紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の中山道六十九次歩き7日目の1(横川駅から坂本宿への道)

2度目の中山道7日目の1
2020年4月4日(土)の1


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【碓氷関所跡】

始発に乗り、青春18きっぷで横川までやって来ました。


8:48 横川駅から出発。
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前回、2度目の中山道6日目の3月14日は雨で見ることが出来なかった妙義山が目の前に聳えています。
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8:51 村社諏訪神社入口
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8:54 碓氷関所東門の位置
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関所跡の門は階段の上。桜が綺麗に咲いています。
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階段を上がって門をくぐり、「おじぎ石」を見ました。
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案内板
「 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を受けた。

松井田町教育委員会

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案内板
「 碓氷関所の沿革
碓氷関所保存会

 東海道 箱根関所 と並び称される中山道 碓氷関所 が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。
 寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子が国元へ逃げ帰るのを防いだのです。
 しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所の改めもゆるやかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化され、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。
 碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と束門(安中藩管理)で区切り、あいだの五二間二尺(約95メートル)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峰番所を置いて二重に監視しました。

関所役人
番頭 2人 安中藩士。1日交代で勤務。上席者が決裁権を持つ。
平番 3人安中藩士。番頭を補佐。
同心 5人代々関所に定住し定付同心ともいわれ、手形受付・罪人追捕などの実務を担当。
門番 4人 幕府の門である西門は、代々定住の西門番2人。安中藩管理の東門は領内採用の東門番2人が通いで勤務。
改女 2人西門番の妻女が交代で勤務。
中間 4人 近村の領民。関所内の案内整理、雑役などを担当。
平番長屋跡に復元された関所門の門扉2枚・門柱2本・屋根材6点は廃関当時のものです。 」

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案内板
「 碓氷関所の門

醍醐天皇の昌泰2年(899年)に群盗を取り締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623年)といわれ、
幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、
いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。
明治2年(1869年)廃関されるまで中仙道の要所となった。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた
堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、
東京大学教授工学博士 藤島亥治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。

松井田町教育委員会
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8:59 国道18号に合流。
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【川久保橋と薬師坂】

9:01 霧積川の川久保橋を渡ります。桜がきれい。
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案内板
「 川久保橋

碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は、正しくは碓氷御関所橋と呼んで中仙道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的かを優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。こりため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。細い麻縄を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を操り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。大名の渡河に際しては、番頭も川原に罷り出て見届けた。 」


国道18号線は左に大きくカーブしていますが、旧中山道はまっすぐに進みます。


9:02 薬師坂入口
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9:03 川久保薬師如来
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案内板
「 薬師坂にお座す薬師堂

元和九年(1623)碓氷関所 が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた。そこで、無事通過の願いと感謝を込めてこの坂に薬師如来 を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太を商う店があり旅人たちは、ここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場であった。このところから心太坂といわれ親しまれた。
薬師如来は、治癒に霊験あらたかということで近郷からの参拝客も多くあり、例祭が桜咲く四月十八日なので市も立つほどの賑わいぶりであった。
現在では、その影もひそめ地元で講を開き本堂を守っている。 」


9:10 薬師の湧水
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群馬県の42名水のひとつ。

https://ginzastc.aikotoba.jp/page036.html より

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28 川久保薬師の湧水
    群馬県安中市松井田町原53

 元和9年(1623)碓氷関所が開設されました。 旅人は、無事通過の願いと感謝をこめてこの坂に薬師如来をまつる薬師堂が建立されました。 また、近くに清澄な湧水があるところからここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場でありました。 薬師如来は、治病の仏と信仰され、特に湧水で洗顔すると眼病の治癒に経験あらたかということで近郷からの参拝客も多くありました。
 国道18号線、碓氷川にかかる橋を渡るとすぐ右側に「川久保薬師坂」と書かれた石碑が見えます。 この坂を上るとすぐ左側に薬師堂が見えます。 さらに10mほど登ると左側に水場が見えてきます。 祠の下の穴から冷たくきれいな水がこんこんと湧き出て四角い囲いの中に流れています。

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9:13 中山道道標
←坂本宿0.9km →松井田宿7.4km
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暫くはまっすぐな道を歩きます。正面に見える山は刎石(はねいし)山です。
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振り返ると妙義山が見えます。
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11年前のブログより

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高速道路の下辺りに、「みんなのトイレ」があって、助かりました。

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今回はまだトイレへは行きませんでした。


9:20 中山道道標
→坂本宿0.5km ←松井田宿7.8km
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9:20 旧家
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【原村の水神宮】

9:22 水神宮
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案内板
「 原村を潤した水神

当祠は水神 を祀ってある。もとは、現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。坂本宿 が整備される以前に原村は、四十戸あまりの集落があって、中山道間延絵図 によると、道路の端に流れてきた堀を屈折させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として利用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。
水神は、川・井戸・泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることから、ともすれば粗略に扱い勝ちである。水神を詣でることで水への再確認を深めたいものである。清き水掬して喉を潤へり 峠越えゆく気のみなぎりけり  古歌 」

9:27 石塔 文化9年(1812)建立「奉納 西国四国秩父坂東 天下泰平」と刻まれています。
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2度目の中山道7日目の2(坂本宿)に続く       
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/05/26/181115


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003