岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道六十九次歩き5日目の3(上里町)

2度目の中山道5日目の3
3月13日(金)の3



浅間山古墳】

11:59 バス停が上里町コミュニティバス「こむぎっち号」に変わっていました。「こむぎっち号」は1日4便しかない。
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12:00 浅間山古墳

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お稲荷さんかと思ったら、古墳でした。

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案内板
浅間山古墳(せんげんやまこふん)

町指定文化財
昭和37年2月22日指定

浅間山古墳は、上里町東部から本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群を構成する1基です。墳形は直径約38メートル、高さ約6メートルの円墳と考えられます。主体部は角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用した胴張両袖型(どうはりりょうそでがた)横穴式石室です。石室の規模は、全長約9・48メートル、埋葬部にあたる玄室(げんしつ)は長さ6・48メートル、奥壁幅2・2メートル、最大幅2・4メートル、天井部高2・5メートルです。入口にあたる羨道(せんどう)は長さ約3メートル、幅1・2メートル、高さ1・8メートルです。


出土遺物は、昭和2年に玄室の一部が露出した時 鉄矛 てつ ぞく に出土した直刀2、鉄鉾1、金環(耳環)5、玉類、鉄鏃 多数(現在東京国立博物館収蔵)昭和63年から3回 行われた範囲確認調査で、直刀4、鉄鉾1、鉄鏃(てつぞく)多数、 須恵器平瓶(すえきひらべ) 、銅鋺 (どうわん)1が出土しています。(上里町立郷 土資料館保管)。特に銅鋺は 、仏教文化との関係から 注目される出土品です。築造時期は、出土遺物など から古墳時代終末期の7世紀後半に築造され8世紀 初頭まで墓として使用されていると考えらます。

上里町教育委員会

12:01 泪橋跡 欄干の一部と、由来の石碑
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石碑
泪橋の由来

此の地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先
仲山道に、泪橋なる橋ありき。
徳川幕府は、大名諸役等通行の砌、
街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり。
農繁期の最中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々この橋に憩い、家族を偲び身のはかなさを嘆じて泪しきりなり。 」

12:05 セブンイレブンで、「まんぷくポークカレー」を買って、外の縁石に座ってランチ。
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結構いろいろな人たちに、

「美味しそうだね」と声をかけられました。

12:38 庚申塔
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12:42 神保原一丁目交差点 ここを右折します。
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この神保原一丁目交差点あたりでトイレに行きたくなったので、本来はこの交差点で右に曲がるのですが、左に折れて、12:55 さっきとはまた別のセブンイレブンでトイレを借りて、R-1ヨーグルトを飲みました。

13:02 石塔群と薬師堂(中央が薬師堂)
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お堂の中の薬師
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13:03 庚申塔
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13:12 八幡神社(金久保神社)
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案内板
「 金久保神社
1962年2月22日指定
上里町指定文化財

金久保神社は大永5年(1525) 金窪城主斉藤盛光が 鎌倉の鶴岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、 神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失しました。その後、 元和年間(1615~24)に 村民より中山道の現在の地 に 遷座したと伝えられています。
ここには、拝殿に狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描か れた天井絵があります。この天井は中央に雲竜図が描かれ、 そのまわりに66枚の花鳥画が描かれています。中央の龍の絵に『文久3年(1863) 癸(みずのと)亥卯月吉日 狩野探僕守邦門人 祥雲斎俊信画』とあります。
また、拝殿の外側の彫刻は、もともと東京の湯島天神に設置する予定だったものを譲りうけたもので、明治の中頃に造 られました。
この神社には金久保神社獅子舞保存会があって、今でも秋の大祭には獅子舞が行われています。
上里町教育委員会

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案内板
「 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
金窪神社 御由緒
上里町金久保一五一一―八
□御縁起(歴史)
神流(かんな)川と烏川の合流点付近に位置する金久保は、『金窪』とも書き、その地内には秩父郡土豪で、南北朝時代新田義貞と供に転戦した畑(はた)時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は、戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に徳川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斎藤氏の居城であった。
『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運守護の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に、口碑によれば、元和年間(一六一五〜二四)に中山道の回答によって現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇メートルほど東にある旧地は『元八幡』と呼ばれている。
江戸時代には天台宗長命寺別当であったが、神仏分離に頼その管理を離れ、明治五年に村社となった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後、明治四十一年に字松原の無格社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には、字西金の村社丹生(たんしょう)神社、その境内社三社、大字内の無格社七社の計十一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。

□御祭神と御神徳
誉田別命(ほむたわけのみこと)・・・
交通安全、厄除開運、家内安全

□御祭日
(以下略) 」


13:24 畑 時能供養祠 銅鐘(陽雲寺)
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案内板
「県指定旧跡 畑時能供養祠一基 

昭和三十八年八月二十七日指定

 参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能(はたときよし)の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが暦応二年(一三三九)越前国で足利方に討たれた。
 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しゅきゅう)を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られニ石祠が建立されて、両者の姓を取り『畑児塚(はたこづか)』と呼ばれている。


県指定有形文化財
銅鍾 一口

昭和三十九年三月二十七日指定

この銅鍾は、頂部の竜頭が上向きで朝鮮式と呼ばれている鐘である。高さ一九〇センチ、口径九八・三センチ縦帯に仏像四体を陽鋳し、下帯に唐草文駒の爪には蓮弁を施し、乳頭は各面に二十五個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、計百八個を鋳出す。これは百八つの煩悩を表したものである。
池の間に長文の銘があり、天命(てんみょう)鋳物(いもの)として栄えた下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の鋳物師井上元峰によって、元禄八年(一六九五)に鋳造されたことがわかる。江戸時代中頃の優れた銅鍾の一つとして、すでに国認定重要美術品の指定を受けている。

昭和五十八年三月二十四日

埼玉県教育委員会
上里町教育委員会
陽 雲 寺 」


上記案内板には、鐘の部分の名称などが出てくるので、参考として「goo国語辞典 梵鐘の部分名称の図 」を載せます。
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案内板
「 陽雲寺

所在地 児玉郡上里町金久保七〇一

陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久二年(一二〇五)の創建と伝えられ伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘三年(一三三三)新田義貞鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来“新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文九年(一五四〇)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を嵩栄寺と改めたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正十九年、金窪の領主となった川久保信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当時の境内に居住したが、元和四年(一六一八)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって、寺号を嵩栄山陽雲寺と改称した。元和五年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。
なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鍾や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能(はたときよし)の供養塔などがある。

昭和六十年三月
埼玉県
上里町

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案内板
上里町指定文化財

一、銅鍾(国指定 昭和二十年)
一、畑時能公之墓(国指定 大正十二年)
一、武田信玄夫妻画像
一、釈迦如来坐像
一、実美公御野剱
一、古銅正観世音立像
一、武田信玄公起請文
一、跡部美作守軍状
一、陽雲院殿の墓

昭和三十七年指定
上里町教育委員会


13:30 愛宕神社 畑 時能首塚
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13:32 中山道に案内板
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案内板
中山道

中山道は江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
金窪村(現上里町字金久保)は、江戸から二十三里余。文政期(一八一八から)の家数は一六二軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(つのぶち 現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応二年(一六五三)頃です。
勅使河原村(現上里町大字勅使河原)家数は二八〇軒、絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで、国道十七号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠(みとおしとうろう)が移築されている大光寺が見えます。

上里町教育委員会

13:39 庚申塔など 石仏石塔群
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13:40 勝場の一里塚跡
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石碑
「 一里塚跡

昭和四十九年一月吉日

上里町教育委員会


13:45 神流川(かんながわ)
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13:46 復元見透灯籠
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橋の入口柱の根元の碑
「 見透灯籠のいわれ

上武二州の国境を流れる神流川は、往古より荒れ、川で出水毎に川瀬道筋を変えて旅人や伝馬、人足の悩みの種であった。
文化十二年(1815年)本庄宿の戸谷半兵衛が川の両岸に灯籠を建立し、夜になると火を燈し夜道を往来する旅人の標準とした。
この常夜燈のモチーフとなった武州側の常夜燈は、見透灯籠と呼ばれ大光寺に、移築されている。 」
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2度目の中山道5日目の4(新町宿から藤岡市)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/13/105821