紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き七日目の2(坂本宿)

2度目の中山道7日目の2
4月4日(土)の2


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【下木戸跡】

9:27 坂本宿下木戸跡
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案内板
「 下木戸跡

慶長七年(一六〇二)、江戸を中心とした街道整備が行なわれたとき五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道 百三十二里(約540k)が定められ、この間に六十九次の宿場ができた。その一つに坂本宿 が設けられ宿内の長さ三百九十二間(約七一三m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当時の設置場所に一部復元したものである。木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。文久元年の絵図によると、八間一尺巾(約一四、八m)の道路に川巾四尺(約一、三m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百六十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
雨が降りゃこそ松井田泊まり
 ふらにゃ越します坂本へ 」


9:28 近藤屋
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案内板
「 多才だった『武井九夏』

『九夏』は、文化十二年(一八一五)ここ、『こんどうや』に生まれる。
幼いときから学問に励みその多才ぶりは以下の自伝でもうかがい知ることができる。われ七歳にして学問に入り、九歳にして歌俳諧に心ざし、十二歳より書画に心を書しかくの如く老年に至るまで風雅をすてずと 雖も(いえども)何一つとる所なし。
ある時、竹を画きて其讚に呉竹の千尋のかげは写しても世にとどむべき一ふしもなし竹を好むによりて、またその名を竹翁の号し一筋に直なるかげを写しおく。

竹のおばなをあわれにも見る。
真弓迺舎翁 九夏
明治三十七年八十九歳で没す。

なお、同人は郷土の俳人中村碓嶺の弟子である」


9:29 米屋 米屋は屋号で、お米屋さんではなく民家です。
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刎石(はねいし)山がだいぶ近づいてきました。
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9:32 「なかむらや」
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案内板
「 『中村碓嶺(たいれい)』生誕の地

『碓嶺』は、一七九〇年(安永九年)代々旅籠屋を営んでいる『中村屋』に生まれた。
姓は仁井田であるが、中村碓嶺と呼んでいる。坂本は碓氷嶺が迫る景勝の地であるので俳号もこれに因んでいるものと思われる。
坂本宿は、街道文芸として俳諧・短歌が発達したので地元に多くの廃人が傑出した。
『碓嶺』は幼少よりこれらの影響を受け、四十数km離れた本庄に住む長庵に師事し遠路通ったという。そのため、めきめき頭角を表し当時、村上鬼城横綱とすれば、髙崎で西馬、坂本で碓嶺が両大関といわれるほどになった。
弘化三年(一八四六)没、六十七歳。辞世は、

明る夜を かくす雲なし 時鳥 」


【佐藤本陣跡】

9:33 佐藤本陣跡
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案内板
「 佐藤本陣跡

坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永十九年(一六四二)譜代大名にも参勤交代 を義務づけた。そのため、文政年間では三十一大名が坂本宿を往来した。寛政二年八月八日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京大夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊りが必然となり本陣が二軒必要だった。安政六年(一八五九)二月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は安中藩の役人宅にお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅)金井本陣)である。宿割りは脇本陣はじめとして十六宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、七月十七日朝五ッ半(午前九時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壷道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったがその反面難渋も少なくなかった。 」


9:34 永井脇本陣
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9:35 坂本公民館(酒屋脇本陣跡)
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中山道のおもかげ残す『かぎや』】

9:35 元旅籠かぎや
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案内板
「 坂本宿のおもかげ残す『かぎや』

 『かぎや』は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を『かぎや』とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に『かぎや』と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
 間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳二間に廊下、中庭をはさんで八畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
 宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。 」


【つたや、たかさごや、丸二屋跡】

9:36 元旅籠つたや(若山牧水宿泊の宿) 
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案内板
若山牧水宿泊の『つたや』

碓氷峠アプト式鉄道が開通してから十五年後の明治四十一年ごろになると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。
この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を超えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残っている宿屋『つたや』に無理に頼んで泊めてもらうことにした。
寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寥感を覚え口をついて出たのが次の歌である。

秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し
坂本の宿の 糸繰りの唄 」


9:37 小林一茶の定宿たかさごや
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案内板
小林一茶の定宿『たかさごや』

 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(一七六三~一八二七)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 それで、ひとたび一茶が『たかさごや』に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に『覗き』と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

    坂本や 袂の下は 夕ひばり 」


9:38 丸仁屋跡(石柱)
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正面「上州中山道筋坂本宿丸仁屋跡」
側面「東 江戸へ三十四里」
「西 京へ百二里」


9:39 峠の湯入口(日帰り温泉施設)
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【上木戸跡】

9:40 上木戸跡
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坂本宿は下木戸跡から上木戸跡までの713mの長さの宿場です。


9:40 橋供養碑
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上木戸の足元には、常夜燈と刻まれた石塔と並び、文政5年建「橋供養塔」があります。
正面「文政五年壬午 橋供養 五月吉祥日」
背面「宿内男女念仏講中 世話人 佐藤羊兵衛 佐藤平兵衛妻 佐藤平兵衛」
と刻まれています。
これは、群馬県中山道に残る橋供養塔6基のうちの1基だそうです。


芭蕉句碑】

9:40 芭蕉句碑
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案内板
安中市指定重要文化財
 芭蕉句碑

 江戸寛政年間(一七九〇年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連(ちくすいあんれん)が、春秋庵加舎白雄(しゅんじゅうきんかやしらお)先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ一、六七m・幅 基幅一、三七m・頂部幅〇、六m・厚さ約〇、二m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治 明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
 書体は『筑羅様』で、句は紀行文『笈の小文』にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

 ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ 

   安中市教育委員会


2度目の中山道7日目の3(碓氷峠越え前半)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/27/140537


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003