紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き5日目の4(新町宿から藤岡市)

2度目の中山道5日目の4
3月13日(金)の4


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神流川合戦古戦場跡記念碑は移転】

神流(かんな)川を渡ると高崎市。いよいよ上州(群馬県)です。東京都→埼玉県→群馬県とやって来ました。


13:56 神流川合戦古戦場跡記念碑

貼り紙
「 仮移設のお知らせ

国道17号神流川橋改築に伴い、神流川合戦古戦場跡記念碑を仮移設いたしました。
仮移設場所は、下記地図を参照して下さい。 」
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神流川合戦については知らなかったので、本来ここにあるはずだった案内板を読み取った文を見つけたので、お借りします。

案内板
神流川合戦

天正10年(1582)6月19日織田信長が本能寺で倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、
これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて
石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760もの戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。
後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。 」

神流川合戦古戦場跡記念碑と案内板は、工事前の本来ならこうなっている、という写真をネットから拾ってきました。
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11年前のブログより

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2009.4.10.

古戦場碑の先に自衛隊駐屯地がありましたが、桜におおわれた敷地内に、いかついジープのようなトラックや、零戦が置いてありました。

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13:59 分岐右へ 常夜燈
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この分岐が新町宿の入り口です。ここにある常夜燈は、先ほどの神流川の見通し灯篭の実物大の復元だそうです。常夜燈の前に道標が立ち、「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」と彫られています。



【新町八坂神社】

14:03 新町八坂神社
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案内板
「 新町 八坂神社

八坂神社は、明治の神仏分離まで(八坂)祇園社と称した。社伝では斉明二年(六五六)高麗より来朝した調進副使伊利之使主(いりしおみ)が新羅国(しらぎ)牛頭山(ごずさん)に祭られる素戔嗚尊(すさのう)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まりとしている。一般に祇園社の創立は貞観(じょうがん)十八年(八七六)とされている。ご祭神は素戔嗚尊を主神とし櫛稲田姫(くしなだひめ)命と八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭る。
著名な祇園祭清和天皇貞観十一年(八六九)、疫病が大流行した際、天皇の遊覧の場所である神泉苑に鉾(ほこ)六六本を建て御霊会(ごりょうえ)を行ったのを起源とし、天祿元年(九七〇)から恒例となった。
『弘文堂 神道辞典』

祇園社では、疫病を防ぐ事から転じて諸悪から身を護る神とされ、悪鬼を祓う神としても信仰された。
新町八坂神社は、中山道沿いに武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に至る玄関口に位置し、疫病の侵入と蔓延を除き、諸悪から身を護り、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられている。


柳の茶屋
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新町宿東入口の右側に土蔵造りの八坂神社がある。横に幹の細い若柳が芽をふき、その下に『傘(からかさ)におしわけみたり柳かな』の芭蕉の句碑が立っている。高さ八十cm横五十cmぐらいの雲母岩に陰刻され、新町の俳人、小渕湛水(たんすい)と笛木白水が建てたと『諸国翁墳記』に記載されているが、寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間といわれている。
宿の東端に柳の大樹あり、往来する旅人たちは緑のあざやかさにみとれ、傍らの茶屋に休んで旅情を慰め、いつしか柳茶屋と呼ばれるようになった。
中山道を行く 荻野 悌 著』」

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案内板
「 柳茶屋の芭蕉句碑

『諸国翁墳記(しょこくおきなづかのき)』に『翁塚上州緑野郡新町宿小渕湛水・笛木白水建』『傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな』とあります。
『諸国翁墳記』は、諸国にある芭蕉句碑を記録したもので、滋賀県大津市の義仲寺(木曽義仲芭蕉の墓がある)で出版されました。
この句碑は寛政五年(一七九三)から天保五年(一八三四)の間に、近くに柳の大木があることから、『柳茶屋』と呼ばれた茶屋島田屋の側を選び、湛水と白水が建てたと思われます。 」


14:08 諏訪神社
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今回は鳥居の写真だけ撮ってパスしてしまいましたが、11年前は見に行きました。

11年前のブログより

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新町宿の諏訪神社には、元禄時代の石鳥居があるとのことで、見に行ったら、「顔のある木」がありました。
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諏訪神社の今の鳥居は新しいものです。古い鳥居は老朽化して危険だったため、取り払って境内奥に土に埋め込まれたように保存されています。

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14:09 専福寺
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14:09 田口文五郎信武墓所(専福寺)

関流八伝と言われた、田口文五郎信武墓所が専福寺にあるそうです。
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側面
「文政九年(一八二六年)当町(新町)に生れ江戸の和算の権威者
白石長忠門人となり多くの子弟を育てた」

関流とは、和算の流派で関孝和を祖とする日本独特の算術です。


14:14 高札場跡(新町宿)
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案内板
「 高札場

高札場は、江戸幕府や諸藩が庶民を統治するための法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰・街道の追分・渡船場など、人目につきやすい各地の主要な場所に設けました。
新町宿では、落合新町と笛木新町の境に設置されました。キリシタン禁制は特に重要で、その管理は厳重で木の柵を巡らし、石垣あるきは土盛りをし、妄(みだ)りに近寄らせませんでした。管理責任者に町村役人を命じて、付近の清掃、火災の際の避難などにあたらせました。」


【行在所公園】

14:16 行在所公園でトイレへ。
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明治天皇行在所
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案内板
明治天皇新町行在所
(行在所公園)

明治天皇は、明治11年8月から10月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は 木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定をうけました。 」

行在所公園で少し休憩しました。
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14:25 群馬銀行新町支店
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【高瀬屋跡】

14:26 小林一茶宿泊の旅籠高瀬屋跡
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石碑
「 史跡 旅篭高瀬屋跡


 十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る

 かゝることのおそれを思へばこそ彼是日を費して門出はしつれ。いまは中々災ひの日をよりたるやう也、道急ぐ心も折れて日は斜ならざれど、

新町   高瀬屋五兵衛に泊

 雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更のころ、専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして、枕おどろかしていふやう、『爰のかんな川に灯篭たてゝ、夜のゆききを介けんことを願ふ。全く少きをいとはず、施主に連れ。』とかたる。『かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚、さのみぼさちのとがめ給ふにもあらじ、ゆるし給へ。』とわぶれど、せちにせがむ。さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくやあらんと思ふ。十二文きしんす。

   手枕や小言いうても来る螢

 迹へ帰らすれば神奈川の橋なく、前に進んと思へば烏川舟なし。たゞ篭鳥の空を覗ふばかり也。

   とぶ螢うはの空呼したりけり

   山伏が気に喰ぬやら行螢

一茶『七番日記』より 」

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案内板
小林一茶宿泊の高瀬屋跡

 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化七年(一八一〇)五月十一日に次のような記述があります。
 『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が 度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった』

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

その時に一茶がこれらの句を詠みました。 」


【小林本陣と弁財天】

14:30 新町宿小林本陣跡
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案内板
「 小林本陣

新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(一八〇四~四四)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣副本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴りには、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。
 延享二年(一七四五)の『落合図』が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けされて記されています。元禄四年(一六九一)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。 」


14:33 弁財天
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案内板
「 弁財天由来

温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和四十八年に現状となったが七福神中の女神であり音楽弁古福徳財宝をつかさどる神として信仰をあつめている杜は天明三年五月に建立された 石の祠で、本年は祭祠二百年当るので参道改修大鳥居を地区有志により奉納した
例祭は毎年春巳の日に行う
境内には芭蕉の句碑があり この島には清冽な清水が湧でていて旅人の喉をうるおしたとの句である

昭和五十八年三月六日巳の日

新町第十区 」


14:35 弁天橋
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藤岡市

14:36 藤岡市に入ります。
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新町宿は高崎市ですが、ここから暫くは藤岡市です。柳瀬橋を渡ると再び高崎市

この藤岡市で見たものなども、新町宿と同じ、2度目の中山道5日目の4に入れておきます。

14:37 分岐 斜め右へ
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14:43 伊勢島神社
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14:44 川端家(国登録有形文化財)
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文化財オンラインより

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川端家主屋(しゅおく)

 登録有形文化財(建造物)

川端家は旧中山道の街村集落である立石新田の豪農で,かつては一町屋敷とも呼ばれた。南北棟の主屋は屋敷南側に建ち,骨格は江戸後期の民家で,街道側の土間側を2階建に改造したのは明治前期頃と思われる。この地域の民家の変遷の一面をよくあらわしている。

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14:46 信迎庵
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石碑などが集められています。

宝暦十三年(1763)建立の橋建立供養塔があります。烏川の洪水で亡くなった人々を供養したものだそうです。
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14:49 道路(関越自動車道)を潜ります。
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関越道を潜って突き当たり、左に向くと、この景色。
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14:51 真ん中に用水路(蓋がしてあります)のある住宅街の中を進みます。
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14:55 県道手前の電柱のところを右へ。土手を上ります。
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14:59 烏川の土手の道
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途中、左側の民家の中へ一旦降りたりするのが旧道ですが、どこで降りるのか分からず、結局ずっと土手を歩いていました。

右側に渡し場跡もあるらしいのですが、そこも、わかりませんでした。

11年前は、川原に降りて歩いてみました。

11年前のブログより

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橋へ向かう前に川原に下りてみたのですが、烏川(柳瀬川)の菜の花の中の川原は夢のような場所でした。
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私は草を構わず踏みしだいて歩いていたら、ズボンにチクチクやベタベタの草の実や茎がベッタリついていて、取るのが大変でした。

実はちゃんと道があって、そこを通ればよかった。

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柳瀬橋を渡ります。
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柳瀬橋を渡ると再び高崎市です。


2度目の中山道5日目の5(倉賀野宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/14/211526


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003