紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

碓氷関所

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案内板
「 碓氷関所の沿革
碓氷関所保存会

 東海道 箱根関所 と並び称される中山道 碓氷関所 が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。
 寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子が国元へ逃げ帰るのを防いだのです。
 しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所の改めもゆるやかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化され、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。
 碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と束門(安中藩管理)で区切り、あいだの五二間二尺(約95メートル)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峰番所を置いて二重に監視しました。

関所役人
番頭 2人 安中藩士。1日交代で勤務。上席者が決裁権を持つ。
平番 3人安中藩士。番頭を補佐。
同心 5人代々関所に定住し定付同心ともいわれ、手形受付・罪人追捕などの実務を担当。
門番 4人 幕府の門である西門は、代々定住の西門番2人。安中藩管理の東門は領内採用の東門番2人が通いで勤務。
改女 2人西門番の妻女が交代で勤務。
中間 4人 近村の領民。関所内の案内整理、雑役などを担当。
平番長屋跡に復元された関所門の門扉2枚・門柱2本・屋根材6点は廃関当時のものです。 」

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案内板
「 碓氷関所の門

醍醐天皇の昌泰2年(899年)に群盗を取り締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623年)といわれ、
幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、
いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。
明治2年(1869年)廃関されるまで中仙道の要所となった。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた
堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、
東京大学教授工学博士 藤島亥治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。

松井田町教育委員会