『弘文堂 神道辞典』

祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、悪鬼を祓う神としても信仰された。
新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除き、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。


柳の茶屋
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新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に『傘(からかさ)におしわけみたり柳かな』の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水(たんすい)と笛木白水が建てたと『諸国翁墳記』に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。
中山道を行く 荻野 悌 著』」

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案内板
「 柳茶屋の芭蕉句碑

『諸国翁墳記(しょこくおきなづかのき)』に『翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建』『傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな』とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲芭蕉の墓がある)で出版されました。
この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、『柳茶屋』と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水と白水が建てたと思われます。 」


14:08 諏訪神社
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今回は鳥居の写真だけ撮ってパスしてしまいましたが、11年前は見に行きました。

11年前のブログより

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新町宿の諏訪神社には、元禄時代の石鳥居があるとのことで、見に行ったら、「顔のある木」がありました。
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諏訪神社の今の鳥居は新しいものです。古い鳥居は老朽化して危険だったため、取り払って境内奥に土に埋め込まれたように保存されています。

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14:09 専福寺
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14:09 田口文五郎信武墓所(専福寺)

関流八伝と言われた、田口文五郎信武墓所が専福寺にあるそうです。
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側面
「文政九年(一八二六年)当町(新町)に生れ江戸の和算の権威者
白石長忠門人となり多くの子弟を育てた」

関流とは、和算の流派で関孝和を祖とする日本独特の算術です。


14:14 高札場跡(新町宿)
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案内板
「 高札場

高札場は、江戸幕府や諸藩が庶民を統治するための法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰・街道の追分・渡船場など、人目につきやすい各地の主要な場所に設けました。
新町宿では、落合新町と笛木新町の境に設置されました。キリシタン禁制は特に重要で、その管理は厳重で木の柵を巡らし、石垣あるきは土盛りをし、妄(みだ)りに近寄らせませんでした。管理責任者に町村役人を命じて、付近の清掃、火災の際の避難などにあたらせました。」


【行在所公園】

14:16 行在所公園でトイレへ。
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明治天皇行在所
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案内板
明治天皇新町行在所
(行在所公園)

明治天皇は、明治11年8月から10月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は 木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定をうけました。 」

行在所公園で少し休憩しました。
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14:25 群馬銀行新町支店
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【高瀬屋跡】

14:26 小林一茶宿泊の旅籠高瀬屋跡
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石碑
「 史跡 旅篭高瀬屋跡


 十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る

 かゝることのおそれを思へばこそ彼是日を費して門出はしつれ。いまは中々災ひの日をよりたるやう也、道急ぐ心も折れて日は斜ならざれど、

新町   高瀬屋五兵衛に泊

 雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更のころ、専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして、枕おどろかしていふやう、『爰のかんな川に灯篭たてゝ、夜のゆききを介けんことを願ふ。全く少きをいとはず、施主に連れ。』とかたる。『かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚、さのみぼさちのとがめ給ふにもあらじ、ゆるし給へ。』とわぶれど、せちにせがむ。さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくやあらんと思ふ。十二文きしんす。

   手枕や小言いうても来る螢

 迹へ帰らすれば神奈川の橋なく、前に進んと思へば烏川舟なし。たゞ篭鳥の空を覗ふばかり也。

   とぶ螢うはの空呼したりけり

   山伏が気に喰ぬやら行螢

一茶『七番日記』より 」

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案内板
小林一茶宿泊の高瀬屋跡

 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化七年(一八一〇)五月十一日に次のような記述があります。
 『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が 度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった』

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

その時に一茶がこれらの句を詠みました。 」


【小林本陣と弁財天】

14:30 新町宿小林本陣跡
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案内板
「 小林本陣

新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(一八〇四~四四)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享二年(一七四五)の『落合図』が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄四年(一六九一)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。 」


14:33 弁財天
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案内板
「 弁財天由来

温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和四十八年に現状となったが七福神中の女神であり音楽弁古福徳財宝をつかさどる神として信仰をあつめている杜は天明三年五月に建立された 石の祠で、本年は祭祠二百年当るので参道改修大鳥居を地区有志により奉納した
例祭は毎年春巳の日に行う
境内には芭蕉の句碑があり この島には清冽な清水が湧でていて旅人の喉をうるおしたとの句である

昭和五十八年三月六日巳の日

新町第十区 」


14:35 弁天橋
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藤岡市

14:36 藤岡市に入ります。
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新町宿は高崎市ですが、ここから暫くは藤岡市です。柳瀬橋を渡ると再び高崎市

この藤岡市で見たものなども、新町宿と同じ、2度目の中山道5日目の4に入れておきます。

14:37 分岐 斜め右へ
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14:43 伊勢島神社
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14:44 川端家(国登録有形文化財)
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文化財オンラインより

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川端家主屋(しゅおく)

 登録有形文化財(建造物)

川端家は旧中山道の街村集落である立石新田の豪農で,かつては一町屋敷とも呼ばれた。南北棟の主屋は屋敷南側に建ち,骨格は江戸後期の民家で,街道側の土間側を2階建に改造したのは明治前期頃と思われる。この地域の民家の変遷の一面をよくあらわしている。

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14:46 信迎庵
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石碑などが集められています。

宝暦十三年(1763)建立の橋建立供養塔があります。烏川の洪水で亡くなった人々を供養したものだそうです。
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14:49 道路(関越自動車道)を潜ります。
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関越道を潜って突き当たり、左に向くと、この景色。
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14:51 真ん中に用水路(蓋がしてあります)のある住宅街の中を進みます。
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14:55 県道手前の電柱のところを右へ。土手を上ります。
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14:59 烏川の土手の道
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途中、左側の民家の中へ一旦降りたりするのが旧道ですが、どこで降りるのか分からず、結局ずっと土手を歩いていました。

右側に渡し場跡もあるらしいのですが、そこも、わかりませんでした。

11年前は、川原に降りて歩いてみました。

11年前のブログより

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橋へ向かう前に川原に下りてみたのですが、烏川(柳瀬川)の菜の花の中の川原は夢のような場所でした。
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私は草を構わず踏みしだいて歩いていたら、ズボンにチクチクやベタベタの草の実や茎がベッタリついていて、取るのが大変でした。

実はちゃんと道があって、そこを通ればよかった。

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柳瀬橋を渡ります。
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柳瀬橋を渡ると再び高崎市です。


2度目の中山道5日目の5(倉賀野宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/14/211526


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次歩き5日目の3(上里町)

2度目の中山道5日目の3
3月13日(金)の3


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浅間山古墳】

11:59 バス停が上里町コミュニティバス「こむぎっち号」に変わっていました。「こむぎっち号」は1日4便しかない。
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12:00 浅間山古墳

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お稲荷さんかと思ったら、古墳でした。

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案内板
浅間山古墳(せんげんやまこふん)

町指定文化財
昭和37年2月22日指定

浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は直径約38メートル、高さ約6メートルの円墳と考えられます。主体部は角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用した胴張両袖型(どうはりりょうそでがた)横穴式石室です。石室の規模は、全長約9・48メートル、埋葬部にあたる玄室(げんしつ)は長さ6・48メートル、奥壁幅2・2メートル、最大幅2・4メートル、天井部高2・5メートルです。入口にあたる羨道(せんどう)は長さ約3メートル、幅1・2メートル、高さ1・8メートルです。


出土遺物は、昭和2年に玄室の一部が露出した時 鉄矛 てつ ぞく に出土した直刀2、鉄鉾1、金環(耳環)5、玉類、鉄鏃 多数(現在東京国立博物館収蔵)昭和63年から3回 行われた範囲確認調査で、直刀4、鉄鉾1、鉄鏃(てつぞく)多数、 須恵器平瓶(すえきひらべ) 、銅鋺 (どうわん)1が出土しています。(上里町立郷 土資料館保管)。特に銅鋺は 、仏教文化との関係から 注目される出土品です。築造時期は、出土遺物など から古墳時代終末期の7世紀後半に築造され8世紀 初頭まで墓として使用されていると考えらます。

上里町教育委員会

12:01 泪橋跡 欄干の一部と、由来の石碑
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石碑
泪橋の由来

此の地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先
仲山道に、泪橋なる橋ありき。
徳川幕府は、大名諸役等通行の砌、
街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり。
農繁期の最中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々この橋に憩い、家族を偲び身のはかなさを嘆じて泪しきりなり。 」

12:05 セブンイレブンで、「まんぷくポークカレー」を買って、外の縁石に座ってランチ。
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結構いろいろな人たちに、

「美味しそうだね」と声をかけられました。

12:38 庚申塔
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12:42 神保原一丁目交差点 ここを右折します。
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この神保原一丁目交差点あたりでトイレに行きたくなったので、本来はこの交差点で右に曲がるのですが、左に折れて、12:55 さっきとはまた別のセブンイレブンでトイレを借りて、R-1ヨーグルトを飲みました。

13:02 石塔群と薬師堂(中央が薬師堂)
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お堂の中の薬師
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13:03 庚申塔
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13:12 八幡神社(金久保神社)
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案内板
「 金久保神社
1962年2月22日指定
上里町指定文化財

金久保神社は大永5年(1525) 金窪城主斉藤盛光が 鎌倉の鶴岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、 神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失しました。その後、 元和年間(1615~24)に 村民より中山道の現在の地 に 遷座したと伝えられています。
ここには、拝殿に狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描か れた天井絵があります。この天井は中央に雲竜図が描かれ、 そのまわりに66枚の花鳥画が描かれています。中央の龍の絵に『文久3年(1863) 癸(みずのと)亥卯月吉日 狩野探僕守邦門人 祥雲斎俊信画』とあります。
また、拝殿の外側の彫刻は、もともと東京の湯島天神に設置する予定だったものを譲りうけたもので、明治の中頃に造 られました。
この神社には金久保神社獅子舞保存会があって、今でも秋の大祭には獅子舞が行われています。
上里町教育委員会

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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
金窪神社 御由緒
上里町金久保一五一一―八
□御縁起(歴史)
神流(かんな)川と烏川の合流点付近に位置する金久保は、『金窪』とも書き、その地内には秩父郡土豪で、南北朝時代新田義貞と供に転戦した畑(はた)時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は、戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に徳川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斎藤氏の居城であった。
『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運守護の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に、口碑によれば、元和年間(一六一五〜二四)に中山道の回答によって現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇メートルほど東にある旧地は『元八幡』と呼ばれている。
江戸時代には天台宗長命寺別当であったが、神仏分離に頼その管理を離れ、明治五年に村社となった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後、明治四十一年に字松原の無格社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には、字西金の村社丹生(たんしょう)神社、その境内社三社、大字内の無格社七社の計十一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。

□御祭神と御神徳
誉田別命(ほむたわけのみこと)・・・
交通安全、厄除開運、家内安全

□御祭日
(以下略) 」


13:24 畑 時能供養祠 銅鐘(陽雲寺)
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案内板
「県指定旧跡 畑時能供養祠一基 

昭和三十八年八月二十七日指定

 参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能(はたときよし)の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが暦応二年(一三三九)越前国で足利方に討たれた。
 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しゅきゅう)を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られニ石祠が建立されて、両者の姓を取り『畑児塚(はたこづか)』と呼ばれている。


県指定有形文化財
銅鍾 一口

昭和三十九年三月二十七日指定

この銅鍾は、頂部の竜頭が上向きで朝鮮式と呼ばれている鐘である。高さ一九〇センチ、口径九八・三センチ縦帯に仏像四体を陽鋳し、下帯に唐草文駒の爪には蓮弁を施し、乳頭は各面に二十五個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、計百八個を鋳出す。これは百八つの煩悩を表したものである。
池の間に長文の銘があり、天命(てんみょう)鋳物(いもの)として栄えた下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の鋳物師井上元峰によって、元禄八年(一六九五)に鋳造されたことがわかる。江戸時代中頃の優れた銅鍾の一つとして、すでに国認定重要美術品の指定を受けている。

昭和五十八年三月二十四日

埼玉県教育委員会
上里町教育委員会
陽 雲 寺 」


上記案内板には、鐘の部分の名称などが出てくるので、参考として「goo国語辞典 梵鐘の部分名称の図 」を載せます。
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案内板
「 陽雲寺

所在地 児玉郡上里町金久保七〇一

陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久二年(一二〇五)の創建と伝えられ伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘三年(一三三三)新田義貞鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来“新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文九年(一五四〇)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を嵩栄寺と改めたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正十九年、金窪の領主となった川久保信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当時の境内に居住したが、元和四年(一六一八)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって、寺号を嵩栄山陽雲寺と改称した。元和五年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。
なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鍾や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能(はたときよし)の供養塔などがある。

昭和六十年三月
埼玉県
上里町

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案内板
上里町指定文化財

一、銅鍾(国指定 昭和二十年)
一、畑時能公之墓(国指定 大正十二年)
一、武田信玄夫妻画像
一、釈迦如来坐像
一、実美公御野剱
一、古銅正観世音立像
一、武田信玄公起請文
一、跡部美作守軍状
一、陽雲院殿の墓

昭和三十七年指定
上里町教育委員会


13:30 愛宕神社 畑 時能首塚
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13:32 中山道に案内板
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案内板
中山道

中山道は江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
金窪村(現上里町字金久保)は、江戸から二十三里余。文政期(一八一八から)の家数は一六二軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(つのぶち 現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応二年(一六五三)頃です。
勅使河原村(現上里町大字勅使河原)家数は二八〇軒、絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで、国道十七号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠(みとおしとうろう)が移築されている大光寺が見えます。

上里町教育委員会

13:39 庚申塔など 石仏石塔群
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13:40 勝場の一里塚跡
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石碑
「 一里塚跡

昭和四十九年一月吉日

上里町教育委員会


13:45 神流川(かんながわ)
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13:46 復元見透灯籠
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橋の入口柱の根元の碑
「 見透灯籠のいわれ

上武二州の国境を流れる神流川は、往古より荒れ、川で出水毎に川瀬道筋を変えて旅人や伝馬、人足の悩みの種であった。
文化十二年(1815年)本庄宿の戸谷半兵衛が川の両岸に灯籠を建立し、夜になると火を燈し夜道を往来する旅人の標準とした。
この常夜燈のモチーフとなった武州側の常夜燈は、見透灯籠と呼ばれ大光寺に、移築されている。 」
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2度目の中山道5日目の4(新町宿から藤岡市)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/13/105821


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道5日目の2(本庄宿)

2度目の中山道5日目の2
3月13日(金)の2


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諏訪神社など】

9:15 二十二夜
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9:19 諏訪神社
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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
諏訪神社 御由緒

□御縁起(歴史)
正保二年(一六四五)の『本庄町外石高等領地図』(中原家蔵)に『滝瀬村ノ内堀田』と見え、更に『武蔵志』には、堀田は『中山道筋 滝瀬ノ新田別村ニアラス』とあり、古くは滝瀬村に属していたことがわかる。堀田は、前堀田と北堀田の二つの地区に分かれ、いずれも鎮守として諏訪神社を祀っている。当社は前堀田の方の諏訪神社で、神社を中心として西方の地域の小名を上(かみ)諏訪(通称は上)、東方の小名を下(しも)諏訪(通常は下)と呼んでいる。
社蔵の明治初年の『明細帳』によれば、往古甲斐の国士逸見儀左衛門は信濃国諏訪大社を崇敬していた。永緑十年(一五六七)のころにこの逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、掘ったの字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪神社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。以来武門の崇敬を集めたが、永い歳月を経て衰微してしまった。そこで寛延二年(一七四九)に前堀田の氏神として再興し、遷座祭を執行した。この時、逸見郷右衛門・粂原友之丞・荻野万兵衛・内田清兵衛・田沼四郎衛らが世話に当たったという。
明治初年の社格制定に際しては、古くから滝瀬村の鎮守であった滝瀬社(旧聖天社)が村社となり、当社は、無格社とされた。明治二十七年には、幣殿増築並びに本殿修繕を行った。

□御祭神と御神徳
・建御名方(たけみなかた)命・・・
五穀豊穣、厄除、海運

□御祭日
(以下略) 」


9:23 稲荷大明神
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【この先通り抜けできません】

9:33 「この先通り抜けできません」標識
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この、通り抜けできません、の方向に進みます。

ネギ畑の傍らを歩きます。
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9:36 分岐
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標識の、旧道の方ではなく、バイパスの方に進みます。

ガードレールの間から、旧道に進みます。
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9:40 無縁供養塔
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八幡大神社と宝珠寺】

9:46 八幡大神
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案内板
八幡大神

所在地 本庄市大字牧西五五七番地

祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)神功皇后・中比売神(なかつひめのかみ 応神天皇后)の三柱

当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七一)五十子合戦(いかつこかっせん)のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久群依田荘(よだそう)の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田(しんでん)五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料共進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)の指定があった。
なお、当社奉納の宮崎組神楽(かぐら)は、市の指定文化財になっている。
この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており神を喜ばせる舞楽(ぶらく)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起こりについてはまだ明らかではないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年〜一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(ざ 出し物)は今二十五座伝えられている。

昭和六十一年三月
埼玉県
本庄市

9:46 八坂神社
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境内の木が印象的でした。ケヤキかなあ?
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9:51 宝珠寺(トイレをお借りしました)
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案内板
「 宝珠寺

所在地 本庄市大字牧西五三九番

開基開山年代は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代廣源(こうげん)は寛永十二
年(一六三五)三月二十三日示寂(しじゃく)している。慶安二年(一六四九)八月
二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高一〇石を賜う。なお当寺は、文明九年(一四七七)五十子合戦(いかつこかっせん)により兵火に罹(かか)り古文書記録等は悉(ことごと)く焼失し、その後檀信徒(だんしんと)の斡旋(あっせん)協力により再興を為し旧観に復したが寛政二年(一七九〇) 正月十日に至り村内より失火し本村五十余戸を類焼し、その際宝珠寺建物を焼失したと云う。現在の本堂は文政二年(一八一九)二月二十九日建立し、これが斡旋をしたのは宝珠寺住職二十六世盛照法印代に檀信徒の協力一致により再興し旧蹟を失わず荘厳昔日に復した。
また明治三十年(一八九七)一月二十六日には村内から失火し本堂に飛火したが全焼を免れた。これを機会に茅葺を瓦葺に改造した。
次いで明治三十五年(一九〇三)十月より三十六年四月に至って山門の修理ならびに塗り替を行い、その後昭和八年(一九三三)に三十四世住職大野秀禅代に庫裡を新築する。昭和三十二年(一九五七)三十七世住職伊藤秀定代に本堂の瓦葺のふき替及び山門の修理を行い、昭和四十六年(一九七)四月には墓地整理、昭和四十八年(一九七三)には歴代住職の墓地の整理、昭和五十三年(一九七八)には檀信徒の協力により本堂の土台取替を行い、現在に至っている。
昭和六十一年三月
埼玉県
本庄市

宝珠寺の境内にも、有縁無縁之塔がありました。
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【金鑚神楽 宮崎組】

10:01 金鑚(かなさな)神楽 宮崎組の案内板
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案内板
本庄市指定文化財
金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組

神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話がその起こりとされており、神を喜ばせる舞楽(ぶらく まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽 宮崎組についてはまだ明らかではないが使われる面は江戸時代正徳年間(一七一一〜一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられまた遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)は、今二十五座伝えられている。

昭和三十五年十一月十日
本庄市教育委員会

10:09 子育て地蔵 塞の神 石塔群
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10:16 長屋門(内藤歯科医院)
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はにぽん号のバス停があったので、調べてみました。
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はにぽん号 (デマンドバス)

本庄市ホームページより

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はにぽん号・もといずみ号 利用案内

はにぽん号・もといずみ号は、事前の電話予約に応じて、乗車した停留所から目的地の停留所まで乗り合いで運行する便利な交通サービスです。
※予約状況により、ご希望に沿えない場合もあります。

《運行日時》 月曜日~土曜日 (日曜日・休日・12月29日~1月3日は運休) 
午前8時~午後5時(1時間の昼休憩あり)

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【傍示堂跡と御堂坂】

10:20 傍示堂跡(右) 天王祠(左)
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「彩の国 埼玉」より

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傍爾堂村(本庄市傍示堂)
ちょっと変わった地名である。
傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。
傍示とは境界を示すことを意味し、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。
前橋方面への分岐点であることから、この辺りには、茶屋が4軒ほどあり、飯・酒・菓子などを商っていた。
現在の傍示堂集落センターにある小さな御堂が傍示堂で、隣には天王祠が祀られている。
1615年の参勤交代の制度化により五街道が整備され、本庄も宿場町として発展したが、 それまでは深谷方面から来た大名などは、傍示堂村から本庄宿ではなく北西に分岐する街道を(現在の群馬県玉村町方向に)進んだらしい。
徳川時代之武蔵本庄」によると、「本庄には旅館の設備がなかったため、江戸参勤の大小名は傍示堂より五料村(現在の玉村町五料)に転じ、加賀藩前田家は上州川合(現在の玉村町川合)河岸に本陣(旅館)を設けていた云々」とある。

傍示堂(右側)

急 カーブを左に曲がり、元小山川の石橋を渡って右カーブを進むと国道17号に出る。
資料(中山道分間延絵図)によると、当時はこの辺に「御料傍示杭」があり、ここから「本庄宿」に入る。

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傍示堂集落センターの広場では、ご年配の方が子ども達に野球の指導をしていました。

あのシルバーさん、元野球のプロ?と思うような指導をしていました。

10:29 セブンイレブンで休憩

「さくら香る桜もち」を買って食べました。

10:40 御堂坂
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「彩の国 埼玉」より

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御堂坂

国道17号を渡り、本庄宿に入って最初に渡るのが馬喰橋(現在のセブンイレブンの東側)。
現在橋はなく、水路も細い道路に変わっているが、中山道分間延絵図によるとここに水路があり、豪商の戸谷半兵衛が私費で架けた石橋があった。
ところで、この馬喰橋には面白い話がある。
ある馬方が馬の荷稼ぎで得た金で自分だけ飲み食いし、馬には何も食べさせなかった。これに腹を立てた馬が、帰途の村境に架かる橋に差しかかったところで馬方に食いついたというものである。


この先に見える長い坂が御堂坂だ。
少し進むと左側にひっそりと庚申塔がある。気を付けていないと見過ごしてしまいそうだ。

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10:41 石仏石塔群
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【本庄宿入口と本庄かるた】

11:06 本庄宿標
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中山道石標

中山道 本庄宿」

「右 深谷宿 弐里半
日本橋まで弐拾参里 」
「左 新町宿 弐里
三条大橋まで壱百壱拾弐里 」


11:07 本庄かるた「ね」

この後、あちこち本庄かるたを見かけたので、まとめてここに載せます。

本庄かるた
「 ね 練り歩く御輿で街は
火との波 」
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「 な 夏の宵夜店にぎわう
七夕まつり 」
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「 い 今は昔中山道
宿場町 」
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「 そ 総鎮守 金鑚神社の
神迎え 」
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【蔵の街本庄】

11:10 蔵カフェ
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本庄は蔵の街だそうです。昔の蔵をカフェなどに転用して活用しているようです。

11:11 本庄レンガ倉庫
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案内板
「 国有形登録文化財
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

この建物は、明治二十九年に建された旧本庄商業銀行の寄棟(よせむね)瓦葺二階建煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。
この建物は、明治二十七年開業の本庄商業銀行で、融資のたんぽとなった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んだった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。
この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸と網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設けています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦を用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。

平成二十五年三月
本庄市教育委員会

11:16 はげかけた蔵
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11:17 本庄・宮本 蔵の街
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案内板を見ている人
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案内板
「 ここは『本庄・宮本 蔵の街』です。旧小森商店(酒問屋)の跡地、建物を保存活用しました。」


「彩の国 埼玉」より

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これらの蔵は明治43年から平成21年まで酒問屋小森商店の本庄支店の蔵として使われていた。
小森商店は本店は騎西にあり、現在は株式会社釜屋として埼玉の地酒で有名な「力士」を販売している。
一の蔵(板張り、元は黒漆喰)は明治12年築造の書類などを保管する店蔵。二の蔵(白壁)は明治22年築造の味噌、醤油の蔵。三の蔵(赤煉瓦)は大正10年築造の完成した商品を保管する酒蔵。
築造された時代によって外装が違うのが面白い。
小森商店開業前の江戸時代、ここには「穀屋」という店があった。主は真塩治右衛門で穀物、醤油などを扱っていた。文化年間には旅籠屋も経営していたそうだ。
一の蔵、二の蔵は穀屋時代に、三の蔵は小森商店時代に築造されたものだ。
小森商店が閉店した後、市民グループ「本庄まちNET」の保存運動により、平成22年、敷地全体が「本庄宮本・蔵の街」として生まれ変わった。

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【金鑚神社と大クスノキ

11:23 金鑚(かなさな)神社
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案内板
「本庄新八景
本庄まつりと金鑚神社

十一月二日、三日に行われる本庄まつり、山車の引き回しは北関東随一といわれる豪華なもので、本庄市民の自慢の一つだ。金鑚神社は第二十九代欽明天皇のころの創建と伝えられ、社殿は極彩色つるし塗りの権現造りでおごそかに鎮座している。 」

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案内板
「 金鑚(かなさな)神社
所在地 本庄市千代田三―二

金鑚神社の祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおとみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)の三神である。
社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。
境内はケヤキイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(一七二四)、拝殿は安永七年(一七七八)、幣殿は嘉永三年(一八五〇)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺(のぶみね)の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。

昭和六十年三月
埼玉県
本庄市


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案内板
「 鎮守の森のご案内 その1

クスノキ[楠・樟]

クスノキ科 ニッケイ

埼玉県指定文化財で御神木。
樹齢はおよそ400年で、幹周りは6m、樹高は約 30m,四方へ約15mずつ平均に伸びた堂々たる 風格を持っている。当地が生息の北限で、県内巨木誌にも掲載されている。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

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案内板
「 埼玉県指定文化財(記念物・天然記念物)

金鑚神社のクスノキ

昭和四十四年三月三十一日指定

金鑚神社のクスノキは、本庄城主であった小笠原信嶺の孫の政信が、寛永一六(一六三九)年、金鑚神社の社殿を寄進した際に献木したものと伝えられます。
樹高約三〇メートル、目通り幹周約六メートル、根回り一〇メートル、枝張りは南北三三メートル、東西三〇メートルの大きさがあり、樹齢は約三五〇年と推定されています。
生育環境が良好に維持されているため、現在も樹勢が盛んで、枝が大きく広がり、美しい樹形を保っています。
県北地方においては、暖地性のクスノキの巨樹は希少で、神社の御神木として大切に管理されています。

令和元年十二月二十日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会


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案内板
「鎮守の森のご案内 その2

カヤ[榧]

イチイ科 カヤ属

本庄市指定文化財、江戸時代初期の寛永16年 (1628年)頃、社殿新築を記念して植えられたク スノキ、モミと共に鎮守の森を形成している。 残念ながらモミは平成の初めに枯れてしまった。 このカヤは樹齢約400年の古木である。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

大門
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楽殿
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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念

金鑚(かなさな)神社 御由緒

本庄市千代田三―二―三

□御縁起(歴史)
本庄の市街地の中心部を東西に貫く県道勝場・本庄線は、かつての中山道である。日本橋から十番目の宿場にあたる本庄宿は、中山道最大の宿場であった。宿場の西端近くに鎮座する当社は、本庄宿の総鎮守として広く知られている。
社記によれば、当社の創建は、欽明天皇の二年(五四一)のことで、社地は日本武尊がかつて駐軍した古跡であるという。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つである児玉党武士によって信仰され、とりわけこの地を在所とした本庄氏崇敬が厚かった。
句だって天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に伴い、小笠原掃部大夫信嶺が本庄城主となったが、同氏もまた当社を厚く崇敬し同年九月に本庄城に入るや翌十月には当社の社伝に装飾を加え、武運長久を祈願している。
小笠原氏は、信嶺の猶子信之の代に下総国(現茨城県)古河城に移封され、更にその嫡男の忠貴は関宿城に移るが、忠貴は本庄城に生まれた縁故により、当社への信仰が特に深く、寛永十六年(一六三九)に社殿の改築を行った。天然記念物として保護されている三本の神木(楠・榧・樅)はこの時植樹されたもので、忠貴はほかに自筆の額や祈願状(市指定文化財)を奉納している。
投射は明治五年に村社になったが、由緒があり信仰圏も広い故をもって、同十七年に県社に昇格した。

□御祭神
・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
・素盞嗚尊(すさのおとみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

□御祭
(以下略) 」

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案内板
「 埼玉県指定文化財(有形文化財・建造物)
金鑚神社社殿

平成二十九年三月二十四日指定

金鑚神社は、中山道本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。本庄実忠が弘治二(一五五六)年に本庄城を築いたら際に、社殿の改造と神田の寄進を行ったらと伝えられており、その後、本庄氏に代わって城主になった小笠原氏も当社を厚く信仰しました。当社には、小笠原氏が古河、ついで関宿へ転封となった後の寛永十六(一六三九)年に、関宿城主小笠原忠貴が社殿を建立した際の祈願文が残されています。
現在の金鑚神社の社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、本殿は享保九(一七二四)年、拝殿は安永七(一七七八)年、幣殿は嘉永三(一八五〇)年の建築と伝えられています。建築年代の古い本殿は一間社流造で、壁面に彩色を伴う穏やかな表現の彫刻が、空間をもたせて配置されています。建築年代の下る拝殿は、入母屋造で、力強く密度の高い極彩色の彫刻で飾られています。幣殿は両下造で、その格天井には、武正南盧や小倉紅於ら幕末期の本庄で活躍した文人たちの天井画が描かれています。
埼玉県内の近世社寺建築は、彫刻装飾を多用する点に特色がありますが、この本殿は壁面に彫刻が付く早い例で、県内における彫刻装飾の変遷を示す一つの指標として、高く評価されています。

平成三十年三月二十五日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会


11:30 中山道六十九次のタイルの歩道
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11:32 本庄市高尾歩道橋(ここを左折)
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11:45 平成7年の馬頭観音(交通安全)
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2度目の中山道5日目の3(上里町)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/11/173504


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003

2度目の中山道六十九次5日目の1(深谷宿の2)

2度目の中山道5日目の1
2020年3月13日(金)の1

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【七ツ梅の田中屋跡再び】

前夜、ABホテル深谷に泊まりました。

5:25 起床

6:30 バイキング朝食

7:00過ぎにチェックアウト。中山道に向かいます。

7:23 藤崎藤三郎商店
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7:27 七ツ梅の田中屋跡
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タイムズクラブより

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深谷駅から10分ほど歩いた中山道沿いに、「七ツ梅酒造跡」という場所があります。

レトロな建物
煉瓦造りの煙突が目印です
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こちらは、田中藤左衛門氏が創業し、以来300年以上続いた歴史ある酒造の跡地です。現在はその建築群を活かした、さまざまな施設が運営されています。

約950坪の敷地の中に色々な施設があります。

一歩足を踏み入れると、そこはもう、別世界!独特のレトロな雰囲気が漂っています。
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一昔前の映画でよくみるような景色
映画やドラマのロケ地にもよく使われているそう
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それではまず、七ツ梅でもひと際目立つ存在の、「深谷シネマ」に行ってみたいと思います!

深谷シネマは、“県北にミニシアターを!”という深谷市民の声を集めてできた施設で、全国で唯一の酒造を改装してできた映画館です。

上映作品は、邦画から洋画、ファンタジーからドキュメントまでさまざま。主に観客からのリクエストやアンケートで作品を決められているんだとか!

客席は全部で60席ほど。前後の客席間が広く、リラックスして映画が観られる劇場です。親子ルームもあるので、小さなお子さま連れでも気軽に映画が楽しめますよ!

また、深谷シネマの館内には、作品を観ない人でも自由に利用できる交流スペースが併設されています。

交流スペースには本も置いてあり、自由に読むことができますよ。コーヒーの自動販売機もありますので、寛ぐのにもおすすめのスポットです。

ちなみに、深谷シネマはデジタルだけでなく、フィルムの上映も行っているそう。35ミリの映写機がある、現代では貴重な映画館でもあります。

大きなシネマコンプレックスにはない、温かみが感じられる映画館でした…


シネマかふぇ七ツ梅結ぃ房。
映画の後は、「シネマかふぇ七ツ梅結ぃ房。」でひと休み。

お店の中は、おばあちゃん家に来たかのようなノスタルジックな空間が広がっています。

窓際に並べられた仮面ライダーグッズ
マニア垂涎の仮面ライダーグッズも…!

名物は、どんぶりに盛られたシネマカレー。お値段はなんと300円と格安です!

このカレーは、オーナーさんの祖父が経営していたレストランのレシピを受け継いでいるそう。当時のレシピそのままに再現されていて、どこか懐かしい、優しい味でした!

なお、店内には映画のポスターが貼ってあったり、映画に関するグッズの販売コーナーがあったりと、オーナーさんの映画愛にあふれていました。

※「キネマ食堂七ツ梅結ぃ房。」に店名が変わりました


とうふ工房
カフェで休憩した後は、中山道に面した場所にある、「とうふ工房」におじゃましました

とうふ工房では、消泡剤を使用していない昔ながらの手作り豆腐が販売されています。本店は深谷の大谷にあり、地元で愛されているお豆腐屋さんです!

木綿豆腐とおぼろ豆腐のほか、とうふのもろみ漬などもありました

お豆腐など店頭で販売されている飲食物は店内で食べることも可能で、イートイン用のスペースもあります

また、こちらではお豆腐屋さんでありながら、雑貨などの販売もされているんです。

アーティストさん手作りのバッグやお皿など、可愛い雑貨がズラリ!

独自にセレクトされたセンスの良いものがたくさん置いてありますので、ぜひ、雑貨も見てみてくださいね!


深谷宿本舗
とうふ工房の向かいには、「深谷宿本舗」というお店がありました

こちらでは、BOXごとにアーティストさんの手作りの品が展示販売されています。

陶器から布製品、アクセサリーまで、バラエティ豊富で見ているだけでも楽しいですよ!

ずらりと並べられているハンドメイド作品
ぜんぶで69BOXあります。お気に入りを探してみてください!

店内は女性の方でにぎわっていて、憩いの場にもなっているようでした。

ちなみに、1BOXにつき1カ月1,200円(小は800円)で手作りのものであればどなたでも出店することができるそうです。最長6カ月展示販売することが可能だそうですので、興味のある方は出店してみてはいかがでしょうか…!

鬼瓦工房 鬼義
深谷シネマの近くに、「鬼瓦工房 鬼義」という工房があります。

窓に飾ってある鬼瓦が目をひきます

こちらは、鬼板師(鬼瓦をつくる職人)である塚越氏の工房です。普段は一般公開をしていないのですが、扉が空いている時は工房に飾ってある鬼瓦などを見学することも可能です。

工房内には所狭しと迫力のある鬼瓦やしゃちほこなどが並んでいます

寺社の鬼瓦やお城のしゃちほこなどの制作がメインですが、オーダーすれば個人向けの制作も行っているそうです。

なお、鬼瓦は深谷市ふるさと納税のお礼品にもなっているとのこと。深谷市に納税すれば、制作してもらうことができますよ!※お礼品は金額によって変わります

鬼瓦はその力強さにより邪気を払うことから、魔除け・厄除けの意味があるそうです。お家の守り神として、いかがでしょうか…!?

七ツ梅酒造跡にはほかにもお店があります
今回ご紹介したほかにも、七ツ梅酒造跡には古書店やコーヒーショップなどもあります。個性的な店舗が多く、現代の埼玉にいることを忘れてしまう素敵な空間でした。ぜひ、散策してみてくださいね!
※定休日などはお店によって違うのでご注意を

すぐ近くに商店街の無料駐車場がありますので、クルマでお越しの際にはそちらの利用がおすすめです。

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こちらの敷地内地図を見ると、上記飲用のタイムズクラブの記事に載っている店から、変わっている店もあるみたいです。鬼瓦工房鬼義はありました。

ここに紹介されていなかった、居酒屋二兎三兎
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やはり敷地内にあった、FMふっかちゃん
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【滝澤酒造】

7:36 滝澤酒造
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深谷商工会議所ホームページより

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日本酒を通して、全ての人に幸せを
文久三年に創業し、150年余りの時を刻んで、深谷の地で酒造りの伝統を繋いでいる滝澤酒造株式会社。米の蒸し、麹造り、もろみの仕込みなど昔ながらの道具を使い、代々受け継がれている製法や技術により、伝統的で丁寧な酒造りを行う。
全国新酒鑑評会において4年連続の金賞受賞や、世界の最高権威ともいわれるインターナショナルワインチャレンジでの受賞経歴もあり、輝かしい功績とともに、古くから地元をはじめ、たくさんの方々に広く愛飲されている。

製品の特徴・効果
【菊泉 ひとすじ】
シャンパンと同じ瓶内二次発酵で造られた「菊泉ひとすじ」。酒造りの技術とシャンパンの製法の融合により生まれた、にごりのない透明感が美しい本格的スパークリング清酒。日本酒の旨味と、きめ細やかな泡による繊細な口当たり、爽快感が絶妙で、お祝い事など乾杯の場面や、フレンチ、イタリアンとの相性も抜群。エレガントさ際立つゴールド色がオシャレな新感覚の日本酒である。

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SAKETIMEより

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古くは中山道の宿場町として栄えた深谷。その街道沿いにレンガ造りの佇まいを見せるのが、この酒蔵。深谷はレンガ造りでも知られ、蔵にそびえる約30mの煙突も、この深谷産レンガで造られている。創業150余年来、手作りにこだわり酒造りを行い、大吟醸の絞りも手作業で行っている。「菊泉 大吟醸秘蔵酒」は2014IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)で日本酒部門金賞受賞。5年間低温で熟成させ、洋ナシを連想させるほのかな香りとまろやかさ、奥深い豊かな味わいを生み出している。

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【呑龍院と田所町の常夜燈】

7:38 呑龍院
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https://japan-geographic.tv/saitama/fukaya-downtown.html より

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赤い鐘楼堂のある呑龍院には子守り地蔵が祀られていますが、これは1931(昭和6)年9月21日午前11時20分3秒に深谷断層系の一部が動いて生じた深谷地震西埼玉地震)、マグニチュード6.9によって、旧富国館製糸工場(富国館は、両角市次郎(もろずみいちじろう)によって1899(明治32)年に深谷町……現在の田所町につくられ、大正末年まで操業していた機械製糸工場)の赤煉瓦造りの煙突が倒れ、その下で遊んでいた子どもが数人亡くなったということで、犠牲になった子どもたちの霊を慰めたお地蔵様です。この地震深谷においては関東大震災(1923 年)よりも被害が大きかったそうです。滝澤酒造の煙突に鉄の箍がはめられたのもこの地震でした。

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7:38 旧深谷宿常夜燈
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案内板
「 旧深谷宿常夜燈(田所町) 

江戸時代中仙道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
天保十一年(一八四〇)四月建立。高さ約四メートルで中仙道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。
天保十四年には、深谷宿は約一・七キロの間に八十軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場(なかぜかしば)をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。

平成六年四月
深谷上杉顕彰会(第二十八号) 」


7:48 萱場稲荷神社
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【瀧宮神社、寳登山神社など】

7:53 瀧宮神社
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境内には素敵な木がありました。
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案内板
「 宿根総鎮守 瀧宮神社御由緒

 瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)は室町時代後土御門天皇の御代、明応七年(1498)この地に鎮座されました。当社の裏手には昭和六十一年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていました。この湧水は、地内に点在する遊水池と共に当地一体に広がる十八町歩の水田を潤す水源でありました。
 社殿によると当地は応永二十三年(1416)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守源香丹の治めるところとなりました。明応五年(1496)六月、当地一帯が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しんだのでした。香丹は直ちに水利の向上を督励し、その水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したのでした。領民は歓喜し、これを神様のお恵み・導きとして、この遊水池に社殿を建て、瀧宮神社と奉称してお祀りしたのでした。「風土記稿」に「瀧宮明神社 村の鎮守にて 伝々」と記されるように、古くから当社は宿根地区の鎮守として信仰されてきました。
 御祭神 伊邪那岐命(男神) 伊邪那美命(女神)
 (以下略) 」


8:03 正明寺参道口 二十二夜塔など
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8:10 史蹟 高島秋帆幽囚地入口
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中山道一日目に立ち寄ったほうろく地蔵がある大円寺に、高島秋帆の墓がありましたが、その高島秋帆が幽閉されていた場所。今回はパスしましたが、11年前の初めての中山道歩きの時は寄りました。

11年前のブログより

2009.4.9.

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旧道が国道17号に突き当たって合流した所に瀧宮神社があったのですが、地元の方達のボランティアなのか、何人かの方達が掃き掃除をしていました。

岡部という町を通りましたが、ここは関東一の漬け物の町だそうで、各工場からは、タクアンの匂いだとか、エシャレットみたいな匂いだとかがしてくるけれど、表通りはそれぞれの匂いが混じりあって、何とも言えない匂い…

岡部では、岡部藩主安部(あんべ)一家12代の墓のある源勝院へ。12基の墓が並ぶ様は壮観でした。

また、少し寄り道して、高島秋帆幽閉地を見に行きました。岡部藩には城がなく、ここが陣屋跡だということで。

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8:11 岡部神社鳥居
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創建は弘仁(こうにん)年間(810~24年)という古くからの神社です。この写真の鳥居から本殿まで、かなり歩くとのこと。

8:18 石仏石塔群
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8:27 寳登山神社
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wikipediaより

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寳登山神社(ほどさんじんじゃ、常用漢字体:宝登山神社)は、埼玉県秩父郡長瀞町宝登山山麓にある神社。

秩父神社三峯神社とともに秩父三社の一社。宝登山山頂には奥宮(おくみや)が鎮座する。

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その長瀞の寳登山神社が何故ここに小さな社を置いていのか分からないのですが、分社ということなのでしょうか。

8:31 分岐右に入る。
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【雲雀塚】

8:32 雲雀塚(岡新田の句碑)
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芭蕉の句碑で、ガイド本には「雲雀(ひばり)塚」と書いてありますが、深谷市のホームページには、「岡新田の句碑」という名称で載っています。

深谷市ホームページより

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岡新田の句碑


原中や物にも付かず鳴く雲雀

解説
地上の何者にも拘束されることなく広い野原の空高く一心不乱に囀り続けるひばり「続虚栗」

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どなたかのブログに、貞享三年の作、と書いてありました。上記ホームページによると「続虚栗」に入っている句とのこと。「続虚栗(ぞくみなしぐり)」は貞享四年に宝井其角(芭蕉の弟子)によって編まれた、芭蕉芭蕉の弟子たちの句集。

芭蕉句碑(雲雀塚)の傍らの石碑
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芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記

 岡部の原はその名高く、平安の昔曽根好忠に歌はれ、室町の頃『回國雜記』に書かれた武蔵野は、北端中山道を距てゝ小山川の清流に臨み、田園よく拓けて一望三百餘。町遠く浅間の噴煙、男体の白雲を眺め、赤城榛名妙義の三山は指顧の間にある。春陽遅々たる日こゝに囀り上る雲雀の声は天下無雙と謳はれ、特に地名に因んて「砂田の雲雀」といはれた。季年彌生の候にこの地を旅する加賀侯も駕籠を停めてその啼聲に聞きほれたとのことてある。果せる哉、俳人小林牛角師は芭蕉翁の名吟

原中や物にもつかす鳴雲雀

の句碑を建てゝその風雅の道を偲んた。郷人呼ひて雲雀塚といふ。

 この句『續虚栗』に載せられ、翁の壯年期の作と推定される。翁が日夜私淑した西行の詩精神を渾化した無著の心を懷しむと共に、凝滯せぬ雲雀の聲の無心さをよく現はしている。 春の日の駘蕩の趣と何か悠久なるものへのいさなひをさへ感しさせる。眞にこの句この碑ほとこの地の景物たる雲雀を讃美するに値したものはなかつた。しかし星霜の久しき遂に名は碎け文字はうすれて鑑賞に堪へられなくなつた。先に蝶園秋香老これを愁へ、この度岡部村文化会の有志これを悲しみ雲雀塚の再建を志し、新たに句の揮毫を信濃なるからむしの主蕾丈大人その由来の文を余に嘱し石に鐫して後代に遺し、長く蕉風の雅懐を傳へることになった。 行人のこの地に立って雲雀の声に耳を傾け、翁の句を口すさむことかあれは、こそなき幸てある。

 昭和三十二丁酉年十月十二日
埼玉県俳句連盟顧問籬窓山口平八撰
蝶園茂木秋香門人江南鳥塚勇三郎書 」


「小林牛角師」は、岡部の人。小林丑松。

「蝶園秋香老」は、矢島村(現深谷市)の俳人茂木秋香。名は信次郎。



【島護産泰神社から豊見坂へ】

8:39 島護産泰(しまもりさんたい)神社
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案内板
「 島護産泰神社

当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内各村からの寄付によりなされた。祭神は瓊瓊杵尊、木之花咲夜姫命という。当社を島護と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内が島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けた為、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。また、当社は、安産の神として遠近より信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一〇日の春祭には、里神楽が奉納される。

平成三年三月

埼玉県
岡部町 」

岡部町は、2006年1月1日に深谷市に統合されました。

11年前のブログより

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2009.4.9.

島護産泰(しまもりさんたい)神社という神社も桜がきれいでした。ここは、利根川が荒れて、水害がちょくちょく起きたため、水の神を鎮めるための神社だったようです。この神社では、4月10日に里神楽が奉納されるとのことですが、4月10日は明日だ!里神楽前日とのことで、参道に注連縄が張り巡らされ、テントが何張りか立てられて、明日配られると思われるペットボトルのお茶が入った箱が積まれていました。

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島護産泰神社境内の庚申塔など
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8:49 「浅間◯神」石碑
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8:53 「中山道古道について」石碑と馬頭観音
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石碑
中山道古道について

現在岡上地区内を通る旧中山道 は、田嶋一明氏東のなだらかな切り通しをくだり、十七号バイパスを横断、瀧岡橋へと至る。
 江戸時代の中山道 にこの切り通しはなく、丸谷商店の前を直進し、田嶋幹弘氏東で右折、八坂神社・百庚申脇の急峻な坂をくだる道筋がとられた。
 切り通しの開鑿は明治期になってからであり、今のように拡幅整備されたのは、瀧岡橋の竣工がなった昭和三年のことであるという。
 江戸期の中山道は、この坂道をくだると、幾度か右折左折を繰りかえし、現在の瀧岡橋より二〇〇メートル程上流で、小山川を渡河した模様である。
 近年の歴史探訪ブームの中、大勢の来訪者を迎えるにあたり岡部郷土文化会では、大名行列が行き交い、皇女和宮の降嫁の行列も通過した往時の中山道の正確な道筋をここに識し、ご案内の一助といたします。

平成二十三年十一月吉日 岡部郷土文化会
撰文 角田恵一」
8:53 Y字を左へ

8:55 村社寅稲荷神社社標と
「旧中山道→上州方面へ」
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道標に従って右折すると下り坂。豊見坂というそうです。豊見坂を下ると、たくさんの庚申塔が見えてきました。


【百庚申】

8:56 百庚申

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ここで写真を撮っていたら、ご年配の男性に「旅人ですか?」と聞かれました。

東海道では、「東海道を歩いているんですか?」とよく聞かれましたが、中山道では「中山道を歩いているんですか」とはあまり聞かれません。それにしても、「旅人ですか?」は初めての質問でした。

どこから来たのか、の質問は、神奈川県です、はわかってもらえますが、さらに地域を限定して聞かれると、大抵わかってもらえず、隣の市を言って、その隣の市です、なんて説明することが多いのですが、この男性は私の地元を知っていました。

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案内板
「 百庚申

百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されてのは幕末、万延元年の庚申の年(一八六〇)で、岡の有志十三人により計画され、翌年の万延二年にかけて完成を見た。
このことは、庚申塔群の中に大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、『田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮弥一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林□(不明)兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助。』という人々であったことがわかる。
もともと、この場所には、享保元(一七一六)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府大老井伊直弼江戸城桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな自見があったり、黒船来航により永い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。
平成三年三月
埼玉県
岡部町 」


【左赤城と滝岡橋】

9:05 岡(西)交差点
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この交差点からこの先の滝岡橋まで、中山道を京方面に向かう旅人が唯一左側に赤城山を見る、「左赤城」
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9:08 滝岡橋 国登録有形文化財
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滝岡橋 wikipediaより

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滝岡橋(たきおかばし)は、埼玉県深谷市岡と同県本庄市堀田の間で小山川に架かる橋。国の登録有形文化財。日本の近代土木遺産のひとつでもある。

概要
中山道が小山川を越える地点に所在する。江戸時代は渡し場があり、明治時代の1901年3月に木橋ができた。橋長は82 mで幅員は7.3 mであった。その後1928年(昭和3年)3月に滝岡橋が完工し、4月14日開通した。鋼製8連桁橋で、橋延長は146.7 m、幅員は6.3 mである。完成から80年経った2008年(平成20年)3月7日に国の登録有形文化財に登録された。橋名は橋が架かる地域である滝瀬村および岡村の頭文字から付けられた。

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2度目の中山道5日目の2(本庄宿)に続く
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