紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

旅籠 高瀬屋跡

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石碑
「 史跡 旅篭高瀬屋跡


 十一 雨 きのふよりの雨に烏川留る

 かゝることのおそれを思へばこそ彼是日を費して門出はしつれ。いまは中々災ひの日をよりたるやう也、道急ぐ心も折れて日は斜ならざれど、

新町   高瀬屋五兵衛に泊

 雨の疲れにすやすや寝たりけるに、夜五更のころ、専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして、枕おどろかしていふやう、『爰のかんな川に灯篭たてゝ、夜のゆききを介けんことを願ふ。全く少きをいとはず、施主に連れ。』とかたる。『かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚、さのみぼさちのとがめ給ふにもあらじ、ゆるし給へ。』とわぶれど、せちにせがむ。さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくやあらんと思ふ。十二文きしんす。

   手枕や小言いうても来る螢

 迹へ帰らすれば神奈川の橋なく、前に進んと思へば烏川舟なし。たゞ篭鳥の空を覗ふばかり也。

   とぶ螢うはの空呼したりけり

   山伏が気に喰ぬやら行螢

一茶『七番日記』より 」


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案内板
小林一茶宿泊の高瀬屋跡

 江戸後期の俳人小林一茶は、たびたび江戸としなのを往来していました。『七番日記』の文化七年(一八一〇)五月十一日に次のような記述があります。
 『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が 度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より12文を寄進することになった』

 手枕や 小言いうても 来る蛍
 とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
 山伏が 気に喰ぬやら 行蛍 

その時に一茶がこれらの句を詠みました。 」