紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次5日目の1(深谷宿の2)

2度目の中山道5日目の1
2020年3月13日(金)の1

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【七ツ梅の田中屋跡再び】

前夜、ABホテル深谷に泊まりました。

5:25 起床

6:30 バイキング朝食

7:00過ぎにチェックアウト。中山道に向かいます。

7:23 藤崎藤三郎商店
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7:27 七ツ梅の田中屋跡
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タイムズクラブより

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深谷駅から10分ほど歩いた中山道沿いに、「七ツ梅酒造跡」という場所があります。

レトロな建物
煉瓦造りの煙突が目印です
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こちらは、田中藤左衛門氏が創業し、以来300年以上続いた歴史ある酒造の跡地です。現在はその建築群を活かした、さまざまな施設が運営されています。

約950坪の敷地の中に色々な施設があります。

一歩足を踏み入れると、そこはもう、別世界!独特のレトロな雰囲気が漂っています。
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一昔前の映画でよくみるような景色
映画やドラマのロケ地にもよく使われているそう
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それではまず、七ツ梅でもひと際目立つ存在の、「深谷シネマ」に行ってみたいと思います!

深谷シネマは、“県北にミニシアターを!”という深谷市民の声を集めてできた施設で、全国で唯一の酒造を改装してできた映画館です。

上映作品は、邦画から洋画、ファンタジーからドキュメントまでさまざま。主に観客からのリクエストやアンケートで作品を決められているんだとか!

客席は全部で60席ほど。前後の客席間が広く、リラックスして映画が観られる劇場です。親子ルームもあるので、小さなお子さま連れでも気軽に映画が楽しめますよ!

また、深谷シネマの館内には、作品を観ない人でも自由に利用できる交流スペースが併設されています。

交流スペースには本も置いてあり、自由に読むことができますよ。コーヒーの自動販売機もありますので、寛ぐのにもおすすめのスポットです。

ちなみに、深谷シネマはデジタルだけでなく、フィルムの上映も行っているそう。35ミリの映写機がある、現代では貴重な映画館でもあります。

大きなシネマコンプレックスにはない、温かみが感じられる映画館でした…


シネマかふぇ七ツ梅結ぃ房。
映画の後は、「シネマかふぇ七ツ梅結ぃ房。」でひと休み。

お店の中は、おばあちゃん家に来たかのようなノスタルジックな空間が広がっています。

窓際に並べられた仮面ライダーグッズ
マニア垂涎の仮面ライダーグッズも…!

名物は、どんぶりに盛られたシネマカレー。お値段はなんと300円と格安です!

このカレーは、オーナーさんの祖父が経営していたレストランのレシピを受け継いでいるそう。当時のレシピそのままに再現されていて、どこか懐かしい、優しい味でした!

なお、店内には映画のポスターが貼ってあったり、映画に関するグッズの販売コーナーがあったりと、オーナーさんの映画愛にあふれていました。

※「キネマ食堂七ツ梅結ぃ房。」に店名が変わりました


とうふ工房
カフェで休憩した後は、中山道に面した場所にある、「とうふ工房」におじゃましました

とうふ工房では、消泡剤を使用していない昔ながらの手作り豆腐が販売されています。本店は深谷の大谷にあり、地元で愛されているお豆腐屋さんです!

木綿豆腐とおぼろ豆腐のほか、とうふのもろみ漬などもありました

お豆腐など店頭で販売されている飲食物は店内で食べることも可能で、イートイン用のスペースもあります

また、こちらではお豆腐屋さんでありながら、雑貨などの販売もされているんです。

アーティストさん手作りのバッグやお皿など、可愛い雑貨がズラリ!

独自にセレクトされたセンスの良いものがたくさん置いてありますので、ぜひ、雑貨も見てみてくださいね!


深谷宿本舗
とうふ工房の向かいには、「深谷宿本舗」というお店がありました

こちらでは、BOXごとにアーティストさんの手作りの品が展示販売されています。

陶器から布製品、アクセサリーまで、バラエティ豊富で見ているだけでも楽しいですよ!

ずらりと並べられているハンドメイド作品
ぜんぶで69BOXあります。お気に入りを探してみてください!

店内は女性の方でにぎわっていて、憩いの場にもなっているようでした。

ちなみに、1BOXにつき1カ月1,200円(小は800円)で手作りのものであればどなたでも出店することができるそうです。最長6カ月展示販売することが可能だそうですので、興味のある方は出店してみてはいかがでしょうか…!

鬼瓦工房 鬼義
深谷シネマの近くに、「鬼瓦工房 鬼義」という工房があります。

窓に飾ってある鬼瓦が目をひきます

こちらは、鬼板師(鬼瓦をつくる職人)である塚越氏の工房です。普段は一般公開をしていないのですが、扉が空いている時は工房に飾ってある鬼瓦などを見学することも可能です。

工房内には所狭しと迫力のある鬼瓦やしゃちほこなどが並んでいます

寺社の鬼瓦やお城のしゃちほこなどの制作がメインですが、オーダーすれば個人向けの制作も行っているそうです。

なお、鬼瓦は深谷市ふるさと納税のお礼品にもなっているとのこと。深谷市に納税すれば、制作してもらうことができますよ!※お礼品は金額によって変わります

鬼瓦はその力強さにより邪気を払うことから、魔除け・厄除けの意味があるそうです。お家の守り神として、いかがでしょうか…!?

七ツ梅酒造跡にはほかにもお店があります
今回ご紹介したほかにも、七ツ梅酒造跡には古書店やコーヒーショップなどもあります。個性的な店舗が多く、現代の埼玉にいることを忘れてしまう素敵な空間でした。ぜひ、散策してみてくださいね!
※定休日などはお店によって違うのでご注意を

すぐ近くに商店街の無料駐車場がありますので、クルマでお越しの際にはそちらの利用がおすすめです。

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こちらの敷地内地図を見ると、上記飲用のタイムズクラブの記事に載っている店から、変わっている店もあるみたいです。鬼瓦工房鬼義はありました。

ここに紹介されていなかった、居酒屋二兎三兎
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やはり敷地内にあった、FMふっかちゃん
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【滝澤酒造】

7:36 滝澤酒造
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深谷商工会議所ホームページより

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日本酒を通して、全ての人に幸せを
文久三年に創業し、150年余りの時を刻んで、深谷の地で酒造りの伝統を繋いでいる滝澤酒造株式会社。米の蒸し、麹造り、もろみの仕込みなど昔ながらの道具を使い、代々受け継がれている製法や技術により、伝統的で丁寧な酒造りを行う。
全国新酒鑑評会において4年連続の金賞受賞や、世界の最高権威ともいわれるインターナショナルワインチャレンジでの受賞経歴もあり、輝かしい功績とともに、古くから地元をはじめ、たくさんの方々に広く愛飲されている。

製品の特徴・効果
【菊泉 ひとすじ】
シャンパンと同じ瓶内二次発酵で造られた「菊泉ひとすじ」。酒造りの技術とシャンパンの製法の融合により生まれた、にごりのない透明感が美しい本格的スパークリング清酒。日本酒の旨味と、きめ細やかな泡による繊細な口当たり、爽快感が絶妙で、お祝い事など乾杯の場面や、フレンチ、イタリアンとの相性も抜群。エレガントさ際立つゴールド色がオシャレな新感覚の日本酒である。

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SAKETIMEより

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古くは中山道の宿場町として栄えた深谷。その街道沿いにレンガ造りの佇まいを見せるのが、この酒蔵。深谷はレンガ造りでも知られ、蔵にそびえる約30mの煙突も、この深谷産レンガで造られている。創業150余年来、手作りにこだわり酒造りを行い、大吟醸の絞りも手作業で行っている。「菊泉 大吟醸秘蔵酒」は2014IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)で日本酒部門金賞受賞。5年間低温で熟成させ、洋ナシを連想させるほのかな香りとまろやかさ、奥深い豊かな味わいを生み出している。

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【呑龍院と田所町の常夜燈】

7:38 呑龍院
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https://japan-geographic.tv/saitama/fukaya-downtown.html より

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赤い鐘楼堂のある呑龍院には子守り地蔵が祀られていますが、これは1931(昭和6)年9月21日午前11時20分3秒に深谷断層系の一部が動いて生じた深谷地震西埼玉地震)、マグニチュード6.9によって、旧富国館製糸工場(富国館は、両角市次郎(もろずみいちじろう)によって1899(明治32)年に深谷町……現在の田所町につくられ、大正末年まで操業していた機械製糸工場)の赤煉瓦造りの煙突が倒れ、その下で遊んでいた子どもが数人亡くなったということで、犠牲になった子どもたちの霊を慰めたお地蔵様です。この地震深谷においては関東大震災(1923 年)よりも被害が大きかったそうです。滝澤酒造の煙突に鉄の箍がはめられたのもこの地震でした。

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7:38 旧深谷宿常夜燈
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案内板
「 旧深谷宿常夜燈(田所町) 

江戸時代中仙道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
天保十一年(一八四〇)四月建立。高さ約四メートルで中仙道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。
天保十四年には、深谷宿は約一・七キロの間に八十軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場(なかぜかしば)をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。

平成六年四月
深谷上杉顕彰会(第二十八号) 」


7:48 萱場稲荷神社
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【瀧宮神社、寳登山神社など】

7:53 瀧宮神社
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境内には素敵な木がありました。
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案内板
「 宿根総鎮守 瀧宮神社御由緒

 瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)は室町時代後土御門天皇の御代、明応七年(1498)この地に鎮座されました。当社の裏手には昭和六十一年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていました。この湧水は、地内に点在する遊水池と共に当地一体に広がる十八町歩の水田を潤す水源でありました。
 社殿によると当地は応永二十三年(1416)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重臣岡谷加賀守源香丹の治めるところとなりました。明応五年(1496)六月、当地一帯が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しんだのでした。香丹は直ちに水利の向上を督励し、その水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地を潤したのでした。領民は歓喜し、これを神様のお恵み・導きとして、この遊水池に社殿を建て、瀧宮神社と奉称してお祀りしたのでした。「風土記稿」に「瀧宮明神社 村の鎮守にて 伝々」と記されるように、古くから当社は宿根地区の鎮守として信仰されてきました。
 御祭神 伊邪那岐命(男神) 伊邪那美命(女神)
 (以下略) 」


8:03 正明寺参道口 二十二夜塔など
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8:10 史蹟 高島秋帆幽囚地入口
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中山道一日目に立ち寄ったほうろく地蔵がある大円寺に、高島秋帆の墓がありましたが、その高島秋帆が幽閉されていた場所。今回はパスしましたが、11年前の初めての中山道歩きの時は寄りました。

11年前のブログより

2009.4.9.

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旧道が国道17号に突き当たって合流した所に瀧宮神社があったのですが、地元の方達のボランティアなのか、何人かの方達が掃き掃除をしていました。

岡部という町を通りましたが、ここは関東一の漬け物の町だそうで、各工場からは、タクアンの匂いだとか、エシャレットみたいな匂いだとかがしてくるけれど、表通りはそれぞれの匂いが混じりあって、何とも言えない匂い…

岡部では、岡部藩主安部(あんべ)一家12代の墓のある源勝院へ。12基の墓が並ぶ様は壮観でした。

また、少し寄り道して、高島秋帆幽閉地を見に行きました。岡部藩には城がなく、ここが陣屋跡だということで。

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8:11 岡部神社鳥居
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創建は弘仁(こうにん)年間(810~24年)という古くからの神社です。この写真の鳥居から本殿まで、かなり歩くとのこと。

8:18 石仏石塔群
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8:27 寳登山神社
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wikipediaより

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寳登山神社(ほどさんじんじゃ、常用漢字体:宝登山神社)は、埼玉県秩父郡長瀞町宝登山山麓にある神社。

秩父神社三峯神社とともに秩父三社の一社。宝登山山頂には奥宮(おくみや)が鎮座する。

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その長瀞の寳登山神社が何故ここに小さな社を置いていのか分からないのですが、分社ということなのでしょうか。

8:31 分岐右に入る。
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【雲雀塚】

8:32 雲雀塚(岡新田の句碑)
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芭蕉の句碑で、ガイド本には「雲雀(ひばり)塚」と書いてありますが、深谷市のホームページには、「岡新田の句碑」という名称で載っています。

深谷市ホームページより

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岡新田の句碑


原中や物にも付かず鳴く雲雀

解説
地上の何者にも拘束されることなく広い野原の空高く一心不乱に囀り続けるひばり「続虚栗」

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どなたかのブログに、貞享三年の作、と書いてありました。上記ホームページによると「続虚栗」に入っている句とのこと。「続虚栗(ぞくみなしぐり)」は貞享四年に宝井其角(芭蕉の弟子)によって編まれた、芭蕉芭蕉の弟子たちの句集。

芭蕉句碑(雲雀塚)の傍らの石碑
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芭蕉翁句碑雲雀塚由来の記

 岡部の原はその名高く、平安の昔曽根好忠に歌はれ、室町の頃『回國雜記』に書かれた武蔵野は、北端中山道を距てゝ小山川の清流に臨み、田園よく拓けて一望三百餘。町遠く浅間の噴煙、男体の白雲を眺め、赤城榛名妙義の三山は指顧の間にある。春陽遅々たる日こゝに囀り上る雲雀の声は天下無雙と謳はれ、特に地名に因んて「砂田の雲雀」といはれた。季年彌生の候にこの地を旅する加賀侯も駕籠を停めてその啼聲に聞きほれたとのことてある。果せる哉、俳人小林牛角師は芭蕉翁の名吟

原中や物にもつかす鳴雲雀

の句碑を建てゝその風雅の道を偲んた。郷人呼ひて雲雀塚といふ。

 この句『續虚栗』に載せられ、翁の壯年期の作と推定される。翁が日夜私淑した西行の詩精神を渾化した無著の心を懷しむと共に、凝滯せぬ雲雀の聲の無心さをよく現はしている。 春の日の駘蕩の趣と何か悠久なるものへのいさなひをさへ感しさせる。眞にこの句この碑ほとこの地の景物たる雲雀を讃美するに値したものはなかつた。しかし星霜の久しき遂に名は碎け文字はうすれて鑑賞に堪へられなくなつた。先に蝶園秋香老これを愁へ、この度岡部村文化会の有志これを悲しみ雲雀塚の再建を志し、新たに句の揮毫を信濃なるからむしの主蕾丈大人その由来の文を余に嘱し石に鐫して後代に遺し、長く蕉風の雅懐を傳へることになった。 行人のこの地に立って雲雀の声に耳を傾け、翁の句を口すさむことかあれは、こそなき幸てある。

 昭和三十二丁酉年十月十二日
埼玉県俳句連盟顧問籬窓山口平八撰
蝶園茂木秋香門人江南鳥塚勇三郎書 」


「小林牛角師」は、岡部の人。小林丑松。

「蝶園秋香老」は、矢島村(現深谷市)の俳人茂木秋香。名は信次郎。



【島護産泰神社から豊見坂へ】

8:39 島護産泰(しまもりさんたい)神社
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案内板
「 島護産泰神社

当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内各村からの寄付によりなされた。祭神は瓊瓊杵尊、木之花咲夜姫命という。当社を島護と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内が島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けた為、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。また、当社は、安産の神として遠近より信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一〇日の春祭には、里神楽が奉納される。

平成三年三月

埼玉県
岡部町 」

岡部町は、2006年1月1日に深谷市に統合されました。

11年前のブログより

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2009.4.9.

島護産泰(しまもりさんたい)神社という神社も桜がきれいでした。ここは、利根川が荒れて、水害がちょくちょく起きたため、水の神を鎮めるための神社だったようです。この神社では、4月10日に里神楽が奉納されるとのことですが、4月10日は明日だ!里神楽前日とのことで、参道に注連縄が張り巡らされ、テントが何張りか立てられて、明日配られると思われるペットボトルのお茶が入った箱が積まれていました。

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島護産泰神社境内の庚申塔など
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8:49 「浅間◯神」石碑
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8:53 「中山道古道について」石碑と馬頭観音
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石碑
中山道古道について

現在岡上地区内を通る旧中山道 は、田嶋一明氏東のなだらかな切り通しをくだり、十七号バイパスを横断、瀧岡橋へと至る。
 江戸時代の中山道 にこの切り通しはなく、丸谷商店の前を直進し、田嶋幹弘氏東で右折、八坂神社・百庚申脇の急峻な坂をくだる道筋がとられた。
 切り通しの開鑿は明治期になってからであり、今のように拡幅整備されたのは、瀧岡橋の竣工がなった昭和三年のことであるという。
 江戸期の中山道は、この坂道をくだると、幾度か右折左折を繰りかえし、現在の瀧岡橋より二〇〇メートル程上流で、小山川を渡河した模様である。
 近年の歴史探訪ブームの中、大勢の来訪者を迎えるにあたり岡部郷土文化会では、大名行列が行き交い、皇女和宮の降嫁の行列も通過した往時の中山道の正確な道筋をここに識し、ご案内の一助といたします。

平成二十三年十一月吉日 岡部郷土文化会
撰文 角田恵一」
8:53 Y字を左へ

8:55 村社寅稲荷神社社標と
「旧中山道→上州方面へ」
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道標に従って右折すると下り坂。豊見坂というそうです。豊見坂を下ると、たくさんの庚申塔が見えてきました。


【百庚申】

8:56 百庚申

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ここで写真を撮っていたら、ご年配の男性に「旅人ですか?」と聞かれました。

東海道では、「東海道を歩いているんですか?」とよく聞かれましたが、中山道では「中山道を歩いているんですか」とはあまり聞かれません。それにしても、「旅人ですか?」は初めての質問でした。

どこから来たのか、の質問は、神奈川県です、はわかってもらえますが、さらに地域を限定して聞かれると、大抵わかってもらえず、隣の市を言って、その隣の市です、なんて説明することが多いのですが、この男性は私の地元を知っていました。

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案内板
「 百庚申

百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されてのは幕末、万延元年の庚申の年(一八六〇)で、岡の有志十三人により計画され、翌年の万延二年にかけて完成を見た。
このことは、庚申塔群の中に大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、『田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮弥一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林□(不明)兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助。』という人々であったことがわかる。
もともと、この場所には、享保元(一七一六)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府大老井伊直弼江戸城桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな自見があったり、黒船来航により永い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。
平成三年三月
埼玉県
岡部町 」


【左赤城と滝岡橋】

9:05 岡(西)交差点
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この交差点からこの先の滝岡橋まで、中山道を京方面に向かう旅人が唯一左側に赤城山を見る、「左赤城」
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9:08 滝岡橋 国登録有形文化財
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滝岡橋 wikipediaより

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滝岡橋(たきおかばし)は、埼玉県深谷市岡と同県本庄市堀田の間で小山川に架かる橋。国の登録有形文化財。日本の近代土木遺産のひとつでもある。

概要
中山道が小山川を越える地点に所在する。江戸時代は渡し場があり、明治時代の1901年3月に木橋ができた。橋長は82 mで幅員は7.3 mであった。その後1928年(昭和3年)3月に滝岡橋が完工し、4月14日開通した。鋼製8連桁橋で、橋延長は146.7 m、幅員は6.3 mである。完成から80年経った2008年(平成20年)3月7日に国の登録有形文化財に登録された。橋名は橋が架かる地域である滝瀬村および岡村の頭文字から付けられた。

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2度目の中山道5日目の2(本庄宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/10/155557


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003