紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き5日目の5(倉賀野宿から高崎宿入口)

2度目の中山道5日目の5
3月13日(金)の5


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【烏川を渡って】

柳瀬橋を渡る時、川風が冷たくて、しまった!と思いました。リュックを下ろして着るものを出すよりは、急いで渡った方がよいと思い、あしばやに渡りました。出来れば風のあまり来ないところでリュックを下ろしたい。

橋を渡ったら、少し戻るイメージで土手を右折。

渡し場に戻るので、橋を渡るのは遠回りになるのです。(往時の渡し場が今はなくなって、橋を渡らねばならないため、昔より遠回りになっている場所は沢山あります。)

15:27 岩鼻樋管のところを、
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左の土手下に降ります。
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15:27 旧中山道標識
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ここで旧中山道に戻りました。ここでリュックを下ろして上着を着ました。

しかし、歩き始めたら暑くなりました。


【北向子育観音】

15:32 北向子育観音
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岩鼻の子育て観音として地域の人々に親しまれているそうです。

15:36 分岐左へ
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15:45 跨線橋を渡りました。
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15:53 セブンイレブンでトイレを借りて、バニラカスタードのシュークリームを食べました。

16:04 石仏石塔群
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【閻魔堂・常夜灯・道しるべ】

16:05 閻魔堂
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閻魔さま 写真は「Persimmon Marsh Loft」より
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高崎市観光協会会報「縁起のいいまち高崎」より

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閻魔堂・常夜灯・道しるべ

倉賀野宿の東端に目を転じると、中山道日光例幣使街道との追分に閻魔堂がある。その傍らには文化11年(1814)に建立された常夜灯と、「従是(これより)右江戸道(えどみち)、左日光道(にっこうみち)」と刻まれた道しるべがある。
現在お堂は再建中。閻魔堂を飛び地境内とする九品寺(くほんじ)に、閻魔さまが仮住まいしているというので訪れてみた。(中略)カラフルで意外とハンサムな閻魔さま(後略)

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16:05 例幣使街道の常夜燈および道しるべ
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案内板
高崎市指定史跡

例幣使街道の常夜灯及び道しるべ

所 在 地 高崎市倉賀野町ニニ三○
指定 昭和四十八年一月三十一日

江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使(れいへいし)と言う。
例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜灯と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜灯の基合には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山(きめんざん)与五衛門など三十八名も含まれている。
勧化薄という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村町)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜灯建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立し
たとある。

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常夜灯
正面『日光道』右側面『中山道』左側面『常夜燈』
裏面『文化十一年甲戌(一八一四)正月十四日 高橋佳年女書』
総高 三七三センチ 台石高 六七センチ
灯籠高 三〇五センチ
灯籠屋根幅 一○五センチ

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道しるべ
正面『従是 右 江戸道 左 日光道』
裏面『南無阿弥陀仏 亀涌水書』
総高 一七二・八センチ 台石高八・八センチ
石柱幅 一辺三十三・七センチ

平成八年三月
高崎市 教 育 委 員 会 」


【倉賀野(くらがの)宿案内板】

16:06 中山道倉賀野宿」案内板
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案内板
中山道倉賀野宿

中山道倉賀野宿』は江戸より、十二番目の宿場でここから徳川家康を祀る日光東照宮の春の大祭に京都の朝廷が弊帛(へいはく)を奉納する為に派遣した例幣使が通る『日光例幣使道』が始まる。
宿の南には利根川水系最上流の倉賀野河岸があり、上信越の諸大名の廻米、商人の荷物などが河岸から船積みされて江戸へと運ばれ、倉賀野宿は上信越と江戸を結ぶ水陸の交通の要所として栄えた重要な宿場であった。
倉賀野宿には、 京方向に上の木戸、江戸方向に下の木戸が設けられ、宿内の長さ(木戸から木戸の間)は九町十六間(約千メートル)、道幅は四間(約七メートル)から六間(約十一メートル)であった。天保末年(一八六三)の中山道大概帳によると、倉賀野宿には、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が三十二軒あり、人口は二千三十二人であった。
高崎市観光課 」

16:07 素敵な家
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16:09 素敵な家
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16:13 石仏石塔群
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【本陣跡・脇本陣跡】

16:14 倉賀野宿本陣跡
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案内板
倉賀野宿本陣跡

倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・公家などが休息・宿泊する場でした。倉賀野の本陣はその一軒で、元和年間(一六一五〜二三)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330㎡)もある広大なものでした。 」


16:16 立派な家
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16:17 脇本陣
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16:18 高札場跡
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道の反対側から写真を撮ったので、案内板は読めませんでした。


【倉賀野神社入口と安楽寺

16:20 倉賀野神社入口
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16:20 飯塚久敏と良寛の碑入口
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16:23 安楽寺
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安楽寺の異形板碑(市指定文化財)

高崎市ホームページより

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板碑は板状の石材を使用した卒塔婆の一種で、中世の関東地方で多く作られました。多くの場合、石材には緑泥片岩(りょくでいへんがん)が使われています。
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安楽寺境内にある2基の板碑は、通常の板碑に比べ厚みがあり、石材も牛伏砂石(天引石)が使われています。

銘文や年号は風化が進み読み取れませんが、全体のつくりや、梵字の彫り方などから南北朝時代(1300年代)以降のものであると考えられます。

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16:26 一里塚跡
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案内板
中山道の一里塚跡

一里塚は、江戸幕府が慶長九年(一六〇四)に江戸日本橋を起点として、東海道中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。
ここにあった塚は日本橋から二十六番目のもので、規模は径が約15m、高さ約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、『一里山』と呼ばれていました。
明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました。」


【高崎宿入口】

16:57 国道17号線を潜りました。
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17:08 高崎アリーナ

「KOHEI UCHIMURA CUP 2020」中止のお知らせ
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新型コロナウィルスの影響で、内村航平主宰の第1回目のイベントが中止。残念ですね。

今は、公共の施設はほとんど休みです。私設のところは、時間を短くしてやっているところもありますが、臨時休館、臨時休業がやはり多いですね。イベントも次々延期や中止になっています。

17:09 踏切(上信電鉄線)
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17:20 あら町交差点 本日はここまで
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今夜はアパホテル高崎に泊まります。

風呂の後、夕食。唐揚げ定食と生ビール
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本日の歩数 47,996歩 29.27km



2度目の中山道6日目の1(高崎宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/16/145745


二度目の中山道六十九次歩き目次1
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947

絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003