2度目の中山道6日目の 1
2020年3月14日(土)の1 一日雨
【高崎宿】
6:00 起床
6:30 バイキング朝食
7:30少し前にチェックアウト
既に雨が降ってきました。
一日雨でした。
東京近辺では雪が降ったそうです。
私は高崎から安中〜松井田〜横川と29キロ強を歩きましたが、南関東よりも2〜3度低い予報なので、雪か霙に降られるかも、と覚悟していたのに、一日雨でした。
新型コロナウィルスの影響で、あちこちの施設が休館していました。
7:33 高崎駅
7:39 あら町交差点
道の左側を歩きました。
連雀町の由来は、行商人が各地から蘞著(れんじゃく・荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられており、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手町前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決めるとき、最初に連雀町の位置を決め、それから各町の地割りをした。
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主からきめられていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
高崎の散歩道より 」
7:50 田町絹市場由来
案内板
「 絹市場の由来
高崎生絹大織売買所は通称『絹市場』と呼ばれ、田町絹市場(現在地)西隣に位置しました。明治27年田町に建築され、その後すぐ高崎商業会議所が設立、ここに同居する。
高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、五、十の日に市が立った。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で構成に行う為にあり、又、多くの取引業者で半値委を見せ、『お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと』と歌にも歌われたことを思い、絹市場の名称を残すことにした。 」
7:55 本町三丁目(左折)
7:56 黒の蔵つくり商家(山田家)
高崎市景観重要文化財 山田家(旧山源漆器店)
高崎市ホームページより
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山田家(旧山源漆器店)
所在地:本町
この山田家のある本町地区は、明治13年の大火により町家の大半が焼失した。その後、この一帯の町家は防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きに変貌するが、この店蔵と主屋もその頃建て替えられたものと思われる。
その後、昭和37年、都市計画道路の整備に伴い多くの建物が建て替えられ、土蔵造りの店蔵が失われていったが、そんな中でこの山田家は、曳き屋をして残された数少ない例といえる。
北側の通りに向かって熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そして漆喰で仕上げられ、更に黒く塗られた外壁を持つこの店蔵は、重厚感にあふれ、通行する人々が思わず足を止める程、印象深いファザードをつくっている。
関東地方の店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物は、高崎市にはこの山田家以外にはなく、その意味で高崎市民は大変貴重な歴史的遺産を有しているということができる。(※原則として非公開)
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8:03 本町一丁目 ここから道路幅が狭くなります。
【赤坂通り】
この、道幅が狭くなった辺り、上り坂になりますが、赤坂通りというそうです。
11年前のブログより
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2009.4.15.
道は赤坂通りと呼ばれる細い坂道へと入ります。高崎は昔は赤坂と呼ばれ、その後、和田と改名され、慶長三年、井伊直政が築城の際に高崎と改名したそうです。
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8:07 長松寺
城彩 jyo-sai.comより
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高崎城跡の北側に、高崎城の移築書院がある長松寺があります。この書院は1730年頃、高崎城本丸の改築に伴い不要となった建物をこちらに移築したそうです。ここは、二代将軍秀忠の次男で三代将軍家光の実弟の徳川忠長が自刃した間と伝わります。
長松寺は1507年に臨済宗の嶽應元海が現在の末広町北部に創立しました。当寺はその後衰退してしまいますが、1624年に興禅寺の虎谷春喜が曹洞宗に改め現在の地に開山します。本堂、衆寮、山門、鐘楼、薬師堂(和田薬師)がある立派な寺でしたが、1726年に全焼してしまいます。現在の本堂は1789年に再建されたものです。
長松寺に入ると、本堂の入り口の上(お賽銭箱の上)には、風化して古そうな立派な天女が描かれていました。これが狩野探雲により描かれた、「向拝天井絵 天女」(高崎市市指定重要文化財)です
画像は城彩jyo-sai.comより
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【岡醤油醸造】
8:09 岡醤油醸造株式会社
ニホンイチしょうゆ 岡直三郎商店ホームページより
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ご案内
弊店は、天明七年(1787)近江商人 初代 岡忠兵衛が、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのが始まりです。
明治30年(1897)四代・宗一郎が群馬県高崎市常盤町の旧中山道沿いに支店を開設。以来「ヒキソーイチ」の名で、地元の皆様に親しまれてまいりました。また、映画のロケ地としても幾度か弊店の建物や工場煙突を使用されております。
現在も、明治期の建物を大切に守りながら、伝承の製法で造る木桶仕込み・天然醸造醤油の販売をしております。お土産対応、ギフト包装、また全国発送なども承っております。
市内旧中山道散策のついでにも、是非お立ち寄りください。
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案内板
「 岡醤油醸造の事務所と煙突
岡醤油は、天明7年(1787)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。
中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表する虫籠窓が残っています。揚げ戸や古いガラスを使用した戸などが見られ、明治時代を伝える数少ない建物なので、中山道を歩く人や、町めぐりの人たちが訪れ、テレビの旅番組や雑誌、新聞でも取り上げられたり、映画のロケ地としても何度も使われるなど、昔の良き時代を知る場所となっています。
裏手に見えるレンガ造りの煙突は、昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。 」
3月4日から、新型コロナウィルスのため休館中でした。
We love 群馬(群馬の情報サイト)より
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2019年7月21日
《地域に愛される山田文庫は歴史的にも価値ある私設図書館だった》
[歴史的価値の高い山田文庫とは]
歴史的な建造物を高崎市民に引き継いでほしいという思いから、群馬県高崎市では歴史的景観建造物登録制度を設け、保全のための支援を行っています。
地区50年以上の建物で所有者が活用・保全する意思があり、老朽化がひどくないものそして景観が良いもの等が登録の対象となっていています。
じつは、今回ご紹介する山田文庫の主屋、茶室、土蔵2棟、そして煉瓦塀の建物が2000年に高崎市都市景観重要建築物等に指定されているんですよ。
赤レンガの壁に囲まれた敷地内の日本家屋を改造し作られた和風図書館は見るからに歴史が感じられます。
庭園には40種類100本、月桂樹や黒松、檜などが植えられ灯篭6基と調和しています。
[山田文庫の歴史とは]
1974年、高崎倉庫の取締役だった山田勝次郎さんと妻の山田とくさんが群馬県内の小中高校生に読書に親しみをもって欲しいという思いから私財を投じて山田文庫を設立しました。
創立者の山田勝次郎・とく夫妻は子供の頃からとても読書好きだったそうですよ。
そんな山田夫妻の思いを受け継ぎ、現在山田文庫では財団のスタッフやボランティアの方が子供達の情操教育につながればと本の管理や茶室での絵本読み聞かせなども行っています。
山田文庫自体が図書館となり図書の貸し出しを行う他、県内の小中高等学校の学校図書や視聴覚資料の助成を行っています。
山田文庫に私財を投じた勝次郎さんと妻とくさんの略歴は下記山田文庫HPよりご覧になれますよ。
山田文庫公式HP:http://www.yamadabunko.or.jp/
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山田文庫と隣接する赤レンガ倉庫は、美峰酒類株式会社の倉庫。外観はレンガ造りに見えるが、実際は柱・梁の構造で、外にレンガ壁を巡らせたもの。上部が段々に迫り出し、屋根を支える軒蛇腹を巡らせるレンガ造りの意匠が施されている。
明治26年に、蝋山政右衛門、政次郎父子が新潟から移り「蝋山酒造」として酒造りを開始。しかし、第二次世界大戦中の食糧難で、サツマイモからアルコールを取るようになり、現在の美峰酒類㈱に移管された。高崎が生んだ議会政治家であり政治学者の蝋山政道は、この政次郎の長男。そして、次男は勝次郎で、明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉の娘とくとの結婚によって山田姓を名乗る。自身は優秀な農業経済学者であった。義父の急逝によって高崎倉庫㈱社長に就任。弟で三男の長四郎は、松井田の小山家の養子になり、旧美峰酒類㈱の社長を務めた。
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8:21 並榎(なみえ)町坂下公民館
この先、烏川のかかる君が代橋に向かう、歩行者のルートが分かりづらかったのですが、たまたま向こう側から自転車が走ってきて、向かうべきルートが分かりました。
左の方の横断歩道をわたって、白い柱の右側を向こうに進みます。
【烏川の君が代橋】
8:26 烏川君が代橋
君が代橋から見た烏川に鷺がいました。
君が代橋という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたそうです。
橋の渡り詰めで、本当は地下道から道路の向こう側の脇道に入るのですが、間違えて脇道に入らずに国道406号線を進んでしまいました。
多分右側に渡って、あの先に進めば国道406号に入れると思ったら、その通り、うまくいきました。
この付近、11年前歩いた時とかなり印象が違います。ガイド本が違うので、歩いている道自体が違うのか、11年の間に町や道の印象が変わってしまったのか。
11年前のブログより
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200メートルほどサイクリングロードを歩き、新しい君が代橋で国道18号線と合流すると、左奥に高崎観音が小さく見え、前には妙義山が見えました。今日はずっと妙義山を見ながら歩きました。
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髙崎観音堂が見えなかったのは残念です。天気が悪いので妙義山が見えないのは仕方ありません。
【高崎だるま】
8:33 高崎だるまの店
高崎市ホームページより
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そうだったんだ高崎だるま
鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。
本市では豊岡地域を中心に「高崎だるま」の伝統が受け継がれています。日本の吉祥である鶴と亀が顔に描かれていることから「縁起だるま」「福だるま」とも呼ばれている高崎だるま。
平成5年には、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。
また平成18年には、特許庁が創設した地域団体商標制度で県内初となる商標登録を受けています。
高崎のだるまは、旧豊岡村が1955年に高崎市と合併するまでのおよそ140年の間、豊岡だるまと呼ばれていました。現在は「高崎だるま」として商標登録を行い、全国にその名が知られています。
高崎だるまの歴史
高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。
稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。
1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。
徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。
病気除けとしてのだるま
だるまの広まりは、江戸で疱瘡(天然痘)という病気が流行したことに由来します。当時の庶民は病を恐れ、しばしば願掛けを行っていました。赤いものが邪気を払うと信じられていたため、赤く塗られただるまが疱瘡除けとして求められるようになりました。流行時には、子どもの枕元などに置かれていたと言われています。
その後、疱瘡の予防法が発見されたことで、江戸のだるまは姿を消していきました。
七転び八起き、縁起がいい顔の福だるま
形全体が丸みを帯びて、ふくよかな感じのする高崎だるま。その特徴は、眉毛は鶴、髭は亀を表現しています。日本では「鶴は千年、亀は万年」と言われ、吉祥・長寿の動物に例えられます。その縁起の良さから昔から高崎だるまは多くの人に親しまれてきました。
お腹には「福入」、両肩には「家内安全、商売繁盛、大願成就、目標達成」などの願いを込めて金文字が書かれています。文字が書かれているだるまは全国的に見ても珍しいものです。
また、「七転び八起き」と言われ、いくら転がしてもすぐに起き上がります。重心が安定した形は心の持ち方を示し、どんな困難にも対処できる落ち着いた心と忍耐力を表しています。
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8:34 石神社
道の反対側からの写真で、案内板は読めませんので、探してきました。
案内板
「 下豊岡の石神社
古代の人々は、大自然の力に対しその偉大さに恐怖心さえ抱き、これを鎮めるために神として仰ぎました。この神社は、石を神として崇拝することから起った石神信仰の一つです。
石神社は音で読むと「しゃくじん」であり、これが訛って「しゃくじ」となり、ここ豊岡の小字「尺地」の由来と言われます。(他に、碓氷峠から中山道の里程を、尺縄を使って測っていたところ、尺縄がこの地でボロボロにすり切れてしまったので、それを万日堂で拝んでもらい、石神社に祀ったことから「尺地」との説もあります)
境内に、安永元年(一七七二)と刻まれた石宮や、明和九年(一七六四)の道祖神があります。昔は社殿にシャモジを寄進して家内安全を祈願しました。神仏習合の江戸時代には不動寺の境内にありました。 」
下豊岡バス停を目印に左斜めに入るのですが、間違えて手前の下豊岡町西交差点で左斜めに入ってしまい、旧中山道と平行に走る一本化南側の道を暫く歩きました。
全く目印が見つからないけれど、バス停か板鼻、安中行きで、方向は合っているので、とにかく進みました。
雨で、雨宿りできる屋根のある場所がなかなかなくて、立ち止まって現在地を確認出来ないので、こういう時、雨は辛い。
交差点が見えてきて、多分あそこで旧中山道と合流すると思い、交差点よりもてまえで右に曲がって、旧中山道と合流しました。
この、今回間違って歩いてしまった辺りに、豊岡の茶屋本陣跡があったのです。今回は見そびれてしまったのですが、11年前のブログでは・・・
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豊岡の茶屋本陣は無料で見学できました。
茶屋本陣は泊まれないので狭いのですが、大名が休憩する上段の間は、東海道で見た本陣より装飾が立派でした。
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【湯沢のお地蔵様 ・ 金ヶ崎不動尊】
8:55 湯沢のお地蔵さま
案内板
「 湯沢のお地蔵様
左の『お地蔵様』は、
宝暦三年(一七五三)に茶屋本陣の飯野家より建立され、風雨で損傷したため安政三年(一八五六)に再建されました。戦時中召集令状が発布されると、交付された者は必ず地蔵様をお参りし出征するのがこの地域のならわしで、その結果、地蔵様のご利益で全員が無事ご帰還されたそうです。現在も、地域有志により、八月二十四日に例祭として縁日が行われ、提燈・行燈が灯され、祭が継承されています。
中央の『如意輪観音』は、
女性特有の病気平癒の願掛けと結び付いた女人講として造立。八月二十三日に香花を供えて祭られます。灯してまだ燃えきらない蝋燭を妊婦が貰い受け、お産の時に家で灯し安産を願うと、蝋燭が燃えきらないうちに無事出産するという伝えがあります。
右側の『二十二夜塔』は
月待信仰のもので八月二十二日に縁日が行われます。」
この堂は、豊岡の茶屋本陣(東へ約300m)の飯野家が所有する広大な土地の鬼門(北東の方位)に当る、乗附村金ヶ崎に方位除けとして祀ったものですが、明治四十三年の大水害で流されてしまいました。そこで、飯野家所有の現在地に建てられました。本尊は木彫りで漆喰仕上げの不動様で、背の後に今もって鮮やかな色の大火焔があります。
お堂は、昭和天皇即位の頃に建て替えられたときは、顔を洗うことにも使っていた清流が中山道沿いに流れていたので、北向きで中山道に面していました。昭和三十三年に改築の時に南向きに変えました。地元の人々によって、三月と九月の二十七日の夕方から二十八日まで縁日としてお祭りが行なわれています。不動明王は怒りの姿で悪魔を恐れさせ、悪魔から守護してくれると信仰されています。この不動様のおかげで、この地区には火災がないといわれています。 」
9:05 水準点
もう大分前からトイレに行きたくて、中山道を外れて裏の方にトイレを探しに行きましたが、見つからず。
【浅間神社富士山・藤塚の一里塚跡】
中山道の一里塚の向い側に建つこの神社は、富士山を神格化した富士山信仰の神社で、静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間神社が総本山の末社です。
浅間さまは、坂上田村麻呂が勧請したと伝えられることから、田村麻呂伝説が多い東国のこの地でも信仰されて来たのではないかと思われます。祭神は木花咲夜姫で、祭礼日は七月十四日です。
旅人たちが休憩する場所となっていた中山道二十八番目の一里塚が、八幡村と豊岡村の村境に位置していました。そのため、村人らが分担して清掃を行ない、一里塚を大切にすることに役立っていたと思われます。
当社は八幡村分の藤塚が祀り、南側の八坂神社は豊岡村分の下藤塚が祀るのが慣例になっていました。 」
道の反対側に一里塚(藤塚の一里塚)
高崎市ホームページより
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一里塚(上豊岡町・藤塚町)
一里塚というのは、慶長9(1604)年に江戸幕府2代将軍秀忠(ひでただ)の命令で主な街道が整備された時、街道一里(約4キロメートル)ごとに目印として築かれたものです。
江戸時代、江戸(現在の東京)から京都までのルートには、海沿いの東海道と山沿いの中山道(なかせんどう)がありました。
高崎市上豊岡町にある一里塚は中山道沿いに設置されたもので、、群馬県で唯一形の残っている一里塚です。塚の上には、樹齢400年と言われるムクノキが茂っています。
この一里塚は江戸日本橋から28里にあたり、中山道で江戸からの距離は約112kmになります。
なお、中山道は中仙道と記されることもありますが、正徳6(1716)年に幕府から、「海道に対する山道であるから、公文書では中仙道の文字はあやまりである」というお触れが出されたそうです。
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11年前は藤塚一里塚跡を近くで見ました。
11年前のブログより
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再びR15と合流し、国道脇の碓氷川の土手の下の歩道を歩くと、藤塚一里塚がありました。
【天照皇大神宮】
9:26 天照皇大神宮・洪水紀念之碑・射水神
案内板
「 天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水神
・天照皇大神宮
全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行われています。
・洪水祈念之碑
明治四十三年(一九一〇)、大洪水のた
め藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋
流失十八軒、半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名をえました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。
・射水神
大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑り
をして確氷川を塞ぎ、人家や田畑に大き
な被害を与えました。村民は堤防を造
り、同十一年に村を守ることを願いこの
碑が建てられました。 」
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社伝によると、天徳元年(957)、京都の石清水八幡宮から勧請。当社の正式名は「八幡宮」だが、「やわたの八幡さま」と呼ばれ、また、古くから一国一社の八幡宮として広く崇敬されていた。
永承年間、源頼義が奥州征伐のおり、当社にて戦勝祈願。康平年間、頼義の子・源義家(八幡太郎)が戦勝の奉賛として社殿を修築し、以来、源氏の氏神として崇敬され、源頼朝は鎌倉幕府開設にあたり神田百町を寄進した。
(中略)
通常、一国一社の八幡宮は国府八幡宮、国分八幡宮などと同様、国府や国分寺の鎮守として祀られた八幡宮のことだが、当社の場合は、どういう理由によるものなのだろうか。
ちなみに上野国府は前橋市元総社町あたり、国分寺は高崎市東国分町あたりだとされているので、当社からは、やや遠い。
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鳥居の扁額「八幡宮」は、弁慶の書という説もあるそうです。社殿は北北西750mのところに鎮座しています。
2度目の中山道6日目の2(板鼻宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/19/230203
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003