紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道4日目の4(深谷宿)

2度目の中山道4日目の4
3月9日(月)の4

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深谷市に入りました】

14:18 地蔵尊
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ここはもう深谷市に入っています。(お地蔵さまの後ろの布に籠原と書いてありますね。)

お地蔵さまの敷地内の石仏。
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14:19 ファミマ(深谷東方店)でトイレをお借りして、エスカップをのみました。

14:34 石仏石塔群
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14:34 東方の一里塚跡
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看板に「一里塚と花畑」とは書いてありますが、ここが一里塚跡であるとの説明はありません。でと、ガイド本に、東方の一里塚跡には、ケヤキがあります、と書いてあるので、ここではないかと。

14:37 鬼林(おにばやし)稲荷大明神
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14:40 庚申塔
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14:43 みごとなコブシの木
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14:46 道標
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道標の字は読めないのですが、この辺りに
「なかぜみち」
の道標があるとのことで、その道標であるならば、
船運で賑った利根川沿いの中瀬河岸への道標で立場でもあったようです。

15:00 熊野大神社鳥居
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15:08 御嶽神社
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15:11 地蔵尊
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15:11 愛宕神社
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15:18 みかえりの松
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案内板
「 永く市民に愛されてきたみかえりの松は、平成十八年二月、枯死により伐採のやむなきに至った。
 往時を偲び、ここに二代目のみかえりの松を植える。

平成十八年十一月一日

  国土交通省 大宮国道事務所 」

15:20 歩道橋を渡りました。
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15:24 旧深谷宿常夜燈
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【旧家や立派な建物など】

15:27 大谷邸
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深谷市ホームページより

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(登録有形文化財は)
主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件。昭和初期のお助け普請として多くの地元の職人によって建てられた。設計は、魚住儀一による。
主屋は、質の高い数寄屋風建物で、高度で精緻な技量が発揮されている。洋館は、主屋南面に接続するユーゲント・シュティルのスタイルでまとめられている。

手前が中門及び塀、その奥に洋館
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「&Stories by Mitsui Home」より

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「建物語」(1) ~深谷 旧大谷藤豊邸~
JUN.23.2016

宿場町として栄えた歴史をもつ埼玉県・深谷。この街には昔の面影を留める歴史的建造物が点在しており、当時の暮らしの様子や職人の技、美意識など貴重なものが数多く残されています。今回は、昭和初期の大恐慌の中、“職人たちの生活を救うため”に建てられた深谷の洋館を、銅版画家・山本容子さんとともに訪ねました。

深谷市街の中ほどに立つ、旧大谷藤豊邸。緑の屋根と窓のアーチが印象的な洋館は、街のランドマークとして愛されています。

大谷家は江戸時代中期から続く中山道深谷宿の有力商家。昭和初期の大恐慌の際には、当時深谷町長だった当主の大谷藤豊が困窮する人々に手間賃や食糧を与えるため、自邸の建築事業を行いました。

お助け普請の典型例であるこの建物は、連日100人以上の職人を1年半も雇用して建てられたそう。職人たちにとっては、長期間働けば生活が助かります。そのため、誰もが自分の腕前を最大限に生かし、隅々まで高度で精緻な技量が発揮されたのです。

「この家の印象的な点は、全体もさることながら、やはり職人の技量が表れた細部でしょう。使われている木材も柿や杉、桐、欅など実に多彩。絵を鑑賞する際、どんな絵の具や絵筆を使ったのだろうと注目するように、まずは細部の質感に目が奪われてしまう。洋と和のバランスも絶妙で、素材と技量が交響曲を奏でるよう」と、竣工当時のままの細やかな意匠に、美意識を感じとる山本さん。

大谷藤豊の肖像画が飾られた1階の応接間は、格天井をはじめ匠の技量が随所に見られ、その丁寧で緻密な仕上げは、私的な2階空間にまで施されています。色ガラスの明かり取り飾り窓など、職人の繊細な技と心意気を伝える美しい装飾も。

現在は藤豊の三女である百子さんがご主人とともにこの家を守られていて、家具や照明器具なども当時のままに残されています。平成16年には、国の登録有形文化財に指定されました。特筆すべきは、「大谷会」ともいうべき職人同志の応援体制ができあがり、篤志的に保存維持され続けている点です。「職人たちの心意気や、建て主の強い情熱が感じられる。その熱い精神は、時を超えて今の人々にも伝わり、建物を残そうという愛着へつながっていると思う」と 、山本さんは共感を交えて締めくくった。

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15:28 だいまさ(現米店)
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江戸時代から続く米穀店です。


【煉瓦の町 深谷


15:37 煉瓦卯建(れんが・うだつ)の旧商家
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深谷はネギが有名ですが、煉瓦の町でもあります。

深谷市ホームページより

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「 レンガのまち深谷」のレンガ史は、渋沢栄一翁が明治20年につくった日本煉瓦製造会社(後の日本煉瓦製造株式会社)の工場に始まります。

 日本煉瓦製造会社の工場は、ドイツ人技師チーゼを招いて操業を始めました。ホフマン輪窯(わがま)6号窯、旧事務所、旧変電室、備前渠鉄橋が国の重要文化財に指定されています。現在は、市に寄贈され保存されています。

 日本煉瓦製造会社でつくられたレンガは、明治時代の代表的レンガ建築である、司法省(現法務省)・日本銀行・旧東京裁判所・旧東京商業会議所・赤坂離宮・旧警視庁・旧三菱第2号館・東京大学・東京駅などに使われました。
 また、ここで製造したレンガを輸送するため、工場から深谷駅まで4.2キロメートルにわたって引き込み線が敷設されましたが、途中の福川に架けられた鉄橋はポーナル型プレートガーダー橋として現存する日本最古(明治28年)のもので、現在も大切に移設保存されています。

 深谷市では、この日本煉瓦製造会社の設立をはじめ、日本近代産業の指導者であった渋沢栄一翁の功績を顕彰するため、翁の生地に近い、下手計に「渋沢栄一記念館」を設置し、翁の肉声テープをはじめ、多くの資料を展示しています。

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JUGEM」より

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職人が遺した仕事

かつて世の中には、すご腕の技術を持った職人がいました。
人の営みの移り変わりにつれ、いつしか仕事がなくなり技の伝承も廃れました。
市井の名もない、その道の職人たちが遺した仕事を拾いました。

レンガ積み職人が遺した建造物 ~ 埼玉県編 (Ⅰ)  大きなレンガ製うだつの上がる塚本商店(深谷市

深谷市本住町の旧中山道沿いに伝統的な町屋建築にレンガの大きなうだつがある「塚本燃料商会」の建物があります。

うだつとは、町屋が隣り合って連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐために造られた袖壁をいい、レンガの防火機能をうまく利用して両側を防御しています。

塚本商店の店舗は大正元年(1912)に建てられた木造2階建てで、梁は秩父の山から切出した石を使用しているほか、うだつの側面を鉄枠で耐震補強し花崗岩の隅石を設置するという頑丈な造りをしています。

防火壁として取り付けられるようになったうだつも、江戸時代中頃になると建物の装飾としての意味合いに変容していったようです。

上方では自己の財力を誇示するかのように商家の屋根には競って立派な装飾性のうだつが上げられたといいます。ですからうだつのある家は、経済的に恵まれた裕福な家ということになります。

地位、境遇が向上しない、あるいは思うように出世しないときなどに「うだつが上がらない」といいますが、こうしたことから派生した慣用句になります。

塚本燃料商会は、上敷免にあったレンガ製造の最大手の日本煉瓦製造工場に粉炭を中心とした燃料炭を納入していたといいますので、このうだつも同社製レンガを使用したものと思われます。

うだつの大きさに目を奪われがちですが、レンガの積み方も随所に装飾を施し市内のレンガ建造物ではユニークといえます。

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お茶屋さんのショーウィンドーに、ふっかちゃんがいました。
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【本陣跡】

15:43 飯島本陣跡(現在は飯島印刷所)
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案内板
「 本陣
本陣は、脇本陣並びに旅籠とは違い、一般人は利用出来ず、即ち公儀の厳重な誓約を受け続けました。
中山道筋の貴人の通行の例としては年間、泊10件、休憩40件ほどで誠に少なく、為に本陣職の大半は、他にも主たる職業を持って居ました。飯島家は宝暦二年(一七五二)より明治三年迄、足かけ六代に亘って、已むなく本陣職を続けざるを得ませんでした。
上段の間(晩翠堂)次の間、入側(いりかわ)がこの奥に現存しております。

平成八年五月 深谷上杉顕彰会 第36号」

入側は聞いたことはあるけれど、説明出来ないので、そして、上段の間は、東海道中山道を歩いていて何回か見学しましたが、やはりうまく説明出来ないので、上段の間、次の間、入側をデジタル辞典で調べてみました。


デジタル大辞典小学館アカデミーより

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じょうだん‐の‐ま〔ジヤウダン‐〕【上段の間】 の解説
書院造りで、下段の間に続いて、框 (かまち) の高さだけ床を高くした座敷。主君が家臣と対面した所。上段。

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実用日本語表現辞典

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次の間 控えの間
読み方:ひかえのま

旧家や大名屋敷、ホテルや宴会場、現代の一般民家などにある部屋のうち、来客用の部屋、主の部屋、式場などといった主要な部屋に隣接している小さい部屋を意味する語。控えの間は一般的に、家の使用人が待機場所として使用したり、会の準備のために使用したりする。

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三省堂 大辞林 第三版

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いり かわ -かは 【入側】
座敷と濡れ縁との間の細長い通路。畳を敷いたものを縁座敷という。いるかわ。

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深谷シネマ】

15:43 深谷シネマ
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wikipediaより

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埼玉県北部に存在する、唯一のミニシアターである。深谷シネマの立地する七ツ梅酒造敷地内には、飲食店やお茶屋・古本屋など関連店舗もあり、映画を楽しんだ観客が歓談するスペースとなっている。また、七ツ梅酒造内ではドラマや映画作品のロケも数多く行なわれている。

全国の映画館数がピークを迎えた1960年の時点では、深谷市の映画館は豊年座、ムサシノ館、電気館の3館が存在していたが[〜、映画の斜陽化で1970年代までにはすべて閉館。深谷市民としては熊谷市群馬県高崎市が最寄の映画観賞という状況が続いた。

市内にミニシアターを立ち上げるためのサークルが、1999年3月発足。3,300人分の署名が集まり、2000年にNPO法人の認証を受け、同年、市内の洋品店「フクノヤ」の店舗2階に「フクノヤ劇場」としてスタートするも、わずか1年で撤退。その後も市民会館での上映会を行いながら資金を集め、2002年7月27日、銀行店舗の跡地を改装してオープン(座席数は44席)。当初は「チネ・フェリーチェ」(イタリア語で“幸せな映画館”の意味)の名称であったが、地域の人々から「名称が覚えづらい」という声によって、半年後に深谷シネマという名称に変更。「チネ・フェリーチェ」はその愛称となっていた。

2010年4月16日、町の区画整理事業のためそれまでの深谷市仲町から、深谷市深谷町の七ッ梅酒造跡に移転して再オープン。座席数も57席に増え、映写機などの設備もリニューアルした。全国で唯一の造り酒屋を改装した映画館になる。

2013年8月、デジタルシネマシステムが導入された。ただしこれまでのフィルム映写機も引き続き設置され、過去のフィルム作品も上映できる環境となっている。

年間入場者は2万3000人程度。ボランティア10人が運営の中心となっているため、年間経費約3500万円に対して収支トントンの経営という。深谷シネマの活動が核となって、深谷市では2004年から映画祭[7]が開催され、映画やテレビドラマのロケーション撮影誘致も年50本程度に達している。

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料金は、深谷シネマホームページによると、

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■料金

一般 : 1,100円(2020年1月4日から1,200円)
障がい者 : 900円
高校生 : 800円
小・中学生 : 700円
幼児(3歳以上) : 500円
親子ルーム使用料 : 1,000円 (パパママ応援ショップ 優待カードをお持ちのお客様は無料

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深谷シネマは本来は毎週火曜日が定休日なのですが、このブログを更新している2020年4月、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、深谷シネマは4月9日から当面の間休館しています。


15:44 田中屋 七ツ梅の蔵元跡
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一般財団法人「まち遺し深谷」ホームページより

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七ツ梅酒造跡のご紹介

七ツ梅酒造の沿革
七ツ梅酒造は、元禄7年(1694年)に近江商人の田中藤左衛門が創業した酒造です。創業以来300年の歴史を有し、県内でも1、2を競う老舗蔵元でしたが、2004年(平成16年)に廃業し、現在は所有者の意向を受けて、一般社団法人まち遺し深谷が、この歴史的・文化的な施設の保存および運営・管理を行っています。約950坪の敷地に母屋、店蔵、煉瓦造りの精米蔵、煉瓦煙突などの建築群が遺っています。

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今日は深谷が終点なので、ここから折り返します。

さっき見逃したところなど、戻ってもう一度見て回りました。

15:50 藤橋藤三郎商店
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藤橋藤三郎商店ホームページより

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創業
江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に創業者は越後の柿崎(新潟県…現在の上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた。

銘柄の由来
代表銘柄の「東白菊」は関東の東(あずま)に酒の清らかさを白、清酒の香りを菊で表現しております。

代表挨拶
郷土の偉人、渋沢栄一翁の唱えた「忠恕(ちゅうじょ)の心(真心と思いやりの精神)」を経営のモットーに品質優先を心掛けており、定番商品以外にも四季折々のお酒を提供したいと思っております。

平成22年4月に店舗と工場を新築し、よりお客様が入りやすい店作りを心掛け、様々な世代の方に日本酒を楽しんでもらえるよう、バリエーションに富んだ品揃えや、容器の形、色、ラベルにも工夫をしております。

また、店舗裏側の敷地には歴史的に価値のある深谷レンガで造られた煙突、蔵、井戸なども残っておりますので、是非お立ち寄りください。

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深谷の町には、あちこちたくさんの、渋沢栄一のポスターや旗が設置されていました。
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近代資本主義の父と言われる深沢栄一は、日本の一万円札の顔に選ばれ、来年のNHK大河ドラマの主役にも決まっています。(渋沢栄一役は吉沢亮)


脇本陣跡】

15:53 明治天皇御休息の地(脇本陣跡?)
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埼玉石炭㈱と書いてありますが、調べたら、脇本陣跡の「きん藤旅館」の古い蔵だそうです。

楽天トラベル トロン温泉きんとう旅館

きんとうページより

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『 中仙道ときんとう旅館』          当店は江戸時代末期 文政年間に中仙道深谷宿で旅籠(はたご)として開業しました。「きん藤」という屋号は、創業者の藤平(とうべい)が近江(現在の滋賀県)出身だった事から近江の“近”と藤平の“藤”をとり、近藤(きんとう)になったそうです。創業以来180年間、旅館一筋でこの中仙道深谷宿で商いをさせて頂いております。


 英泉の「木曽街道六十九次」(広重と合作)の版画に描かれている深谷宿は当時80軒の旅籠屋を持つ県内中仙道九宿で最大の宿場町でした。それは今でも中仙道の東西に残る高さ四mに及ぶ“常夜灯”や“見返りの松”立ち並ぶ“商家”などからもしのぶ事が出来ます。
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ここには書いてありませんが、きんとう旅館は脇本陣を務めていたこともあるそうです。

きんとう旅館の裏手に明治天皇御休息の地の碑が残っているそうですが、脇本陣跡なら納得がいきます。


深谷駅〜東京駅にそっくり!】

16:00 からくり時計
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ちょうど16:00で、両手に人形を持った渋沢栄一が出てきました。

渋沢資料館所蔵の写真をモデルにしています。
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fukapediaより

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渋沢栄一からくり時計

渋沢栄一からくり時計は、深谷駅北口にある時計塔。時計塔のガラスケースの中には普段ふっかちゃんが見えているが、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った渋沢栄一が現れ、時刻を知らせるしかけになっている。

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私はたまたま正時で渋沢栄一が現れましたが、普段はからくり時計の中では、ふっかちゃんがくるくる回っているそうです。
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ふっかちゃんがくるくる回る、からくり時計の写真は rocketnews24.comさんからお借りしました。


深谷ねぎっこブログ」より

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1996年(平成8年)8月 - 橋上駅舎に改築。東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることにあやかり、東京駅を模して改築される。

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また、上記「ふかやねぎっこブログ」によれば、2010年2月12日にからくり時計の除幕式があったそうです。つまり、前回2009年4月に私が深谷駅に来たときには、このからくり時計はなかったんですね。

令和元年から二年二月まで外壁工事。2月いっぱいまで足場が組まれていたらしいので、私が行ったときはきれいになったばかりだったのです。

どうりで、11年前の写真とは外壁の風合いが違う。

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16:01 深谷駅
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11年前に来たとき、こんな2階に入り口のある駅だったっけ?

写真を見比べてわかりました。11年前は渋沢栄一像がある北側の広場から撮ったんですね。これは11年前に来たときは撮った写真。
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深谷駅を正面から撮りたい場合は、2階の広場に上らないと撮れません。

wikipediaによると、

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1996年(平成8年)7月10日に橋上駅舎に改築。東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることにあやかり、東京駅を模して改築された。

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とのことなので、前回私か来た2009年4月には、もう橋上の駅でした。

16:02 渋沢栄一
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渋沢栄一像付近から撮った深谷駅
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16:03 深谷駅
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「そうだ埼玉」より

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東京駅と深谷駅は似ています。

こちらが東京駅。
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出典 : http://www.fukaya-ta.com/fukaya/wp-content/uploads/2012/07/kinenkan.jpg

こちらが深谷駅
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並べて細かく比較すれば違いは分かりますが、パッと深谷駅だけの写真を見せられれば、「東京駅?」と思ってしまうほど似ている。


【東京駅のレンガは深谷のレンガだった】
ミニ東京駅とも言われている深谷駅のこのデザインは、1996年の改築時に、東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにつくられたもの。

深谷駅は本物のレンガではなく、コンクリートにレンガ風のタイルを貼ることで東京駅を模しているわけですが、そもそもなぜ東京駅のモチーフにこだわったのか。理由は大正時代にまで遡ります。

深谷駅が東京駅に似ている理由、それは、大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷にある日本煉瓦製造で製造された煉瓦が、70キロ以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたという史実に因んでいます。

つまり東京駅のレンガは深谷市のレンガだったわけです。

なので、深谷市にはレンガでつくられた建物が非常に多いんです。

そして、この日本煉瓦製造の設立に携わっていた人こそ、埼玉県深谷市出身の、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一です。


背景を紐解いていくと、色々なものが少しずつ繋がってくるのが分かってきます。

繋がってくると言えば、この深谷駅と東京駅は、2015年3月14日に開業した上野東京ラインで、本当に一つの線で繋がりました。

(東京~深谷上野東京ラインで1時間26分)

東京駅100周年でまた注目が集まっている深谷駅

是非一度足を運んでみては。

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駅前広場の案内板
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案内板
深谷の子『6つの誓い』
渋沢栄一翁の心を受け継ぐ深谷教育〜

夢とこころざしをもち、まごころと思いやりのある深谷の子


立志の精神(夢とこころざし)


私は『夢』に向かって努力します。
夢は、人生を豊かにします。
目標を立て、日々努力し、『こころざし』にしてかかげていきましょう。

私は『毎日勉強』します。
真剣に授業にのぞみ学び合うなかで、学力は定着します。
家庭でも計画を立てて、毎日学習をしよう。

私は、たくさん挑戦、『体験』します。
実際に身をもって学ぶことで、新しい発見ができます。
今までやっていなかったことにも挑戦し、体験を広げていきましょう。


忠恕(ちゅうじょ)の心(まごころと思いやり)


私は、『すすんであいさつ』します。
あいさつは、社会生活の基本です。
『おはよう』『いってきます』
だれにでも、気持ちをこめて、 笑顔で元気にあいさつをしましょう。

私は、脱いだ『くつ』を『そろえ』ます。
くつそろえは、気持ちを整えることにつながります。
いつでもどこでも、自分のくつはもちろん周りのくつも、そっとそろえてみましょう。

私は、『こころ』のこもった『ことば』をつかいます。
『ありがとう』『どういたしまして』『ごめんなさい』『大丈夫です』
支え合い、助け合い、人への思いやりは、温かい言葉となって表れます。ことばを大切にしましょう。

深谷市教育委員会
深谷市子どもサポート市民会議
深谷市PTA連合会 」

深谷駅から上野東京ラインに乗って帰りました。
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本日の歩数 48,170歩 29.38km


2度目の中山道5日目の1(深谷の2)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/08/233403


二度目の中山道六十九次歩き目次1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947

絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
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二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
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