紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き25日目の2(垂井宿)

二度目の中山道25日目の2
2020年10月12日目の2


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【平尾御坊道道標】

8:11 地蔵堂
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8:11 平尾御坊道道
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8:19 ファミマでトイレをお借りして、おやつを買って食べました。


8:30 キャプテン翼スタジアム垂井
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サッカーコートやフットサルコートのある大型スタジアム、キャプテン翼スタジアムが全国に何ヵ所かあり(10箇所ぐらいあるらしい)、その一つがここ、垂井にありました。

8:33 喜久一九稲荷神社
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小さな神社ですが、境内にロシア軍艦の防弾が展示されているとか。
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依代之譜 帝国陸海軍. 現存兵器一覧」というサイトから写真をお借りしました。ありがとうございます。


【垂井追分道標】

8:35 垂井追分道標
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案内板
垂井町指定史跡 
垂井追分道標

昭和六十二年四月八日指定

 垂井宿は中山道東海道を結ぶ 美濃路 の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ一・二m、幅四十cm、表に『是より右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち』とあり、裏に『宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平』と刻まれている。
この道標は宝永六年(一七〇九)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で市長番目ほどの古さである。また、ここには高さ二mの享保三年(一七一八)の角柱の道標もあった。

平成二十一年一月
垂井町教育委員会

8:35 追分橋
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8:37 相川橋
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8:39 相川の人足渡跡
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案内板
「 相川の人足渡跡

 相川は昔から暴れ川で、たびた
び出水がありました。そのため、
江戸時代には、人足渡しによる渡川
が主でした。
 川越人足は垂井宿の百姓がつと
め、渡川時の水量によって渡賃が
決められていました。
 一方、朝鮮通信使 や姫宮などの
特別な通行があるときには、本橋
がかけられました。

垂井町教育委員会


【垂井宿東の見付】

8:39 東の見付
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案内板
「 東の見付

 垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常事には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約七六六メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる 西の見付 に至ります。

  垂井町

8:39 垂井宿観光マップと垂井宿碑
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今回は見に行きませんでしたが、2016年には垂井駅に向かう道で紙屋塚を見ました。

2016年のブログより

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写真は、紙屋塚。昔は紙は貴重品だったので、和紙の生産地を管理したのだと思います。美濃和紙の発祥地とも言われています。
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【つるや旅館と丸亀屋】

8:42 つるや旅館
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これは2016年に撮った写真です。
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営業しているのかどうかよくわかりませんが、ネット検索してみると、垂井宿で泊まることが出来る宿として上がっています。

8:43 亀丸屋
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2016年のブログより

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旅籠 亀丸屋

2016年8 月18日(木)

垂井宿入り口の追分橋→相川橋→東見付跡→旅籠亀丸屋、のルートが結構わかりづらく、2009年も今回も迷いました。

旅籠亀丸屋前に着いたのは16:48。

枡形の角に建っています。

安永6年(1777)築、江戸時代から営業していて今も泊まれる旅館として貴重な宿でしたが、数年前に廃業したそうです。

2009年秋には泊まりました。

その日の客は私一人でした。

女将が80歳で、もう一組か二組しか予約を受けないとのことでした。

当時は女性しか予約を受けないと言ってましたが、他の方のブログを見たら、 その後2年ぐらいは営業していて、男性客も受けていたようです。

しかし、私は女将手作りのお食事をいただきましたが、2年後ぐらいは他所から食事をとったり、コンビニで買ってくるように言われたりしたようです。

私が2009年に泊まった時は、1日大雨でびしょびしょで到着して、ぼろぼろだったからか、女将とは世間話だけして寝てしまい、旅館の歴史など何も聞かずに寝てしまいました。

起きたら、レインコートや傘を乾かしてくださっていて、感激しました。

今日は東見付跡からまっすぐ垂井駅へ向かった方が近道だったのですが、どうしても亀丸屋を一目見たくて、亀丸屋まで行きました。

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日本歴史街道岐阜県十七宿中山道散策ガイドより

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旅籠亀丸屋

安永6年(1777)に建てられた旅籠屋で浪花講・文明講の指定宿でもあり、県内の中山道で江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒です。 二階南側の格子、離れの上段の間等がよく残り脇本陣に準じた上旅籠屋の面影を残しています。

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【垂井宿本陣跡・南宮大社石鳥居】

8:45 旧家
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8:46 垂井宿本陣跡
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案内板
中山道 垂井宿本陣跡

 本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。
 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政一二年(一八〇〇)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。
垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。
 本陣の建物は、安永九年(一七八〇)に焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。

垂井町教育委員会

8:47 旧家
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8:48 南宮大社石鳥居
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案内板
「 南宫大社大鳥居

 寛永十九年(一六四二)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居 は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛 が建てた。
 横幅(内側)四五四・五cm頂上までの高さ七一五cm 柱の周り二二七cm。
 正一位中山金山彦大神 の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡である。

垂井町


【旧旅籠長浜屋・小林家住宅主家】

8:50 旧旅籠長浜屋(今はお休み処になっています。)
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観光情報「観るなび」より

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浜屋

浜屋は江戸時代旅籠屋として栄えました。天保2年(1831)13代将軍徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊したおり、お輿担ぎ23名が泊まったという記録があります。その後鉄道の開通により旅人が減少したため、酒屋となり、平成10年頃まで営業していました。現在は地元も有志の方により垂井宿の休憩所として土日祝日に開店しています。

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8:51 小林家住宅主家
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案内板
「 国登録有形文化財
小林家住宅主家
平成二十五年十二月二十四日登録

 当家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治十四年(一八八一)に譲り受け、昭和初期まで『亀屋』の屋号で旅籠を学んできた建物です。
建築された年代ははっきりしませんが、幕末頃には建てられていたものと考えられます。切妻造瓦葺 つしニ階建平入りの建物で、ニ階には両側面に袖卯建 を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っています。
 外観、室内とも幕末の豊かな商家に相応しい品格を持っており、防火対策が随所に残された貴重な建物です。

平成二十六年三月
垂井町教育委員会

8:51 本龍寺・明治天皇垂井小休所
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日本歴史街道岐阜県十七宿中山道散策ガイドより

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本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。 松尾芭蕉は元禄4年(1691)この手の住職規外を訪ね、冬籠もりして「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを詠みました。 文化6年(1809)住職里外と白寿坊がここに作り木塚をつくりました。 安政2年(1855)化月坊が住職世外とで時雨庵を建てています。 また寛永11年(1634)7月、3代将軍家光が上洛途中朝食をとられ、明治11年(1878)10月に明治天皇が北陸東海両道御巡幸の折、この寺で御小休されました。

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【西の見付】

8:55 西の見付
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案内板
「 西の見付

ここは、垂井宿の西の入口になる西の見付である。現在は、南側のみが昔の面影を伝えている。非常事態が発生した場合は見付を閉鎖し、宿場の安全を図った。
歌川広重作木曽街道六十九次の垂井宿の絵は、この付近から西側を描いている。雨の降る松並木の中を、粛々と大名行列が宿場へ向かっている。裸足で歩く宿役人が行列を先導する。道の両脇には茶店があり、主人と客が下座して迎える。松の木や見付、茶屋などがほぼ左右対称の構図をなし、中央を走る街道の遠近感を際立たせている。奥行きとともに格式や緊張感を盛り上げる点で街道を描いた版画の傑作といえる。

垂井町商工会 」

広重の垂井宿
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8:51 八尺堂地蔵尊
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八尺堂地蔵尊

ここの南、200mほどに地蔵堂があるそうです。垂井宿本陣の母が夢に見て、地下八尺から掘り出したという大日如来の石像で、八尺四方の堂を建て大切に祀られてきたそうです。


二度目の中山道25日目の3(垂井宿から関ヶ原宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/14/060850


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003