紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道5日目の2(本庄宿)

2度目の中山道5日目の2
3月13日(金)の2


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諏訪神社など】

9:15 二十二夜
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9:19 諏訪神社
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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
諏訪神社 御由緒

□御縁起(歴史)
正保二年(一六四五)の『本庄町外石高等領地図』(中原家蔵)に『滝瀬村ノ内堀田』と見え、更に『武蔵志』には、堀田は『中山道筋 滝瀬ノ新田別村ニアラス』とあり、古くは滝瀬村に属していたことがわかる。堀田は、前堀田と北堀田の二つの地区に分かれ、いずれも鎮守として諏訪神社を祀っている。当社は前堀田の方の諏訪神社で、神社を中心として西方の地域の小名を上(かみ)諏訪(通称は上)、東方の小名を下(しも)諏訪(通常は下)と呼んでいる。
社蔵の明治初年の『明細帳』によれば、往古甲斐の国士逸見儀左衛門は信濃国諏訪大社を崇敬していた。永緑十年(一五六七)のころにこの逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、掘ったの字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪神社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。以来武門の崇敬を集めたが、永い歳月を経て衰微してしまった。そこで寛延二年(一七四九)に前堀田の氏神として再興し、遷座祭を執行した。この時、逸見郷右衛門・粂原友之丞・荻野万兵衛・内田清兵衛・田沼四郎衛らが世話に当たったという。
明治初年の社格制定に際しては、古くから滝瀬村の鎮守であった滝瀬社(旧聖天社)が村社となり、当社は、無格社とされた。明治二十七年には、幣殿増築並びに本殿修繕を行った。

□御祭神と御神徳
・建御名方(たけみなかた)命・・・
五穀豊穣、厄除、海運

□御祭日
(以下略) 」


9:23 稲荷大明神
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【この先通り抜けできません】

9:33 「この先通り抜けできません」標識
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この、通り抜けできません、の方向に進みます。

ネギ畑の傍らを歩きます。
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9:36 分岐
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標識の、旧道の方ではなく、バイパスの方に進みます。

ガードレールの間から、旧道に進みます。
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9:40 無縁供養塔
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八幡大神社と宝珠寺】

9:46 八幡大神
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案内板
八幡大神

所在地 本庄市大字牧西五五七番地

祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)神功皇后・中比売神(なかつひめのかみ 応神天皇后)の三柱

当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七一)五十子合戦(いかつこかっせん)のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久群依田荘(よだそう)の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田(しんでん)五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料共進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)の指定があった。
なお、当社奉納の宮崎組神楽(かぐら)は、市の指定文化財になっている。
この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており神を喜ばせる舞楽(ぶらく)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起こりについてはまだ明らかではないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年〜一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(ざ 出し物)は今二十五座伝えられている。

昭和六十一年三月
埼玉県
本庄市

9:46 八坂神社
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境内の木が印象的でした。ケヤキかなあ?
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9:51 宝珠寺(トイレをお借りしました)
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案内板
「 宝珠寺

所在地 本庄市大字牧西五三九番

開基開山年代は不詳。延命山地蔵院宝珠寺と称し初代廣源(こうげん)は寛永十二
年(一六三五)三月二十三日示寂(しじゃく)している。慶安二年(一六四九)八月
二十四日には徳川三代将軍家光より御朱印石高一〇石を賜う。なお当寺は、文明九年(一四七七)五十子合戦(いかつこかっせん)により兵火に罹(かか)り古文書記録等は悉(ことごと)く焼失し、その後檀信徒(だんしんと)の斡旋(あっせん)協力により再興を為し旧観に復したが寛政二年(一七九〇) 正月十日に至り村内より失火し本村五十余戸を類焼し、その際宝珠寺建物を焼失したと云う。現在の本堂は文政二年(一八一九)二月二十九日建立し、これが斡旋をしたのは宝珠寺住職二十六世盛照法印代に檀信徒の協力一致により再興し旧蹟を失わず荘厳昔日に復した。
また明治三十年(一八九七)一月二十六日には村内から失火し本堂に飛火したが全焼を免れた。これを機会に茅葺を瓦葺に改造した。
次いで明治三十五年(一九〇三)十月より三十六年四月に至って山門の修理ならびに塗り替を行い、その後昭和八年(一九三三)に三十四世住職大野秀禅代に庫裡を新築する。昭和三十二年(一九五七)三十七世住職伊藤秀定代に本堂の瓦葺のふき替及び山門の修理を行い、昭和四十六年(一九七)四月には墓地整理、昭和四十八年(一九七三)には歴代住職の墓地の整理、昭和五十三年(一九七八)には檀信徒の協力により本堂の土台取替を行い、現在に至っている。
昭和六十一年三月
埼玉県
本庄市

宝珠寺の境内にも、有縁無縁之塔がありました。
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【金鑚神楽 宮崎組】

10:01 金鑚(かなさな)神楽 宮崎組の案内板
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案内板
本庄市指定文化財
金鑚神楽(かなさなかぐら)宮崎組

神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話がその起こりとされており、神を喜ばせる舞楽(ぶらく まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽 宮崎組についてはまだ明らかではないが使われる面は江戸時代正徳年間(一七一一〜一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられまた遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)は、今二十五座伝えられている。

昭和三十五年十一月十日
本庄市教育委員会

10:09 子育て地蔵 塞の神 石塔群
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10:16 長屋門(内藤歯科医院)
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はにぽん号のバス停があったので、調べてみました。
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はにぽん号 (デマンドバス)

本庄市ホームページより

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はにぽん号・もといずみ号 利用案内

はにぽん号・もといずみ号は、事前の電話予約に応じて、乗車した停留所から目的地の停留所まで乗り合いで運行する便利な交通サービスです。
※予約状況により、ご希望に沿えない場合もあります。

《運行日時》 月曜日~土曜日 (日曜日・休日・12月29日~1月3日は運休) 
午前8時~午後5時(1時間の昼休憩あり)

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【傍示堂跡と御堂坂】

10:20 傍示堂跡(右) 天王祠(左)
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「彩の国 埼玉」より

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傍爾堂村(本庄市傍示堂)
ちょっと変わった地名である。
傍爾堂村から中山道は大きく南に道をとるが、ここから北西に分岐する街道は、上野国の前橋・沼田を通って越後方面へと達していた(五料道)。
傍示とは境界を示すことを意味し、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。
前橋方面への分岐点であることから、この辺りには、茶屋が4軒ほどあり、飯・酒・菓子などを商っていた。
現在の傍示堂集落センターにある小さな御堂が傍示堂で、隣には天王祠が祀られている。
1615年の参勤交代の制度化により五街道が整備され、本庄も宿場町として発展したが、 それまでは深谷方面から来た大名などは、傍示堂村から本庄宿ではなく北西に分岐する街道を(現在の群馬県玉村町方向に)進んだらしい。
徳川時代之武蔵本庄」によると、「本庄には旅館の設備がなかったため、江戸参勤の大小名は傍示堂より五料村(現在の玉村町五料)に転じ、加賀藩前田家は上州川合(現在の玉村町川合)河岸に本陣(旅館)を設けていた云々」とある。

傍示堂(右側)

急 カーブを左に曲がり、元小山川の石橋を渡って右カーブを進むと国道17号に出る。
資料(中山道分間延絵図)によると、当時はこの辺に「御料傍示杭」があり、ここから「本庄宿」に入る。

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傍示堂集落センターの広場では、ご年配の方が子ども達に野球の指導をしていました。

あのシルバーさん、元野球のプロ?と思うような指導をしていました。

10:29 セブンイレブンで休憩

「さくら香る桜もち」を買って食べました。

10:40 御堂坂
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「彩の国 埼玉」より

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御堂坂

国道17号を渡り、本庄宿に入って最初に渡るのが馬喰橋(現在のセブンイレブンの東側)。
現在橋はなく、水路も細い道路に変わっているが、中山道分間延絵図によるとここに水路があり、豪商の戸谷半兵衛が私費で架けた石橋があった。
ところで、この馬喰橋には面白い話がある。
ある馬方が馬の荷稼ぎで得た金で自分だけ飲み食いし、馬には何も食べさせなかった。これに腹を立てた馬が、帰途の村境に架かる橋に差しかかったところで馬方に食いついたというものである。


この先に見える長い坂が御堂坂だ。
少し進むと左側にひっそりと庚申塔がある。気を付けていないと見過ごしてしまいそうだ。

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10:41 石仏石塔群
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【本庄宿入口と本庄かるた】

11:06 本庄宿標
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中山道石標

中山道 本庄宿」

「右 深谷宿 弐里半
日本橋まで弐拾参里 」
「左 新町宿 弐里
三条大橋まで壱百壱拾弐里 」


11:07 本庄かるた「ね」

この後、あちこち本庄かるたを見かけたので、まとめてここに載せます。

本庄かるた
「 ね 練り歩く御輿で街は
火との波 」
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「 な 夏の宵夜店にぎわう
七夕まつり 」
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「 い 今は昔中山道
宿場町 」
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「 そ 総鎮守 金鑚神社の
神迎え 」
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【蔵の街本庄】

11:10 蔵カフェ
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本庄は蔵の街だそうです。昔の蔵をカフェなどに転用して活用しているようです。

11:11 本庄レンガ倉庫
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案内板
「 国有形登録文化財
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

この建物は、明治二十九年に建された旧本庄商業銀行の寄棟(よせむね)瓦葺二階建煉瓦造の倉庫です。かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。
この建物は、明治二十七年開業の本庄商業銀行で、融資のたんぽとなった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んだった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。
この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸と網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設けています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦を用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。

平成二十五年三月
本庄市教育委員会

11:16 はげかけた蔵
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11:17 本庄・宮本 蔵の街
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案内板を見ている人
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案内板
「 ここは『本庄・宮本 蔵の街』です。旧小森商店(酒問屋)の跡地、建物を保存活用しました。」


「彩の国 埼玉」より

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これらの蔵は明治43年から平成21年まで酒問屋小森商店の本庄支店の蔵として使われていた。
小森商店は本店は騎西にあり、現在は株式会社釜屋として埼玉の地酒で有名な「力士」を販売している。
一の蔵(板張り、元は黒漆喰)は明治12年築造の書類などを保管する店蔵。二の蔵(白壁)は明治22年築造の味噌、醤油の蔵。三の蔵(赤煉瓦)は大正10年築造の完成した商品を保管する酒蔵。
築造された時代によって外装が違うのが面白い。
小森商店開業前の江戸時代、ここには「穀屋」という店があった。主は真塩治右衛門で穀物、醤油などを扱っていた。文化年間には旅籠屋も経営していたそうだ。
一の蔵、二の蔵は穀屋時代に、三の蔵は小森商店時代に築造されたものだ。
小森商店が閉店した後、市民グループ「本庄まちNET」の保存運動により、平成22年、敷地全体が「本庄宮本・蔵の街」として生まれ変わった。

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【金鑚神社と大クスノキ

11:23 金鑚(かなさな)神社
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案内板
「本庄新八景
本庄まつりと金鑚神社

十一月二日、三日に行われる本庄まつり、山車の引き回しは北関東随一といわれる豪華なもので、本庄市民の自慢の一つだ。金鑚神社は第二十九代欽明天皇のころの創建と伝えられ、社殿は極彩色つるし塗りの権現造りでおごそかに鎮座している。 」

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案内板
「 金鑚(かなさな)神社
所在地 本庄市千代田三―二

金鑚神社の祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおとみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)の三神である。
社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。
境内はケヤキイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保九年(一七二四)、拝殿は安永七年(一七七八)、幣殿は嘉永三年(一八五〇)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井絵がある。
当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信嶺(のぶみね)の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。
このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。

昭和六十年三月
埼玉県
本庄市


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案内板
「 鎮守の森のご案内 その1

クスノキ[楠・樟]

クスノキ科 ニッケイ

埼玉県指定文化財で御神木。
樹齢はおよそ400年で、幹周りは6m、樹高は約 30m,四方へ約15mずつ平均に伸びた堂々たる 風格を持っている。当地が生息の北限で、県内巨木誌にも掲載されている。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

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案内板
「 埼玉県指定文化財(記念物・天然記念物)

金鑚神社のクスノキ

昭和四十四年三月三十一日指定

金鑚神社のクスノキは、本庄城主であった小笠原信嶺の孫の政信が、寛永一六(一六三九)年、金鑚神社の社殿を寄進した際に献木したものと伝えられます。
樹高約三〇メートル、目通り幹周約六メートル、根回り一〇メートル、枝張りは南北三三メートル、東西三〇メートルの大きさがあり、樹齢は約三五〇年と推定されています。
生育環境が良好に維持されているため、現在も樹勢が盛んで、枝が大きく広がり、美しい樹形を保っています。
県北地方においては、暖地性のクスノキの巨樹は希少で、神社の御神木として大切に管理されています。

令和元年十二月二十日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会


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案内板
「鎮守の森のご案内 その2

カヤ[榧]

イチイ科 カヤ属

本庄市指定文化財、江戸時代初期の寛永16年 (1628年)頃、社殿新築を記念して植えられたク スノキ、モミと共に鎮守の森を形成している。 残念ながらモミは平成の初めに枯れてしまった。 このカヤは樹齢約400年の古木である。

本庄市総鎮守金鑚神社氏子総代会
鎮守の森を守る会
平成25年設置 」

大門
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楽殿
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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念

金鑚(かなさな)神社 御由緒

本庄市千代田三―二―三

□御縁起(歴史)
本庄の市街地の中心部を東西に貫く県道勝場・本庄線は、かつての中山道である。日本橋から十番目の宿場にあたる本庄宿は、中山道最大の宿場であった。宿場の西端近くに鎮座する当社は、本庄宿の総鎮守として広く知られている。
社記によれば、当社の創建は、欽明天皇の二年(五四一)のことで、社地は日本武尊がかつて駐軍した古跡であるという。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つである児玉党武士によって信仰され、とりわけこの地を在所とした本庄氏崇敬が厚かった。
句だって天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に伴い、小笠原掃部大夫信嶺が本庄城主となったが、同氏もまた当社を厚く崇敬し同年九月に本庄城に入るや翌十月には当社の社伝に装飾を加え、武運長久を祈願している。
小笠原氏は、信嶺の猶子信之の代に下総国(現茨城県)古河城に移封され、更にその嫡男の忠貴は関宿城に移るが、忠貴は本庄城に生まれた縁故により、当社への信仰が特に深く、寛永十六年(一六三九)に社殿の改築を行った。天然記念物として保護されている三本の神木(楠・榧・樅)はこの時植樹されたもので、忠貴はほかに自筆の額や祈願状(市指定文化財)を奉納している。
投射は明治五年に村社になったが、由緒があり信仰圏も広い故をもって、同十七年に県社に昇格した。

□御祭神
・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
・素盞嗚尊(すさのおとみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

□御祭
(以下略) 」

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案内板
「 埼玉県指定文化財(有形文化財・建造物)
金鑚神社社殿

平成二十九年三月二十四日指定

金鑚神社は、中山道本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。本庄実忠が弘治二(一五五六)年に本庄城を築いたら際に、社殿の改造と神田の寄進を行ったらと伝えられており、その後、本庄氏に代わって城主になった小笠原氏も当社を厚く信仰しました。当社には、小笠原氏が古河、ついで関宿へ転封となった後の寛永十六(一六三九)年に、関宿城主小笠原忠貴が社殿を建立した際の祈願文が残されています。
現在の金鑚神社の社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、本殿は享保九(一七二四)年、拝殿は安永七(一七七八)年、幣殿は嘉永三(一八五〇)年の建築と伝えられています。建築年代の古い本殿は一間社流造で、壁面に彩色を伴う穏やかな表現の彫刻が、空間をもたせて配置されています。建築年代の下る拝殿は、入母屋造で、力強く密度の高い極彩色の彫刻で飾られています。幣殿は両下造で、その格天井には、武正南盧や小倉紅於ら幕末期の本庄で活躍した文人たちの天井画が描かれています。
埼玉県内の近世社寺建築は、彫刻装飾を多用する点に特色がありますが、この本殿は壁面に彫刻が付く早い例で、県内における彫刻装飾の変遷を示す一つの指標として、高く評価されています。

平成三十年三月二十五日

埼玉県教育委員会
本庄市教育委員会


11:30 中山道六十九次のタイルの歩道
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11:32 本庄市高尾歩道橋(ここを左折)
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11:45 平成7年の馬頭観音(交通安全)
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2度目の中山道5日目の3(上里町)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/11/173504


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003