石碑
「 史跡 旅篭高瀬屋跡
十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る
かゝることのおそれを思へばこそ彼是日を費して門出はしつれ。いまは中々災ひの日をよりたるやう也、道急ぐ心も折れて日は斜ならざれど、
新町 高瀬屋五兵衛に泊
雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更のころ、専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして、枕おどろかしていふやう、『爰のかんな川に灯篭たてゝ、夜のゆききを介けんことを願ふ。全く少きをいとはず、施主に連れ。』とかたる。『かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚、さのみぼさちのとがめ給ふにもあらじ、ゆるし給へ。』とわぶれど、せちにせがむ。さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくやあらんと思ふ。十二文きしんす。
手枕や小言いうても来る螢
迹へ帰らすれば神奈川の橋なく、前に進んと思へば烏川舟なし。たゞ篭鳥の空を覗ふばかり也。
とぶ螢うはの空呼したりけり
山伏が気に喰ぬやら行螢
一茶『七番日記』より 」
案内板
「 小林一茶宿泊の高瀬屋跡
江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化七年(一八一〇)五月十一日に次のような記述があります。
『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が 度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった』
手枕や 小言いうても 来る蛍
とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
山伏が 気に喰ぬやら 行蛍
その時に一茶がこれらの句を詠みました。 」