江戸時代から受け継がれるひな人形のふるさと
近代関東三大ひな市(鴻巣・越谷・江戸十軒店)の一つに数えられ、特に着物の気付けは、『関東一』と大評判でした。
明治になると、『鴻巣雛』の製作はますます盛んとなり、『県内では越谷六軒、大沢三軒、岩槻三軒に比べ、鴻巣の人形業者は三十一軒、職人三百人』といった記録もあり、その活況ぶりを伝えています。
人形町周辺は江戸時代初期に、『上谷村の新田』として開発されました。
やがて家並みが宿に続き、茶屋や髪結なども現れると、鴻巣宿の加宿として発展しました。
宿場の休泊施設には、主に武家や公家が利用する本陣・脇本陣があり、その他旅籠や茶屋がありました。
法要寺
寺紋である『梅鉢紋』は、江戸時代の初め、勝願寺に宿泊を断られた加賀百万石の藩主前田氏に宿所を提供したことの御礼として家紋を拝領したと伝えられています。
鴻巣宿では、毎月四と九のつく日に『市』が開かれ、月六度開かれることから、六斉市といわれ、市日には近隣から商人や農民が集まって、物品を売買しました。
市の繁栄を願って中山道の中心に『市神社』が祀られましたが、明治三年の突風で潰滅し、狛犬のみが残され、法要寺に移されました。
鴻(こう)神社
鴻神社は明治六年(一八七三年) に鴻巣宿の雷神社・熊神社・氷川神社を合祀して『鴻三社』となり、その後明治三十五年(一九〇二年)ごろに東照宮など多くの社を合祀して『鴻神社』となりました。
この鴻神社には、鴻巣の地名のいわれの一つとされている『こうのとり伝説』が語り継がれています。
箕田(みた)源氏のふるさと
渡辺綱の
ルーツに迫る
箕田に残る
歴史と昔話
嵯峨天皇の流れを汲む源仕(みなもとのつこう)は、足立郡箕田郷に土着して、箕田源氏の祖となりました。
仕の子源宛(みなもとのあたる)は、『今昔物語集』に、平良文との合戦の説話が残されています。
仕の孫であり宛の子である綱(つな)は、この地で生まれ、摂津の国の渡辺(大阪市渡辺)で養育されたことから、渡辺の姓を名乗り、渡辺綱(わたなべのつな)となりました。
渡辺綱は武勇に優れ、源頼光(みなもとのよりみつ)に仕える四天王の筆頭と呼ばれ、鬼や妖怪退治にまつわる様々な説話が伝えられています。
渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられている宝持寺には、全国から渡辺姓の皆さんが訪れます。
また、氷川八幡神社の境内には、宝暦九年(一七五九年)に建立された『箕田碑』があり、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世の句などのほか、この地が武蔵武士発祥の地であることが記されています。
石田堤史跡公園
石田堤は天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の天下統一に際し、小田原方の武田氏長居城である『忍城』を石田三成らが水攻めのために築いた総延長二十八kmの堤です。
間の宿 吹上
鴻巣宿から、桶川宿まで一里三十町(約七・二km)に対して、熊谷宿までは四里六町(約十六・四km)と長く、吹上の地は『間の宿』として茶屋や休憩施設ができました。
(案内板下段)
五街道の一つである中山道は、東海道とともに、江戸と京都を結ぶ重要な街道でした。
そのため、幕府の御用通行をはじめ、諸大名の参勤交代や家臣の往来、公家、商人、諸参詣人、さらには、荷物や書状など、さまざまな通行がありました。
江戸の日本橋から京の三条大橋までは、百三十五里二町余(約五百三十四km)で、東海道よりも距離が長いものの、大河や海がなく、安全であることから、古来より、重要な街道として、人々が往来していました。
鴻巣宿は、慶長七年 (一六〇二年)に、本宿(現北本市)から移動して設置されたもので、江戸から十二里八町(約四十八km)、七番目の宿として栄えました。
天保十四年(一八四三年)には、人口二千二百七十四人、戸数五百六十六戸のうち、本陣一軒、脇本陣二軒との記録があり、県内九つの中山道宿場(蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄)の中で、人口・戸数ともに三番目の規模となっており、鴻巣宿の賑わいを物語っています。
多くの戦国著名人が眠る
壇林勝願寺
勝願寺は十六世紀末期、清厳上人によって中興されました。鷹狩の際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世住職円誉不残上人に帰依し、『三ツ葉葵紋』の使用を許可しました。
慶長十一年(一六〇六年)、円誉不残上人は後陽成天皇から僧の最高位である紫衣を与えられ、やがて浄土宗関東十八壇林(浄土宗僧侶の養成機関・学問所)の一つとなりました。
境内には丹後国田辺城主牧野家や関東郡代伊奈氏、真田氏に嫁いだ小松姫、仙石秀久などの墓もあります。
毎年十一月には、関東三大十夜に数えられる十夜法要や人形供養が行われます。
家康の休泊施設
鴻巣御殿
家康は、鷹狩を名目として各地に御殿や御茶屋を建築しました。
鴻巣御殿は江戸から約十二里八町、徒歩で一日の距離にある将軍のお膝元の範囲です。
そのため、上州方面に築いた忍城とともに戦略的な要衝として将軍家の休泊施設である『鴻巣御殿』が築かれました。
鴻巣御殿は慶長六年(一六〇一年)ごろ建てられたと推定され、家康、秀忠、家光と、三代にわたって使用されました。
鴻巣吹上富士遠望
『木曽街道(中山道)』六十九次の宿場が描かれた中で、鴻巣宿は、江戸の浮世絵師『渓斎英泉』によって『鴻巣吹上富士遠望』が描かれています。
歌舞伎の『白井権八(しらいごんぱち)事件』にも登場する権八地蔵で、『もの言い地蔵』として有名です。
榎戸堰公園・榎戸樋管
榎戸堰は、元荒川筋の最初の本格的な堰場で、すでに江戸時代初期には堰として設置されていました。ここで堰き止められた水が農業用水として配水されています。
榎戸樋管は、明治三十四年(一九〇一年)に、約三万二千個のレンガで作られた明治時代の貴重な建造物となっています。 」