二度目の中山道25日目の1
2020年10月12日(月)の1
【お茶屋屋敷跡】
5:00 起床 大垣のホテルです。
6:05 チェックアウト
6:35 美濃赤坂着
身支度して
6:49 出発
6:55 お茶屋屋敷跡
案内板
「 岐阜県指定史跡
お茶屋屋敷跡
お茶屋とは、江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設である。美濃赤坂のお茶屋屋敷は、慶長十年(一六〇五)に完成し徳川家康・秀忠らが宿泊した。
本史跡は、残された記録類や他のお茶屋の事例より、約一七〇メートル四方の方形区画で、御殿を中心に建物が配され、四隅には櫓も備えていたと推定される。
現在は、空堀や土塁などが良好に残り、城郭的要素をもつ貴重な遺跡として、昭和五一年に県の紫関指定を受けている。
6:57 正安寺
7:00 矢橋家住宅
【脇本陣跡】
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かつての赤坂宿の脇本陣です。赤坂宿では唯一の脇本陣で、宝暦年間(1751-1764年)以後脇本陣を勤め、問屋と年寄役を兼ね、明治まで及びました。明治維新後、建物の一部が解体され、町役場となりましたが、母屋は近年まで榎屋旅館として営業してきました。残っている建物には、賊の侵入を防ぐために紙でできた天井や槍が残り、宿泊者を記載した大福帳も残っています。
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7:01 二軒並んだ旧家
7:02 徳川家康公開運の地赤坂宿
案内板
「 中山道 赤坂宿
徳川家康公にあやかり
福にめぐまれ
運にめぐまれ
幸せこのうえなし
誰しもこんな人生に
あやかれますように
徳川家康公
開運の地
赤坂宿は江戸から五十七番目の宿場 」
7:02 妙法寺 史蹟 戸田三弥墓
戸田三弥は、大垣藩家老。車線術を研究していた時期があるそうです。
7:03 所郁太郎生誕地
所郁太郎は幕末のブラックジャック?長州藩からイギリスに密航留学した長州ファイブの一人、井上聞多の命を畳針50針縫って救った外科医。(オペは4時間かかったそうです)しかし、28歳の時、腸チフスで亡くなりました。
【兜塚・御使者場跡】
7:08 兜塚 御使者場跡
ここは兜塚であり、赤坂宿御使者場跡でもあります。
御使者場とは、大名が宿場に入るとき、宿役人や宿主が出迎えた場所。
兜塚は、関ヶ原の前哨戦「杭瀬川の戦い」で戦死した武将の鎧兜を埋葬した跡だそうです。
案内板
「 兜塚
この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川 の戦に笠木村 で戦死した東軍、中村隊の武将野一色頼母 を葬り その鎧兜を埋めたと伝えられている。
以後 この古墳は兜塚と呼ばれている。
大垣市教育委員会 」
案内板
「 兜塚 関ヶ原の戦い
この塚は兜塚と呼ばれ、関ヶ原の戦いに東軍として参戦した仲村一栄(かずひで)の家老で、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母(のいっしきたのも 助義すけよし)が鎧兜とともに葬られたと伝えられている。
東軍は、慶長5(1600)年8月23日に岐阜城を落とした後、中山道赤坂宿に集結。大垣城に集結する西軍と、杭瀬川を挟んで約4キロメートルの距離で睨み合っていた。関ヶ原の戦い本戦の前日である9月14日、徳川家康が赤坂宿に到着し、岡山の本陣に入ると、西軍は予期せぬ家康の到着に動揺したという。
そこで西軍は、石田三成の重臣島左近(しまさこん 清興きよおき)の献策を容れ、東軍と一戦を交えて士気を高めるべく、宇喜多秀家の家臣明石掃部(あかしかもん) (全登てるすみ)を後詰めにし、兵約五百を率いて出陣した。左近は杭瀬川を渡ると放火や刈田をして東軍を挑発したため、頼母らが反撃した。頼母の活躍はめざましく、岡山からその用兵を見ていた家康を喜ばせたという。
しかし、左近が退却するふりをして杭瀬川を越え、伏兵とともに反撃に転じたため戦況は一変し、頼母は兵30とともに討ち取られた。とうがんは有馬豊氏(とようじ)が援護に向かったものの西軍に阻まれているうちに、家康が井伊直政、本多忠勝らに命じ兵を引かせたため、杭瀬川の戦いは西軍の勝利で終わった。
この日の夜、両軍は関ヶ原へと向かい、翌日の本戦を迎える。 」
【昼飯大塚古墳】
7:15 昼飯大塚古墳
大垣市ホームページより
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国指摘史蹟 昼飯大塚古墳
昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。その特徴は墳丘の長さが150mにもなることやその構造が三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という3つの埋葬形態が存在する点にあります。
保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています。
古墳の築造年代
4世紀末(古墳時代中期)
2016年のプログより
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【昼飯大塚古墳】
2016.8.18.
赤坂宿を出ると、史跡の里、青墓町。
なんだか好きじゃない地名だなあと思っていたら、この地は古墳が多く、大墓と呼ばれ、これが青墓に転化して地名となったそうです。
最初に昼飯大塚古墳を見学しました。
昼飯(ひるい)伝説。本多善行(よしみち)が難波の海から拾い上げた三尊仏(善光寺如来)を信濃に運ぶ途中、ここで昼食をとった、とか。
昼飯大塚古墳は前方後円墳で、後円の部分の一部を復元しています。
写真は、古墳の上に親子が立っているので、大きさがわかると思います。
こちらの写真は、復元部分。角張った石を積んだ肌。土器のようなものが並んでいます。
ここに上ったら、結構高くて、急な階段を下りるのが怖かった。
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7:24 竹を彫ったアートが並んでいました。
その中の、
「笑顔でいるとどんなことでもうまくいく」
が心に響いて、写真を撮りました。
7:26 旧早野邸セミナーハウス
素敵な古民家だと思ったら、岐阜大学の施設のセミナーハウスでした。
岐阜大学ホームページより
旧早野邸セミナーハウス
コンセプト
・旧中山道沿いの古民家を活用した本学の新たな活動の場
・古民家の歴史と文化の趣のある空間の継承
・教育の場、学術研究のフィールドワークの活動拠点
・歴史的資料等の展示
・地域へのサービスの提供と交流
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7:27 地蔵堂
善光寺如来が、難波より信濃へ向う途中、お昼の供養をした関係から、建久六年に僧の定尊が、村東の花岡山 の上に三尊仏を安置し、名を如来寺としました。後年、織田信長の兵火にあい当地に移り、秘仏となりました。又、御本尊の開帳は十五年に一回行われています。
(大垣市青墓篇 より)
御本尊は善光寺の分身仏としては日本
で最初のものです。特に、一体分身の如来といい、現在は大垣市重要文化財 の指定を受けています。
(昼飯善光寺分身略縁起 より)
大垣市立青墓小学校 」
当寺の本尊は長野善光寺の三尊仏の
尊影を模刻した仏像であることから、
善光寺式阿弥陀三尊仏と呼ばれている。
この仏像は鎌倉時代の作と伝えられ、
法身は中央の阿弥陀如来像が四九・五
センチメートル、脇侍の観音菩薩像、
勢至菩薩像がともに三三・五センチメー
トルと三体の均整がとれた作風であ
る。また、三尊が一つの光背に納まっ
ている一光三尊仏 であり、善光寺の分
身仏にふさわしい浄土来迎を思わせる
紋様も彫刻されている。
案内板
「 『昼飯町の由来』
むかし、善光寺如来 と言う仏像が、大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像をはこぶ人々が、青墓の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れるすばらしい光景です。善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、美しい景色に見とれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりました。しかし、その呼び名が下品であると言うので、その後、飯の字を『いい』と音読みにして『ひるいい』と呼ばれるようになりました。でも、『いい』は発音しにくいため、『い』の一字を略して『ひるい』と呼ばれるようになりました。また、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸 」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと言うことです。
(大垣市史 青墓篇 より)
大垣市立青墓小学校 」
7:30 昼飯町交差点
JR東海道本線昼飯架道橋潜りました。
【粉糠山古墳】
踏切を渡って暫く行くと、右に粉糠山古墳入り口がありました。今回はパスしましたが、2016年には見に行きました。
2016年のブログより
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【粉糠山古墳】
2016.8.18.
昼飯大塚古墳を見たから、もういいかな、と思ったら、粉糠(こぬか)山古墳は美濃地域最大の前方後円墳と書いてあったので、見に行きました。
現役の墓地の墓丘になっていました。
青墓は鎌倉時代、東山道の宿駅として栄え、遊女の里として知られていたそうですが、粉糠山は遊女たちが化粧に使った粉糠が積もり、山になったという伝説があるそうです。
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7:36 白髭神社
山がきれいに見えました。後で調べたら、伊吹山です。
【照手姫水汲井戸】
7:40 照手姫水汲井戸入口
7:41 照手姫水汲井戸
2016年にここに来たときに書いたブログより
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2016.8.18.
昔は小栗判官照手姫の物語は、安寿と厨子王と並ぶ有名な物語だったようです。
私は歌舞伎の演目にあるという程度の認識でした。
2008年秋に東海道を歩いた時に、藤沢の遊行寺で小栗判官の墓と照手姫の墓を見ました。
伝説というのは異説もたくさんあるもので、ヤマトタケルの墓は三つあるし、小野小町の墓も何ヵ所もあります。
小栗判官照手姫の伝説もいろいろあるようですが、青墓の照手姫水汲井戸の前に立てられた解説板の内容を紹介します。
案内板
「 照手姫の水汲み井戸
昔、武蔵・相模(今の神奈川県)の郡代(郡の代官)横山将監に女の子が生まれ、 照手姫と名付けられ成長しました。
目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になりまし
た。その話を聞いた常陸の国(今の茨城県)の国司小栗判官正清は、使者も立てず強引に婿入りしてしまいました。そのため、父親の将監がたいへん怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。
照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい、最後に美濃国青墓の長者『よろづ屋』に買われることになりました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、照手姫は拒み通しました。怒った長者は、『一度に百頭の馬にかいば(馬のえさ)をやれ』、『籠で水を汲め』、『十六人分の炊事を毎日一人でやれ』などと、無理な仕事を言いつけました。
照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続けましたが、日頃信仰していた千手観音菩薩の助けで、普通の人間にはできそうもない仕事を成し遂げることができたのです。
一方、毒酒に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言
兼家の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命されました。
その後、照手姫が青墓に居ることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです。
◎この井戸は、照手姫が、籠で水を汲んだと伝えられています。
◎照手姫のお墓はここから約百米北の圓願寺(お寺は焼失)境内にあります。
明るい青少年都市市民会議青墓支部
青墓校区青少年育成推進会 」
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【芦竹庵と照手姫の墓】
7:44 圓願寺 芦竹庵(よしたけあん)
7:45 青墓の芦竹庵
案内板
「 『青墓の芦竹庵 』
牛若丸 (後の義経)は、京都の鞍馬山で修業を終え、金亮吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびようとしました。青墓の円願寺 (円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきた芦の杖を地面につきさし、『挿しおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば 芦竹となれ』の歌を詠み、東国へ出発しました。
その願いが仏道に通じたのか、その後、杖にしてきた芦が、大地から芽をふき根をはりました。そして、見事な枝に竹の葉が茂りました。しかし、根や幹はもとのままのでした。
このめずらしい竹は、その後もぐんぐんと成長し続けました。それで、このめずらしい竹を『芦竹』と呼び、この寺を芦竹庵 と呼ぶようになりました。
(青墓伝説より )
大垣市立青墓小学校 」
小篠竹(こしのだけ)の塚
案内板
「 小篠竹の塚
青墓にむかし照手姫 という遊女あり
この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にも出せり
その頃 両人ありし候や詳ならず
(木曽路名所図絵 より)
一夜見し 人の情にたちかえる
心に残る 青墓の里
慈円 (後の慈鎮)
『天台宗座主 愚管抄の作者 』
大垣市立青墓小学校 」
この塚が照手姫の墓と言われているそうです。
【朝長公の墓】
7:47 大谷川の手前の標柱
「中山道 青墓宿」
左側面には、
「圓願寺 朝長公墓 西町 大谷川 」
朝長の墓は円興寺にあるので、この評注の意味がわかりません。圓願寺と円興寺を見違えたのか?
もしかしたら、この場所から、
右 圓願寺(照手姫の墓)
左 朝長公の墓
という道標なのかもしれません。
【フリズナ化石】
2016年には見たのに、今回見つけられなかったりパスしてしまったものは結構あります。
2016年のブログより
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【マンゴーパフェとフズリナ化石】
2016.8.18.
大谷川を渡り、県道を渡ったところにミニストップがあり、マンゴーパフェ(写真)を食べて休憩しました。
県道から見ると斜めに入る細い道を進みます。
その国分寺への道に入ってすぐ左に教覚寺という寺があり、寺子屋跡という小さな看板もありますが、ここの鐘楼(写真)の石垣にフズリナ化石が露出しているというので、見に行きました。
実は、フズリナ化石って、よく知らずに見に行ったため、石垣の写真を数枚撮った内、一番特徴的に撮れているのがこちらの写真です。
知っていれば、もっとわかりやすい写真が撮れただろう、と残念です。
写真の小さめの白玉(少し細長い丸)がいくつかありますが、多分これです。
紡錐形(蚕の繭みたいな形)の虫だそうです。
2009年秋に歩いた時は、雨だったため、パスして通りすぎてしまったようです。
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7:57 立派な門
【青野ヶ原の一里塚跡】
8:00 青野ヶ原の一里塚跡(常夜燈)
江戸から111里目。遺構は何も残っていないそうです。
8:08 駒引稲荷神社と地蔵堂
二度目の中山道25日目の2(垂井宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/13/171717
二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003