二度目の中山道23日目の4
2020年10月29日(木)の4
【市場山浄慶寺と切通陣屋跡】
11:02 東海北陸道大門高架橋を潜りました。
11:09 境川(桜の並木)
11:24 手力雄神社鳥居
11:25 市場山浄慶寺
案内板
「 市場山浄慶寺沿革
当山浄慶寺は、もとは天台宗の寺院でしたが、文明十八年(一四八六年)五月本願寺第八世蓮如上人に深く帰依した上人直弟子である正専坊が開基した浄土真宗本願寺派の寺院です。
宗祖親鸞聖人の教えを蓮如上人は、広く民衆にわかるように御布教されました。「いかなるものをも救う本願念仏の教え」に正専坊は、歓喜帰依し、浄土真宗に転派しました。
本願寺第八世蓮如上人より名号等を賜り、文亀元年(一五〇一年)三月本願寺第九世實如上人より真筆の六字名号を拝領、元和七年(一六二一年) 九月四日、十二世准如上人より木仏・寺号を賜わりました。
浄慶寺は中山道に面し、戦国時代には、尾張清洲城の織田信長と斎藤義龍・龍興との合戦、天下分け目関ヶ原合戦の前哨戦‐米野の戦い、江戸時代には朝鮮通信使節団、皇女和宮下向、幕末の騒乱
など、数多くの歴史上の出来事を数百年に渡り見つめてきました。 」
卯建のある家が多いですね。
11:29 切通陣屋入口
11:29 切通陣屋跡
切通聖観音
案内板
「 岐阜市指定史跡
切通陣屋跡
宝暦五年(一七五五)安藤信成は、父信尹(のぶただ)の跡をつぎ、加納藩主となったが、翌六年、陸奥磐城平に移封となった。
これは、信尹の不行跡にともなう、幕府の処置としてなされたものであった。
その後老中となった信成は、享和三年(一八〇三)十一月、美濃国内で一万八千石余(厚見・方県・葉栗・本巣、四郡の一部)を加増され、再び美濃との関係をもつにいたった。
平藩は、美濃領支配のため、切通村に陣屋を設け、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など、二十二人ほどが詰めていた。
平藩による支配は、飛び地支配のため問題が多く、文政八年(一八二五)には長森騒動が起きている。
切通陣屋は、安藤氏七代にわたり六十七年に及ぶ支配をおこなったが、明治に至り、 廃藩と同時に廃止され、笠松県に統一された。
11:30 中山道碑(左)と道標「右 きソミち」
11:34 馬頭観世音菩薩
馬頭観世音の下に書いてある説明
「 馬頭観世音菩薩
煩悩(ぼんのう)・濁悪(じょくあく)の世にあってひたすら衆生(しゅじょう)の苦を救うことを本願とする観音です
(広辞林)
交通安全・赤ちゃんの夜泣き封じに霊験あらたか!!とか
(古老談)
一九九七、八 」
11:34 伊豆神社
11:39 恵比寿神社
11:41 親鸞聖人御舊跡 眞宗寺
11:44 真宗本派 誓賢寺
11:48 長森細畑交差点の先の倉
この辺り、旧家が多い
【細畑の一里塚跡】
11:54 細畑(ほそばた)の一里塚
江戸から105里目。
案内板
「 細畑の一里塚
一里塚 とは、旅人が道程の目安とする
ために一里(約三・九キロメートル)ごとに設置された標識のことです。道の両側に一対の土盛りの塚を築き、多くはその上に榎が植えられました。慶長九(一六〇四)年より、徳川幕府 が東海道 ・中山道 などを整備した際に全国的に設置されており、細畑の一里塚もこの時に築かれたようです。
細畑の一里塚は、中山道の鵜沼宿(現:各務原市鵜沼)と加納宿 (現:岐阜市加納)の間につくられました。
道の片側のみが現存している一里塚が多い中、一対の形で残っていることは珍しく、細畑周辺の中山道の風情をよりよく今に伝えています。
両塚残っているのに、史跡に指定されていないのは復元だからなんです。
でも、街道歩きをしていると、両塚あるだけで嬉しいものです。2009年に初めて見たときは、テンションが上がったことを思い出します。
11:55 秋葉神社(一里塚の南塚の裏)
11:58 八幡宮
【長屋門と森邸】
12:00 長屋門(領下往還南交差点)
こちらは2016年8月に来たとき撮った写真です。
12:07 秋葉神社
12:09 JR東海道本線ガードを潜りました。
12:11 森邸(岐阜県指定都市景観重要建造物)
森邸付近に高札場があったそうです。
12:15 だんご屋の前を右に曲がります。
あなたが立っている道は、江戸時代の五街道の一つ、中山道です。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(一六〇一)三月、一〇石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことに始まります。
その後、寛永一一年(一六三四)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、二一の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と交わっており、
交通の要になっています。
加納宿 」
12:17 谷汲道標 ここを左折します。
12:19 秋葉神社
12:21 善福寺で右折
12:24 専福寺
12:25 秋葉神社
12:27 道標
この道標は、江戸中期(一七五〇年頃)新町と南広江の交わる四ツ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果してきました。
最初は『左 中山道』『右 ぎふ道』の道標でしたが、明治初年に『左 西京道』『右 東京道』の標識が追加されました。
この四ツ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要に要衝でありました。
昭和五十九年三月
中山道加納宿文化保存会 」
ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りの辻や市場などに立てた板で作った立札ことです。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿のこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・ニメートルもあるものでした。正徳元年 (1711)に『親子兄弟の札 』が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚もの高札が掲げられました。
平成一二年三月
岐阜市教育委員会 」
12:31 加納城大手門跡
ここで右折
12:33 中山道加納宿まちづくり交流センター
トイレをお借りしました。綺麗!
休館日もトイレを使えるそうです。
岐阜市ホームページより
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中山道加納宿まちづくり交流センターについて
加納宿を中心とした中山道沿道の歴史文化の継承を図り、地域のまちづくり活動の場となる「中山道加納宿まちづくり交流センター」が、令和2年10月14日に開館しました。
館内には和傘や加納城のジオラマなどを展示しており、加納の歴史文化に触れることができます。
まち歩きなどで中山道を訪れる方へのトイレの提供や、休憩スペースとしてもご利用いただけます。
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私かトイレをお借りした2020年10月29日は、このまちづくり交流センターがオープンしてからまだ15日目だったんですね。
【二文字屋】
加納宿に入って目につくのが、二文字屋の看板。
12:37 二文字屋
二文字屋(にもんじや)webサイトより
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創業は江戸時代初めの元和六年(1620)。岐阜城下より移り住んだ上野長七郎が、「町年寄」として中山道加納宿に「二文字屋」の屋号を掲げ、「御勅使、大名高家」の「御飛脚使宿」として、お茶料理をはじめたことに端を発します(歴史研究家:佐藤哲雄氏調べ)。
以来、十三代目当主に受け継がれる今日にいたるまで、川魚料理・日本料理と「二文字屋」の暖簾を守り続けてまいりました。
現在は、うなぎと懐石料理を主力とする事により、多くのお客様に愛される老舗として、日々精進しております。
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案内板
「 【左甚五郎とウサギの欄間】
昔、当店のあたりは中山道 加納宿 でございました。
当店の初代 上野長七郎がこの場所で旅籠ニ文字屋を始めましたのが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎 がニ文字屋 に泊り彫ってくれた欄間でございますが、火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。
十二代目 当主 」
この案内板には12代当主とありますが、さっきのwebサイトでは十三代目当主とあるので、案内板を書いたのは先代で、今は既に代替わりしているんですね。
店先の錦鯉が大きくて綺麗です。
【本陣跡と謎の白い象】
当分本陣
当分本陣とは、当分の間、各宿場の有力者宅を臨時の本陣と定めた所。
明治天皇が休憩していった場所でもあります。
幕末、参勤交代が緩和され、通行増大に伴い、当分の間、宮田家が本陣を務めたそうです。
中山道加納宿本陣跡
今回は本陣跡を見逃してしまったので、この標注の写真は2016年8月に撮ったものです。
元々は加納宿には本陣は一軒でした。松波藤右衛門が務めました。皇女和宮が降嫁の際宿泊し、和宮歌碑があります。
「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」
和宮歌碑はこちらのブログからお借りしました。
http://urawa0328.babymilk.jp/gifu/kanoujuku.html
この辺りに、2009年秋に来たときも、2016年8月3日に来たときも、白い象があったのですが、今回見つけられませんでした。
これは2016年8月3日日に撮った写真です。
私はこの象は、きっと昔、徳川吉宗が日本に象を取り寄せた話に由来するのかと思っていました。享保13(1728)年6月に牡と牝と二頭の象が長崎に来日。残念なことに、牝の象は9月に死んでしまったそうです。翌享保14(1729)年3月、牡の象は江戸に向かって出発。大阪、京都を経て、5月に江戸幕府に献上されました。
大阪、京都の後、
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象は4月29日に清浄華院を出発し、近江国草津宿までは東海道を、草津からは中山道に、さらに垂井宿からは美濃路に入り、名古屋へ向かった。
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ということは、象は加納宿を通っていないようですね。
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名古屋からは吉田藩領を経て三河国岡崎からは再び東海道を東に進み、駿河国では大井川を徒歩で渡った。大井川では川の激しい流れを弱めるため、人足たちが肩を組み、象の渡る上流に幾重にも並んだ。富士川の渡河には、川に船を横一列に並べて繋ぎ、その上に板を渡して臨時の橋をつくる、いわゆる「船橋」の設営が採用された。係留杭10本、船に敷く松材の板75枚が準備され、柱打ち込みのための穴掘りや麻網の打ち立て、川中への
竿入れなど、合計1,900人の人足が動員された。5月17日、箱根の峠を越えるとき、象は茨ヶ平で立ち止まってしまい、4人が押しても動かず、口から泡を出して苦しそうな気配を示した。気付け薬を飲ませて途中で何度も休ませながら、だましだまし峠を越え、上りよりも苦手な急な下り坂を歩いて箱根宿に着いたが、倒れこんでしまった。象は5月20日まで計4泊を病気療養のため箱根ですごした。その間、箱根では野犬狩りがおこなわれた。また、なかなか放屁しない象の腹を、象使いたちは丸太を用いて懸命にマッサージして放屁をうながしている。5月25日の六郷川(現、多摩川)の渡河は、貞享5年(1688年)の大洪水で橋が流失して以降、橋が建設されなかったので、船橋での渡河となった。船橋をつくったのは、長い 旅程のうち富士川と六郷川だけであった]。船橋は象の通行後は解体撤去された。六郷川では7日間でのべ805人の人足を要したと記録されている。
象は、道中各地でブームを巻き起こし、象にまつわるさまざまな書籍や瓦版、版画、双六などが現れ、江戸に着いてからも、象をモチーフとする置物や刀剣、刀の鍔、印籠などの商品がつくられて人気を呼んだ。
江戸への到着は享保14年5月25日のことであった。それに先立って江戸でも触が出され、くれぐれも不作法のないよう、また象に菓子などを投げ与えることは固く禁ずることが申しわたされた。象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち江戸城外の浜御殿に収容された。浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園) 、もともとは徳川将軍家の鷹狩の場であったが、そこに甲府宰相松平綱重の別邸が建てられ、甲府藩主の徳川綱豊が第6代将軍徳川家宣として江戸城に入ったのち、これを改めて御殿としたものである。
(中略)
象の健康状態は不安定で性格もすさみ、寛保元年(1741年)には象が気を荒くして象使いを叩き殺すという深刻な事件が起こった。この事件を機に、象は中野村(現、東京都中野区)の百姓源助と柏木村の弥兵衛に払い下げられた。結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになる。象は、餡のない饅頭をことのほか好んだ。
象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや、象小屋)を建てて(寛保元年2月完成)、4月27日に引き渡された。幕府は、象小屋建設の費用397両を負担した。また、象使い5名を源助・弥兵衛のもとに差し向けて飼育法を学ばせ、さらに、飼育料として1月に金125両および部屋代として水油と薪を3年間支給することとした。象の払下げは経費削減という理由はもとより、「火の元の用心」が払下げ理由として掲げられていることから、火事の多かった江戸の災害時を想定しての治安上の理由も考えられる。実際、中野村では寛保2年7月1日に、払下げられた象が繋綱を引きちぎって小屋を押し破る騒動があり、このときには町奉行から与力2名、同心5名が派遣されている。
当初、人びとは象見物に殺到し、象に関する 商品をあらそって購入したが、そのうち見物人は減っていった。エサも貧弱なものになっていった。源助らは見物料を徴収するなどして飼育をつづけたが、突然病気となり、手厚い看護がなされた。武蔵国上落合村の馬医幸山五左衛門から診察と投薬もなされた。しかし、それもかなわず寛保2年12月13日(西暦1743年1月8日)に中野村で病死した。およそ21歳であったと考えられる。
象の遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ与えられた。肉は塩漬けにして60樽分となったが、やがて腐敗してしまった。象の骨や牙はなお見世物として、25年もの間源助に収入をもたらしたという。骨と牙はその後、 中野の真言宗豊山派寺院の宝仙寺に納められ、『江戸名所図会』などでも「馴象之枯骨」の名で取り上げられたが、太平洋戦争の戦災に遭い、一部が失われた。象皮については、宝仙寺で保管されていたという説もあるが、大和国奈良の由緒ある製墨業者、古梅園が寛保3年(1743年)に幕府より象皮・象鼻をあたえられたという記録があり、吉宗の命により、その皮から「香象墨」を製造し、鼻は古梅園で現在も保管されていると言い伝えられている。
現在、象厩の跡は中野区立朝日が丘公園(東京都中野区本町二丁目32番地)になっており、現地には中野区教育委員会の説明板が設置されている。なお、当時象をデザイン した商品のうち宝仙寺所蔵のものは、現在、中野区立歴史民俗資料館に保管されている。
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私は以前、劇団四季の「むかしむかしゾウがきた」を見て、いろいろ考えさせられました。ちなみに、この芝居は長崎源之助の絵本を脚本化したものでした。
話を加納宿の白ゾウに戻します。
徳川吉宗の享保年間のゾウラプソディー関係ではどうやらないらしい。
ネットを見ていたら、この白ゾウは、どうやら花まつりに使う白ゾウを仏壇屋さんが保管しているものらしいことがわかりました。
こちらは、「ラボけんのブログ」からお借りした花まつりの白い象です。
花まつりと白ゾウの関係とは・・・
「ii-nippon.net 日本の風」より
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※お誕生にまつわる伝説
その昔、ヒマラヤ山脈の麓にシャーキャ族(釈迦族)という小さな部族があり、王はシュッドーダナー王(浄飯王・じょうぼんおう)、王妃はマーヤー夫人(摩耶夫人・まやぶにん)といいました。
この二人が、お釈迦様の父親と母親です。
二人の間には、なかなかお世継ぎができず、王は心を痛めておられました。
ある日、マーヤー夫人が宮殿で横になっていると、天上から六牙の白象が降りてきて右脇より胎内に入っていく夢を見ます。
目覚めた時、大いなる命を授かったに違いないと、ご懐妊を悟られたそうです。
また、夢の話を聞いた国中の人々は、「白い象とはめでたい事だ。きっと王子様が生まれるお告げに違いない。」と喜びました。
※象は、古くから神聖な生き物とされています。白もまた、どんなものにも染まっていない最も神聖な物を指す色です。
夢は夢で終わることはなく、マーヤー夫人のお腹には、本当に子供が宿りました。
春になり、あたり一面に花が咲く頃、マーヤー夫人は出産のために里帰りの旅路に付きます。
その途中、ルンビニの花園で休憩を取りました。
池のほとりを散歩していたマーヤー夫人が、真っ赤な花を咲き誇らせたアソーカの樹(無憂樹・むゆうじゅ)の一枝を折ろうとして手を伸ばした時、脇の下から一人の男の子が産まれました。
王子の誕生です。
王子は、生まれるとすぐ東に向かって七歩あゆむと、右手で天を左手で地を指して「天下天上てんかてんじょう、唯我独尊ゆいがどくそん」と宣言したのです。
※天上天下、唯我独尊:この世に自分という存在は代わりがなく、自分一人しかいないから尊いという意味ですが、その解釈はさまざまあります。
それだけではありません。
誕生の瞬間、天から9匹の竜が現れて甘露の雨を降らせ、神々は天のかさをかざし曼陀羅華まんだらけを降らせたと言われています。
※曼陀羅華:仏が現われたり説法したりする時などに、天から降りてくる美しく香りも良い、見る人の心を楽しませるという花
この時に降りそそいだ甘露の雨は、王子の産湯となりました。
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12:46 中山道加納宿案内板
この案内板は、12:15 中山道加納宿案内板 と全く同文なので、こちらは割愛します。
12:47 右を見ると岐阜駅が見えたので、ここが今日の終点です。
12:51 岐阜駅
13:00 岐阜駅内のレストラン街の南インド料理店でカレープレートランチを食べました。
本日の歩数 37,673歩 22.98km
二度目の中山道24日目の1(加納宿~河渡の渡し)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/06/160212
二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947
絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003