案内板
「県指定旧跡 畑時能供養祠一基
昭和三十八年八月二十七日指定
参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能(はたときよし)の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが暦応二年(一三三九)越前国で足利方に討たれた。
従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しゅきゅう)を携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られニ石祠が建立されて、両者の姓を取り『畑児塚(はたこづか)』と呼ばれている。
県指定有形文化財
銅鍾 一口
昭和三十九年三月二十七日指定
この銅鍾は、頂部の竜頭が上向きで朝鮮式と呼ばれている鐘である。高さ一九〇センチ、口径九八・三センチ縦帯に仏像四体を陽鋳し、下帯に唐草文駒の爪には蓮弁を施し、乳頭は各面に二十五個ずつ百個、縦帯に二個ずつ八個、計百八個を鋳出す。これは百八つの煩悩を表したものである。
池の間に長文の銘があり、天命(てんみょう)鋳物(いもの)として栄えた下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の鋳物師井上元峰によって、元禄八年(一六九五)に鋳造されたことがわかる。江戸時代中頃の優れた銅鍾の一つとして、すでに国認定重要美術品の指定を受けている。
昭和五十八年三月二十四日
案内板
「 陽雲寺
陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久二年(一二〇五)の創建と伝えられ伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘三年(一三三三)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来“新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文九年(一五四〇)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を嵩栄寺と改めたが、天正十年(一五八二)の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正十九年、金窪の領主となった川久保信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当時の境内に居住したが、元和四年(一六一八)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって、寺号を嵩栄山陽雲寺と改称した。元和五年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。
なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鍾や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能(はたときよし)の供養塔などがある。
昭和六十年三月
埼玉県
上里町 」
一、銅鍾(国指定 昭和二十年)
一、畑時能公之墓(国指定 大正十二年)
一、武田信玄夫妻画像
一、釈迦如来坐像
一、実美公御野剱
一、古銅正観世音立像
一、武田信玄公起請文
一、跡部美作守軍状
一、陽雲院殿の墓